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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)今日の銭湯

 ア 銭湯の1日、1年

 「銭湯の一日の仕事ですが、朝は比較的ゆっくりで、9時半か10時ころに起き、午前中に保内町へ焚(た)き物の木を取りに行きます。お昼前から焚き始めて3時の営業時間に間に合うように準備します。後を継いだ昭和42年ころは、開けるのが13時と早かったため、朝10時ごろから焚き始めました。夜も10時か10時半まで営業していました。閉めてから風呂場の掃除をしていたら11時ごろになりました。当時は男の従業員が3人いたので、1日1人ずつ交代で掃除しました。残ったお湯は下水に全部流します。結局寝るのは夜中過ぎ、12時、1時になります。夕食は7時か8時ころに交代でとりました。
 現在、営業時間中に私はボイラー室におります。番台には妻が座ります(写真2-1-6参照)。母は、現在86歳(大正12年生まれ)になりますが、10年ほど前までは妻と交代で座っていました。
 時間帯によりお客さんの年齢層は違います。早い時間や遅い時間はお年寄りが多いです。遅い時間は、商売をしている人が店を閉めてから来ます。店を閉めて晩ご飯を食べてから来ると、どうしても7時半、8時になるのです。若いお客さんは、仕事が終わって晩ご飯前の6時くらいにやってきます。昔、赤ちゃんがよく来ていたころは、営業時間の最初のまだお湯がきれいなころに来ました。赤ちゃんを寝かせる台は、現在でもあります。ここで赤ちゃんの母親が入浴をすませるまで、従業員のおばちゃんが服を着せて面倒をみていました。現在、赤ちゃんは来ません。
 1年のうち、冬と夏では水温・気温が違うので、お湯を沸かす時間が違います。冬に比べて夏は沸かす時間が30分くらい短くて済みます。お客さんも夏の間は熱いお湯を好みません。それが冬になれば水温も低いうえ、お客さんが熱いお湯を好むので、沸かす時間がかかるのです。松山などでは組合で申し合わせて5月5日の端午の節句の日には菖蒲(しょうぶ)を浴槽に浮かべたりするらしいのですが、うちはやったことがありません。12月の冬至の日の前後に3日ほど、知り合いの柑橘(かんきつ)農家から分けてもらったユズを入れたことはあります。
 浴槽内の湯加減の調整はお客さんがしてくれます。お客さんが浴槽にある蛇口をひねって水やお湯を入れてくれるのです。熱いお湯が好きなお客さんが多ければお湯をよく入れるし、ぬるめの湯が好きなお客さんが多いときには水が多く入ります。夏と冬とではお湯の消費量が全然違います。夏は冬の半分から3分の1くらいです。冬はお客さんも温もりたいし、かけ湯も多いのです。それに浴場自体湯気が充満して温まらないといけませんが、それまでに大量のお湯が必要なのです。」

 イ 少なくなった銭湯

 「私の父の時代に、八幡浜には13軒くらいの銭湯があったといいます。戦前の話です。戦後は10軒になりました。これが昭和40年ころまで続きました。うちに比較的近いところに昭和温泉、須崎湯、敷島湯、八山(はやま)温泉などがありました。銭湯の立地には距離制限がありまして、だいたい500m(愛媛県の条例によると300m)の間隔が必要でした。昔、酒屋さんも何メートル間隔といった話を聞いたことがありますが、銭湯も共存共栄のための縄張りのようなものがあったのです。組合が自衛策としてそうした規定を作ったのではないでしょうか。
 後継者問題とか、商売替えなどで昭和45年(1970年)ごろからぽつぽつ廃業者が出てきました。それぞれの家にお風呂ができた影響が大きいと思います。高度成長期には、家を建てるときに大概の家でお風呂を作りました。10軒あった旧八幡浜市内の銭湯も、現在はうちと白浜温泉の2軒だけになりました。やめた銭湯は跡地が駐車場になっているところが多いです。銭湯だけでなく、大正町や矢野(やの)町界隈の商店もやめるところが増えてきました。やめて貸し店舗にしても借り手がないのが現状です。お客さんが少なくなったため、やっていけなくなったのです。
 銭湯をめぐる状況は厳しいものがあります。私もこの湯沸かし器(ボイラー)が壊れたらやめようと思っています。後継者はおりません。白浜温泉さんも同様で、そのうち八幡浜から銭湯は消えそうです。銭湯の組合は八幡浜にもありますが、2軒では組合の体をなしていません。」

 ウ 高齢者の社交場に

 「お客さんの年齢層も私が始めたころより大きく変わりました。極端な高齢化が進んだのです。現在子どものお客さんは1日に3~5人しかいません。お客さんが高齢化したのは、このあたりの街の住民全体が高齢化したというのも理由の一つでしょう。私が始めたころは子どもの客も本当に多く、お客さんは日に何百人も来ていました。現在は1日60人くらいでしょうか。客が少なくなったので従業員を雇う余裕はなく、家内と2人でやらざるを得なくなりました。
 昔は地域の社交場として、老若男女、住民同士がお湯に浸(つ)かっていろいろな話をしていました。入浴マナーについては、親でなくても、子どもがそのままお風呂に入ろうとすると、『おちんちんを洗ってから入れ。』などと、そばにいる大人が注意することがよくありました。現在はそういう会話はなくなり、顔見知りの高齢者同士のコミュニケーションの場になっています。極端な話、番台にうちの妻が座っていなくても、近所のなじみのお客さんは入浴料360円を番台に置いて勝手に入るという状況なのです。脱衣所のロッカーの上には常連客の風呂桶と入浴道具が置きっぱなしになっています。自宅に風呂があっても、高齢になり、風呂掃除するのが大変なのでうちに来る人も多いようです。連れ合いがなくなり、1人暮らしになったお年寄りはなおさらです。うちに来れば同じような人と話もできます。高齢者が多いため、風呂に入って湯あたりをする人や、気分が悪くなるお客さんも年に何人かいます。2年に1回くらい救急車を呼ぶこともあります。昔はそういうことはなかったのです。」
 **さんのお話から、戦後の銭湯の歩みと地域の様子を知ることができた。昭和の街かどにあって、老若男女が集う地域の社交場、人々の1日の疲れをいやす場として歩んできた銭湯も、家庭風呂の普及等による客の減少や、後継者不足により厳しい状況に置かれているのである。

写真2-1-6 番台

写真2-1-6 番台

八幡浜市大正町。平成21年9月撮影