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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)学習塾で教える

 ア 塾を開く

 「最初は学習塾をする気はなかったのですが、地域の多くの保護者から頼まれたため、始めることになりました。机がないというと、保護者が机を持ってきてくれました。当時三津には、私の大先輩の**先生の塾がありました。それと定秀寺(じょうしゅうじ)もやっていたように思います。**先生は私が塾を始めてからもしばらくはしていましたが、定秀寺はすぐやめましたので、三津地域ではうちがほとんど唯一の学習塾だったのです。ほかにあったのは、そろばんと習字の塾くらいでした。願成(がんじょう)寺では**先生がかなり長いことそろばん塾をしており、塾生もうちより多いくらいでした。習字はお宮(厳島神社)の向こうで**先生がやっていました。そのころ三津に水泳やテニスなどのスポーツ教室はありませんでしたが、松山西警察署で柔道や剣道は教えていたように思います。
 当時、**家は公益質屋をしており、私はそのかたわら塾を始めました。もともと個人で質屋をやっていたのですが、松山市から委託を受け、給料をもらって公の質屋となったのです(『三津公益質屋』)。半分公務員のようなもので、資金は市役所からもらい、もうけは全部松山市に出すわけです(戦後、昭和25年から39年まで松山市に公益質屋があった。)。市内に何軒かあった(城東公益質屋、城南公益質屋ほか)と思いますが、三津にはうち1軒だけでした。結局、もうけるのはもともと質屋をやっていたうちだけで、市全体として赤字になるため、松山市は公益質屋をやめました。素人にはこういう商売は無理だったのでしょう。うちは借家も経営していましたが、教育とは全く違う世界でいやでした。質屋は昭和40年ころ、借家は昭和60年ころにやめました。
 塾を始めた当時は、子どもに学力をつけたいという親の希望があっただけで、進学熱はそんなに高くありませんでした。最初の塾生は4、5人で、全員近所の子どもでした。小学校3年生くらいから算数と国語を教えましたが、子どもたちは学校が終わってから一日おきに塾に来て、1、2時間勉強して家に帰るという状態でした。学校の勉強で分からないことを教え、宿題をみたりもしました。最初のころテキストはなく、自分でガリ版を切ってプリントを作ったこともありました。本当に手探りの状態でしたので、よいテキストを求めて松山市内の書店をまわり研究しました。そして行き着いたのが『自由自在』(増進堂・受験研究社から発行されている小・中学生を対象とした学習参考書。昭和28年に初版が発行されて以来、2,400万部を発行するベストセラーとなった。)だったのです。
 最初4、5人だった塾生も次第に増えていき、多いときには1学年30人か40人くらいにまでなりました。当時はうちの奥にあった蔵を改造して教室に使っていました。昭和40年代から50年代にかけて、教室は塾生であふれていました。三津浜校区のほか、味生(みぶ)、宮前(みやまえ)、高浜(たかはま)、興居島(ごごしま)などからも来ていたのです。
 蔵を改造して教室を作るまでは、うちの北隣の土地(現在の塾のビルが建っている土地)に建てたアパートの前の貸し店舗で塾を始めました。しかしそこは狭かったため、塾生が増えるにつれてだんだん手狭になりました。ちょうどそのころ質屋をやめたので、奥にあった蔵を改造して教室にしたのです。昭和40年ころです。広さは20畳余りだったでしょうか。その教室も老朽化したため、昭和61年に現在のビルを建てました。
 主人は中学校の英語教師をしていましたが、定年後は塾の手伝いをしてもらいました。2人で塾をやっている時が塾生も一番多い時代でした。その主人も8年前に亡くなりました。
 **塾に入るために資格は要りません、来るものは拒まず全員入塾させます。子どもによって学力の差はかなりありましたが、習熟度に分けて教えたりはしませんでした。」

 イ 厳しく、そして噛んで含めるように

 「塾では厳しく教えましたが、教え子たちはみんないい意味で私のことをよく覚えてくれています。最初のうちは小学校3年生から6年生までで、途中から中学生にも教えるようになりました。昭和50年代には大学生を雇い、中学生に数学を教えたこともありましたが、学生では物足りないため、結局私が教えるようになりました。
 考えて見れば私が学生時代に習った数学というのは、粗末なものでした。正と負の数など教えてもらってないのです。ですから私が中学生を教えることになったときには、学生さんが教えるのを観察するとともに、自分でもかなり勉強しました。3年間は数学の本は離しませんでした。しかし中には難しくて歯が立たない問題もあります。私学の難関校入試問題の中には、私に解けない問題もあるのです。そんな問題を解いてしまう子に、どうして解けるのかと聞くと、『先生、説明はできんけど分かるんです。』と言うのです。数学には何か天性のひらめきのようなものがあるのでしょうか。昔は中学校3年くらいになると、私には追いつけない頭の良い子がいっぱいいました。
 進学のための特別な指導というのは塾ではしていないのですが、学校の宿題や同じレベルの問題をするだけでなく、能力に応じて難しい問題もやらせました。学校レベルの問題ができると、次は『自由自在』の問題を解かせるようにしたのです。個人個人で理解度が違うのですが、できるまで家には帰しません。ある程度基礎を一斉に教えた後、問題を解かせるわけですが、できる子は5分か10分くらいで解いて家に帰ります。ほかの子より早くできて家に帰れるというのが、子どもたちの間で自慢・誇りになっていました。そして残っている子には個人的に丁寧に教えます。遅い子ほど個人的に教える時間は長くなりました。しかし同じ間違いを何回も繰り返すと1階の便所の横で反省・自習です。『便所の横!』と言うと子どもは素直に出て行きました。塾の教室は畳の部屋で、木製の長机に3人で座ります。昔は正座で授業を受けさせていました。
 学年により教える日時は決まっていましたが、昔は部活動が盛んでなかったので、中学生なら6時から8時という時間を設定することができました。小学生は4時くらいに来ます。
 参考書や問題集は、自分で全部納得するまで解いてみて、子どもに分かるように教えるにはどうしたらよいか、図を描いたりして考えます。教科書の通り教えたのでは子どもは分からないので、どうやったら間違えないように問題が解けるのか、自分で教え方を工夫するのです。一次関数なんかでも私独自の特別な教え方があります。
 厳しく、そして噛(か)んで含めるように教えるやり方は昔も今も変わりません。子どもは『おばあがやかましいこと言いよる。』と思っているでしょうし、息子からは、『大きな声を出したら血管が切れる。』と言われますが、子どもはついてきてくれます。子どもが分かった時のうれしそうな顔が何ともいえません。全部合うと必ず100点をつけてやるのです。そしたら子どもが本当に喜ぶのです。よく100点と99点の違いを子どもに話します。この1点が値打ちあると教えます。たった1点の差だけど、雲泥の差がある、本当に問題を注意深く見ることが大切である、とよく言うのです。
 今の子どもは昔に比べ全体的に理解力が低下しているように思います。言葉の使い方が分からない子が多いです。『のがついたら掛け算』、と教えます。『5円の3倍、5円の10%』というように、問題文の中に『の』があれば掛け算を使って計算すればよいのです。『もとの数、1を出すときは割り算』と教えます。『5%が100円です。もと・の値段はいくらでしょうか。』の場合には、5%(0.05)をもとの数=100%(1)になるようにまず100を5で割る割り算をしてから、次に100円に20を掛ける掛け算をします。問題文をよく読めば、そこにどんな計算をしたらよいか分かるのです。数学でもいろいろな教え方がありますし、同じ学年でも子どもそれぞれに合った教え方があります。教えていく中で、子どもが分かるためにはどう教えたらよいか、こちらも教えられるのです。
 方々の塾を回られている業者の方がうちに来て驚くのは、子どもが塾の時間まで自分で勉強していることです。早く来た子は、塾が始まるまで自分のテキストを取って、文字の稽古(けいこ)をする習慣ができているのです(子どもそれぞれ自分の棚があり、そこに各自のテキストを入れてある。)。
 最初のころに通っていた子どものほうが、今の子どもにくらべて辛抱強く、言うことも素直によく聞きました。教える内容もよく吸収してくれました。難しい子もおりましたが、私がきつかったので言うことは聞かせました。豪傑はたくさんおりましたが、子どもが塾でけんかするというようなことはありませんでした。親も変わってきました。昔ほど私と話したがらなくなりました。子どもを連れてきて、預けたらさっさと帰るようになりました。三津も宅地化が進んだため、昔からの住民より転入者の数が多くなったからでしょうか。
 塾では冬休みにバスをチャーターし、子どもたちを連れて伊予鉄スポーツセンターにスケートに行きました。20年くらいは行ったでしょうか。塾生の数が少なくなってからはやめました。また夏休みには、興居島(ごごしま)や梅津寺(ばいしんじ)海水浴場に泳ぎに行ったりもしましたが、引率者は私1人だけで、たくさんの子どもを掌握しにくいうえ、私の体調が悪くなったこともありやめました。遊びに連れて行く費用は全て塾で持ちました。子どもたちは楽しみにしていたようで、ほとんどの塾生が参加しました。こうした遊びの部分もないと塾に子どもは集まりません。」

 ウ 88歳の今も現役で

 「今でも中学生に数学を教えていますが、問題は年々新しいのが出るので、勉強は欠かせません。昔は中学生に教える時間帯はだいたい6時から8時までと決めていましたが、今は部活動が盛んなため、遅い子は来るのが8時です。遅くなっても子どもが来る以上は教えています。
 現在、『自由自在』は使っていません。今の子はそんな難しいことはできないのです。子どもの学力はものすごく落ちました。『ゆとり教育』といい始めてからは全然だめです。算数のドリルや文字の稽古も学校で昔ほどしなくなったため、算数の式は作れないし計算もできません。字の格好もむちゃくちゃです。子どもの勉強に対する意欲も昔に比べると本当に低くなりました。部活動が多くなり、運動部がかなり熱心に指導しているので勉強どころではなくなったのでしょう。優秀な子は塾などでますます学力をつけ、そうでない子は極端に学力が低くなる両極分化が進んでいるのです。
 現在、うちに来る子どもは50人くらいです。中学校3年生が一番多く、小学生は比較的少なくなりました。中には小学1年生の子もおりますが、勉強が嫌いにならないように教えています。
 現在は息子が主に教えています。テキストも息子が選んでいます。教室では、息子が前に座って全体を教え、私は後ろの席で分からない子を個人指導しています。今まで教室は畳敷きでした。畳の教室は、仲の良かった二神塾(昭和30年設立)の塾長さんに相談して作りましたが、今の子は畳の上では、なかなかおとなしく座って勉強しません。今年(2009年)改装して板張りのフロアーにし、机とイスを入れました。
 50年以上塾をやってきたので、教え子は相当な数がおります。親子2代でうちに来る場合も多いです。中には孫までうちの塾に来ている例もあります。親子孫含めて全部で7人もうちに来た家族もありました。考えてみれば最初の塾生が60歳を過ぎているのですから、その孫が来ても不思議ではありません。塾をやってきて良かったことは、やっぱり教え子が声をかけてくれることです。今何をしているのか言ってくれるのが楽しみです。教え子の親に声をかけられ、子どもの現在の様子を聞くこともあります。この前も教え子の母親から、『息子は大学の教授になっています。』と聞きました。教え子が立派になった話を聞くのは本当にうれしいものです。
 塾をやってきて苦しい、しんどいと思ったことはありません。子どもが好きですから。確かに100人以上塾生がいた時は、大変でした。無理をしたので目をやられました。30年ほど前のことです。右目が見えなくなったのです。その後、脊髄梗塞(せきずいこうそく)になり、車椅子の生活になりました。リハビリに努めましたがそれは大変でした。歩行器につかまり、毎日懸命にリハビリをして20日間でなんとか歩けるようになりました。今から8年前のことです。
 大手の進学塾とうちは違います。うちは地域の普通の学習塾ですから。昔は松山に私塾連盟があり、学習塾同士の横のつながりがありました。20人かそこらは塾の教師が集まって話し合いなどをしていましたが、今はみなさん高齢になり、ほとんどやめています。私のように88歳になるまで現役で塾の教師をしている人はいません。私自身もよくやっていると誇らしい気がしますし、50年余りも続けられたことはありがたいと思います。親からもらった健康な体があったからだと感謝しています。」
 88歳になった現在も、**さんの教育に対する情熱や子どもへの愛情は尽きることはなく、現役の塾教師として教室に立ち続けている。