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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)レンズを通してみる地域の人々

 ア 明治創業の写真館

 世界最初の写真は、1826年フランスの発明家ニエプス(1765~1833年)がアスファルトを感光版として自分の家から見える風景を撮影したものといわれている。この写真は感光時間が8時間におよぶうえ、画像も鮮明とはいえなかった。日本にカメラが伝来したのは嘉永元年(1848年)で、オランダ船により長崎出島にもたらされ、薩摩の島津斉彬(1809~1858年)に献上された。このカメラで撮った写真が日本初の写真とされる。日本で初めての写真館は、文久2年(1862年)下岡蓮杖(しもおかれんじょう)(1823~1914年)が横浜に、上野彦馬(うえのひこま)(1838~1904年。坂本竜馬の肖像写真を撮影したことで有名。)が長崎に開設したもので、2人は日本の写真術の祖と言われている。幕末から明治初年にかけて、写真はまたたく間に日本全国に広まっていった。
 昭和に入り、35mmカメラなど持ち運びに便利なものが登場したため、写真は更に普及していったが、カメラは高価であったため、一般家庭には普及しなかった(昭和11年〔1936年〕に国産ハンザキャノン35F3.5が275円、ドイツのライカ製AズマールF2が650円、コンタックス2眼レフが1,600円。昭和12年の公務員初任給は75円だった。)。
 笹川写真館の創業からの歴史について、**さんは次のように話す。
 「うちは明治時代に創業しました。私で3代目になります。父がやっていた当時の写真館は、現在地で古い土蔵みたいな建物を改造してスタジオにしていたようです。創業当時は、大洲城の三の丸、現在市民会館がある辺りに店(笹川謹写)がありました。肱川橋(大正2年完成)が架かった後、父の代に現在地に移ったのではないかと思います。
 うちが創業したころに大洲市内に写真館はなかったと聞いています。お客さんが、複写してくれと店に持ってくる古い写真の裏には、撮影した写真館の名前と年月日が書いてあることが多いのですが、うちの名前が書かれてある一番古い写真は明治22年(1889年)のものでした。明治22年には写真館の仕事をしていたということで、今のところ創業は明治22年としているのです。今後もっと古い証拠が出てくるかもしれません。もともとうちは大洲藩の武士であったらしいのですが、明治になって新たに職を持つ際、祖父が新しいもの好きであったため、写真館を始めたのでしょう。
 父の時代に撮った昭和10年ころの写真を見ると、従業員が4人おり、手広くやっていたようです。うちの前を通る国道(56号)はまだ舗装されていません。このころ大洲市内には、うちを含め4軒くらいの写真館ができていました。現在でも大洲市内に写真館は4、5軒あります。カメラ屋を入れると10軒ほどになります。
 私がこの写真館の仕事を始めたのは昭和30年(1955年)ころです。父が写真館の仕事をやめたのが昭和21年で、その後しばらくは、おじ(母の弟)が写真館の仕事をしていました。その後を私が継いだのです。父がやめた当時、私がまだ子どもだったため、大人になり店を継ぐまでという約束で、おじが笹川写真館をやってくれたのです。おじに写真を教えたのは父でした。
 父は写真館をやりながらキリスト教会の仕事もやっていました。戦後、おじに写真館の仕事を任せて、自分はキリスト教会の牧師を専業としたのです。儲(もう)かっていた写真館の仕事をスパッと辞めたのですから、非常に勇気があったと思います。
 子どものころの父の仕事ぶりは記憶にあります。当時はお客さんも多く忙しそうでした。結婚式、家族写真などを主に撮っていました。これらはスタジオで撮っていたのですが、出かける場合もありました。遠くは新谷(にいや)や長浜(ながはま)まで行ったようです。当時は自家用車がなかったため、人力車に乗って出かけていました。カメラなどの機材が重たいので、人力車でないと運べなかったのです。私が写真館の仕事を始めたころには単車があったので、蔵川(くらかわ)、鹿野川(かのがわ)など山間部にもよく出かけました。大洲、喜多(きた)郡一帯を走り回っていたのです。学校にも出入りしています。学校は一度やり始めるとずっと続きます。学校の卒業アルバムの写真は1年、2年の時から撮っておく必要があるため、途中で代わりにくいのです。高校は大洲農業高校をずっと担当しています。
 私が子どものころ、うちの近辺の商店街は本当ににぎやかでした。特に11月の秋祭りには周囲からたくさんの人が集まり、うちの前の国道は人であふれていました。河原には出店がたくさん並び、サーカスも来ていました。現在、大洲の名物は『いもたき』と『鵜(う)飼い』ですが、当時はありませんでした。いもたきは、各家で道具と食材を持ち寄ってやっており、現在のように料理屋が全て準備して盛大に行うということはなかったのです(観光行事としての『いもたき』は昭和41年から)。鵜飼いも後に長良川(ながらがわ)の鵜飼いに習って始まりました(昭和32年)。」

 イ ガラス写真と修業時代

 「現在はフィルム写真、デジタル写真ですが、創業当時は乳剤を塗ったガラス(臭化銀をゼラチンに混ぜた感光乳剤をガラスに塗ったゼラチン乾板。ガラス板が重く破損しやすいことなどから、昭和30年ころからフィルムに換わる。)に写して、それを紙に焼き付けていたのです。そのころはシャッターもなく、レンズキャップがシャッターの代わりでした。レンズキャップを外してガラスに画像が写るまで5秒くらいはじっとしている必要がありました。坂本竜馬の写真がガラス写真のものとして有名です。あの写真で竜馬は机にもたれていますが、あれは何かで支えて固定してないと体が動いてきれいな写真が撮れなかったからです。5秒間は、ハチが来ても動いてはいけなかったのです。しかも相当明るくないと写らないので、屋外で撮るか、スタジオで撮影するときは、窓を大きくとって光を多く取り込む必要があったのです。ですから昔の写真は屋外で撮ったものが多いのです。父から聞いた話では、戦前は1日に2、3人の写真を撮っておれば、十分生活できたといいます。写真1枚の値段がかなり高かったのでしょう。
 私は新制中学を卒業して15歳から6年間写真の修業をし、21歳で写真館を継ぎました。最初は写真館の仕事はやりたくなかったのですが、昔のことですから父に『写真をやれ。』と言われれば、やるしかなかったのです。しかしやり始めると面白くなりました。
 写真の修業は、中学校を出て最初おじに習いました。15から18歳まで3年ほどの間です。そのころはフィルムでなく、ガラス写真の時代です。まずはこれの準備から仕事を覚えました。暗室に入って、ガラスの元板(乾板)をキャビネサイズ(127mm×178mm)にきれいに2等分します。半分に切った乾板をカメラにセットして写真を写すのです。ガラス板は貴重だったので、失敗は許されません。真っ暗な中、ガラス切りできれいに2等分するのは難しかったです。
 写真を撮って焼いた後のガラス板(原版とか種板とか言っていた。)は、1、2年は保存しておきますが、その後は業者が買い取りに来ました。回収し、再生利用していたのです。したがってフィルム写真のように、ネガの形でずっと保存するというようなことは、ほとんどなかったのです。乳剤を塗ったガラスの原版は、富士フィルム、サクラフィルムといった会社が作っており、卸業者を通じて買っていました。ガラス原版で撮っていたカメラは現在も持っていますが、撮影の原理は同じで、ガラス板の代わりにフィルムを使えば撮影可能です。フィルムに代わってからも、昭和50年(1975年)くらいまではこのカメラを使っていたように思います。
 修業時代、最初はカメラを触らせてもらえず、掃除ばかりでした。1年くらいたってやっとおじから『撮影してみるか。』とカメラを触る許可が出ました。私がおじにやらせてもらった最初の写真撮影は、お墓の写真でした。動かないので撮影しやすいからです。当時は家庭にカメラがなかったので、写真が必要な場合はみんな写真館に来ていました。その中にはお墓の撮影依頼もあったのです。お墓の撮影は、失敗しても撮り直しができるので私に任せてくれたのでした。それでも汗だくになって撮った記憶があります。その後、人間もぼつぼつ撮らせてもらえるようになりました。3年くらいたったころには、二眼レフとか小型のカメラが出回るようになりました。
 その後、宇和島(うわじま)の田村写真館で修業しました。写真業界には業界紙があり、その紙上に写真を投稿するページがあるのですが、それによく出ている本当にいい写真を撮る写真家がいました。それが宇和島の田村豊先生だったのです。そこでおじにお願いして行くことになったのです。
 田村写真館には、丁稚(でっち)奉公のような感じで、住み込みで入りました。ですから呼び方も『先生』でした。50年余りたった今でも私の中では先生です。90歳を超えるのですが、今でもお元気です。
 そこでは3年くらいお世話になりました。おじのもとで3年、田村先生のもとで3年の合計6年間写真の勉強をしましたが、一生分の掃除もやったように思います。宇和島では即戦力として写真撮影の仕事をさせてもらいましたが、徒弟関係だったので、毎日の掃除は日課だったのです。
 先生の仕事にはよく同行しました。先生は単車が好きで、大きなハーレーに乗っていました。撮影に出かけるときは、先生のハーレーの後ろにカメラを持った私が乗りました。
 宇和島での3年間は写真の撮影技術全般について学びましたが、一番勉強したかったのはどう撮るかです。ただ写真を撮るだけならある程度できるのですが、被写体をどのように撮れば、一番うまく撮れるかの判断はなかなか難しいのです。人間の顔は左右対称のようで対称ではありません。目の大きさや口の形も左右で違います。撮る人によって上下左右どの方向から撮れば良い写真が撮れるのかが違うのです。一番その人が良く撮れる角度というのがあるのです。初めてのお客さんの場合には、撮影前に話をする中で、撮影角度のほか、この人は笑顔が良いとか、さらに髪の分け方やヘアースタイルなども合わせて撮り方を判断します。これが一番難しいのです。お客さんが来て、すぐにぱっと撮影するのであれば、誰でもできます。よりきれいに撮るにはどうすればよいのかが、写真館の腕の見せ所なのです。この辺を田村先生から学びました。言葉ではなく、実際について仕事をしながら見て覚えることが大切なのです。先生の仕事ぶりを見て一生懸命勉強しましたが、持って生まれた感性のようなものがあり、なかなか先生のようにはいきませんでした。宇和島での修業は3年間という約束でしたので、3年後大洲に帰って店を継ぐことになりました。」

 ウ 地域の写真館として

 「お客さんは、昔は祭りの時(11月)が多かったです。写真屋の仕事は、みんなが遊ぶときが忙しいのです。祭りになると、みんな晴れ着を着てきれいにするので、写真を撮りに来ます。それに対し、みんなが忙しい田植え時期とかは暇です。正月とお祭り、結婚式の時が特に忙しかったです。
 現在は祭りの時はそうでもなくなり、七五三(11月)や成人式(1月)、春と秋の結婚シーズンが忙しくなりました。ジューンブライドというのがありますが、6月は日本では梅雨にあたり、じめじめして結婚式で正装するのにはよくありません。それに6月は田植えの季節なので、わりと結婚式は少ないです。やはり3~5月、10~12月といった時候のよい季節が多いです。現在は結婚式場に出かけて写真撮影をしています。各家で結婚式・披露宴をしたのは昭和40年代後半くらいまででしょうか。成人式の日は、会場に行く前に着付けをしてスタジオで写真を撮ります。
 写真館の運営は、技術力と営業力が両輪です。両方ないといけません。新しいお客さんの開拓も必要です。この辺ではたぶん私が最初だと思うのですが、昭和40年代に子どもの写真展覧会のようなものを始めました。スタジオで子どもの写真を撮影し、大きく引き伸ばして展覧会をするのです。これが大変好評でした。当時はまだ小型のカメラがそんなに普及していなかったので、昔の大きなカメラで撮影しました。小型のカメラなら、次々とフィルムを送り撮影ができますが、古いタイプの大型カメラはフィルムが1枚1枚別なので撮影に手間がかかりました。シャッターを切る瞬間、子どもがちょっとでも動いたら撮り直しです。子どもはじっとしていないのでよく撮り直しました。子どもの写真はご両親だけでなく、おじいちゃん、おばあちゃんにも好評で、顧客を広げるのに一役買いました。
 写真館は地域とのつながりが大切ですので、地域の様々な行事の時には出かけて写真を撮りました。若い時に商工会議所を通じて知り合った写真愛好家のグループがあり、テーマを決めて写真を撮り、展覧会などをしました。大洲農業高校の写真を撮るようになったのも、私が店を継いでからで、それまでは学校関係には出入りしていませんでした。
 家族写真を撮りにくるお客さんは昔のほうが多かったように思います。今はちょっとした家族写真は自分で撮れるからです。家庭へのカメラ普及は、写真館にとってはお客さんが減る大きな要因になりました。昔に比べてお客さんが増えたのは結婚式、七五三、成人式くらいです。
 苦労したのは、各家を回って結婚式の撮影をしていたころです。多いときは1日に10軒くらい回りました。1日に10軒回る場合、時間割を作って、式の時間が早いところから順番に回ります。田舎に行くほど式の時間が遅いため、まずは市内から回りはじめます。しかし全て予定通りにいくわけではありません。順々に遅れ、最後のところは1時間も2時間も待たせることになります。写真館に催促の電話がかかるのですが、私たちカメラマンは外を回っているので連絡が取れません。さすがに1日10軒は物理的に難しかったです。今のように同じ式場内で次々に撮影するのであれば、10組でも20組でも可能ですが、当時はそうはいかなかったのです。昭和30~40年ころは、私が単車を運転し、木製カメラを持った従業員を後ろに乗せて出かけていたのです。スタジオでの撮影は大きな木製カメラで、出張するときは折りたたみ式の木製カメラを使いました(写真2-1-15参照)。
 持ち運びに便利な小型カメラを営業に使い始めたのは昭和45、46年ころからです。スタジオのカメラは父の時代から使っていたものです。折りたたみ式は、私が昭和30年代に使い始めたもので、このころにガラス原版は使わなくなりました。ガラス原版から取り扱いが容易なフィルムへの転換は、今のデジカメが登場した時のような革命的な変化でした。しかしフィルムになっても、1枚1枚独立したフィルムを使っていたので、撮影は1回1回が本当に真剣勝負でした。木製の大きいカメラは、大きいレンズを使うことができるという利点があり、味のある写真を写すことができるのです。味のある写真といっても、感覚的なものなのですが。」

写真2-1-15 古い写真機

写真2-1-15 古い写真機

大洲市大洲。平成21年6月撮影