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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)大正湯のあゆみ②

 エ 父の後を継ぐ

 「私が八幡浜に帰ってきてこの仕事を始めたのは昭和42年(1967年)です。その時に父は銭湯の仕事を引退しました。当時の入浴料金は、大人が24円、子どもが15円でした。現在、大人は360円です。これは県の入浴料金審議会(業者・行政・学識経験者で構成)というのがあり、約1年半ごとに見直しをするのですが、物価統制令の適用を受けるため、それ以上は料金を高くできないのです(物価統制令は昭和21年公布。現在この適用を受けているのは公衆浴場のみとなっている。料金の上限は各都道府県知事が決定することになっている。)。現在多くなっているスーパー銭湯は、組織がぜんぜん違うもので、物価統制令の適用外です。私が若いころには、散髪屋の料金から0を引いたら(最後の0を取ったら)風呂屋の料金とよくいわれました。私が父から後を継いだ時、ボイラー室の2人の男性従業員はいましたが、脱衣所の女性従業員はいませんでした。もう必要がなくなったのです。
 私は昭和43年(1968年)に汽罐士(きかんし)(ボイラー士)の資格を取りました。資格を取るために、愛媛県ボイラー協会が東・中・南予それぞれで3日ぐらい実施する講習を受け、学科試験をパスしました。資格は取りましたが、実際のボイラーの扱い方に慣れてないので、従業員のやるのを見て覚えました。なんとかボイラーを扱えるまでに半年くらいかかりました。
 父の後を継ぐことは小さい時から決めていたわけではありません。大学進学で東京に出て、しばらく向こうにいたのですが、父に呼び戻されたのです。後を継いだ昭和42年当時は、まだまだお客さんは多かったです。現在の営業時間は15時から20時くらいですが、当時は22時までやっていました。」

 オ 木桶からプラスチック桶に

 「浴室で使っていた木の桶(おけ)は昭和50年(1975年)ころにプラスチックに変わりました。イスもプラスチックになり、風情がなくなりました。木桶のころは、風呂場に『カラン、コロン』と独特の音が響いていました。現在の風呂桶はケロリンのプラスチック製です。銭湯はケロリンのものが多いです。」
 ケロリンは、内外薬品の頭痛薬の名称である。昭和38年に睦和商事という会社が、内外薬品に『風呂桶にケロリンの広告を出しませんか。』と持ちかけ、最初東京の銭湯に置かれた。衛生上の問題から、木桶が合成樹脂に切り替えられる時期であったため、全国に波及していった。関東のものに比べ関西のケロリン桶は少し小さい。関西では湯船から桶でかけ湯をする習慣があり、関東版だと湯が入りすぎて重くなるからである。また、初期は白色であったが、白は汚れが目立つため黄色に改められた。
 「うちの煙突は、昭和26年(1951年)に建て替えました。高さは15mありますが、別に基準はありません。今ごろの銭湯は低い鉄製の煙突が多いです。重油を燃料としているのであまり煙が出ないからです。うちはおがくずや木を燃料とし、黒い煙が出るため、近所迷惑にならないように高い煙突を作ったのです。
 電気湯、薬湯は戦前からあったと思います(図表2-1-2、写真2-1-5参照)。現在、電気湯は使っていません。電気湯は専門の機械が釜場にありました。髪の毛くらいの太さの電線をコイルに巻いていて、1秒間に何回か電気が入ったり切れたりします。これが電気湯の両端にある銅版に流れ、お湯に伝わるのです。平成11年(1999年)に故障し、修理するところも新品を売っているところもないため、使用できなくなったのです。現在、電気湯のある銭湯は少なくなってきました。
 薬湯は昔から六一〇ハップ(ムトウハップ)という黄色い入浴剤を入れていました。全国の銭湯がこれを薬湯に使用していたのです。しかし、これに含まれるイオウ成分が硫化水素自殺に使われることが問題になったため、昨年(平成20年)生産中止になりました。現在は薬局で売っている家庭用入浴剤を使っています。
 お客さんが体を洗うのは、カランの前か湯船の周りのどちらかですが、これは地域によって特徴があるようです。うちは湯船のお湯を使って体や頭を洗うお客さんが多いようです。
 昭和40年代後半までうちの浴室にも壁画がありました。壁画は、浴室に入って正面の壁に、海に帆掛け舟、岩に松の木、そして富士山が描かれていました。壁画のサイズは、縦2m、横3m余くらいだったでしょうか、壁一面ではありませんでした。壁画は壁に直接描くのではなく、油絵のキャンパスのような布地をはり、それに描いていました。壁の改装をして石膏(せっこう)ボードに変えた時に絵はなくしました。東京の銭湯はだいたい浴室に壁画があるようですが、それでも東京で銭湯の壁画を描く職人は2人しかいなくなったそうです。今は業者が壁画用のタイルを張ったりしているため、絵師は商売として成り立たなくなったのではないでしょうか。うちの浴室の壁画は、地元の看板屋さんに頼んでいました。壁画の下に広告のスペースが10マスほどあり、地元の知り合いの業者の広告を載せていました。広告料で壁画の制作費を浮かしていたのです。
 昭和50年代まではコーヒー牛乳やヨーグルトなどの飲料も扱っていましたが、現在は置いていません。子どもの客が減って売れなくなったからです。石鹸(せっけん)やタオルなど簡単な入浴用具は今でも番台で売っています。
 昔は指名手配のポスターを脱衣所に貼(は)っていましたが、最近は警察も持ってこなくなりました。昔市内にあった昭和館や八幡浜劇場の映画や芝居のポスターも貼っていました。
 脱衣所のロッカーは創業時からのものです。脱衣所の鏡や体重計は昭和20年代に設置したと思います。マッサージイスや、女性脱衣所のイス型ドライヤー、男性脱衣所のコイン式ドライヤーなども昭和30年代、40年代の名残です。脱衣所の天井にあるプロペラ式扇風機も昭和30年代のもので、今も風呂上りにお客さんが縁台に座って涼んでいます。」

図表2-1-2 大正湯平面図

図表2-1-2 大正湯平面図

現地調査により作成。

写真2-1-5 風呂場

写真2-1-5 風呂場

八幡浜市大正町。平成21年6月撮影