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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)波止浜の街かど-あの店、あの仕事-

 昭和中期の波止浜の町並みは、7つの町からなっていた。仲之町(なかのちょう)・問屋町(といやちょう)・栄町(さかえまち)・蓬莱町(ほうらいちょう)・本町(ほんまち)・新町(しんまち)・宮ノ下(みやのした)である。昭和61年(1986年)に住居表示が実施され、7つの町は波止浜1丁目から4丁目までに編成されたが、現在でも以前の町名が通用している。波止浜で長年生活してきた人々に、昭和40年(1965年)ごろ波止浜にあった店舗の名前を思い出してもらい、波止浜の町並み地図を作成した(図表3-1-3参照)。この地図をもとに波止浜の人々から話を聞いた。
 「蓬莱町の海岸側の地名を新地(しんち)、問屋町や仲之町の海岸側を沖新地(おきじんち)と言います。この辺りは埋立地なので、その名があります。もっと前は本町の近くまで海であったのを、石炭ガラ(石炭のかす)と土砂で埋め立てたのです。塩田で使った石炭ガラを波止浜海岸の埋立てに使いました。蓬莱町では、2m地面を掘ったら石炭ガラが出てきます。問屋町や仲之町でも同じです。また、塩田で時々表面の土砂を交換して、古くなって不用になった土砂を町の埋立てに使いました。不用土の処理を埋立てで活用するのですから、一石二鳥だったと思います。町の大通りが直線の1本でなくて、曲がり角が多いのは、そのような理由からではないかと思います。」

 ア 仲之町

 「仲之町(なかのちょう)には渡し場(図表3-1-3のア)があって、来島(くるしま)や小島(おしま)、馬島(うましま)への渡海船(とうかいせん)が発着します。仲之町の通りの山手側には、大きな印刷所や海運業の家があり、海手側には菓子屋や靴屋がありました。また海岸沿いには、釣り道具屋のほかに櫓屋(ろうや)があって、船で使う櫓(ろ)を製作販売していました。
 来島会館(図表3-1-3のイ)は、小高い山の上にありました。ここに戦前は、一茶亭(いっさてい)というわら屋根の旅館がありました。小林一茶が泊まったという言い伝えがあります。小高い所にあって、町や港を見渡すことができる旅館なので、船で波止浜に来た人や芸者さんと遊んだりする人がここに泊まったようです。昭和30年代の終わりには、来島どっくの寮の来島会館になっていました。」

 イ 問屋町

 「問屋町(といやちょう)の海岸沿いの道を、バスが通っていました。問屋町の通りは道幅が狭く、角が曲がりにくいため、バスやトラックの通行が難しかったためです。
 問屋町には波止浜劇場(図表3-1-3のエ)がありました。以前は芝居をしていたので劇場の名がついていますが、後で映画館になりました。波止浜劇場ではチャンバラ映画が主に上映されました。戦後は弁士はおらず、トーキー(映像と音声が一緒になった映画)でした。映写機を2台据(す)えて、1台で映写して1台で巻き戻していました。波止浜劇場では東映の映画が多かったですが、演芸もやっていました。霧島昇が『誰か故郷を想わざる』を歌うのを聞いたことがあります。演劇はなかったようです。」
 問屋町に残る大きな商家に住む**さんが話す。
 「私の家は丹波屋という屋号で、醤油(しょうゆ)を製造していました(図表3-1-3のオ)。この建物は140年前のもので、私のひいじいさんの代に建てました。ひいじいさんは醤油屋のかたわら、塩田を経営しており、ドック(波止浜船渠(せんきょ)造船所、後(のち)の来島どっく)の創業にもかかわりました。
 従業員は多い時には4人おりました。醤油の原料である大豆や小麦は地元のものも使いますが、昭和30年代はアメリカ産が多かったです。30年代初めまでは物々交換で、農家の方が原料の大豆や小麦を店に持って来て、醤油と交換していました。波止浜一円、波方(なみかた)や馬刀潟(まてがた)、樋口(ひのくち)など広い範囲から来ていました。醤油の販売先も、ほとんどが地元でした。少しは関前(せきぜん)や大三島(おおみしま)(宮浦(みやうら))にも送ることがあり、一升瓶(いっしょうびん)(約1.8ℓ)を10本入れた木箱を、今治の港から渡海船(とうかいせん)で運んでいましたが、年々なくなりました。
 丹波屋の醤油の銘柄には、『甘露(かんろ)』『朝の露』などがありました。博覧会で表彰されたこともあり、賞状が残っています。昔は四斗樽(よんとだる)に入れて売っていましたが、それが二斗樽になって、一斗樽になって、とうとう一升瓶になりました。」

 ウ 蓬莱町

 「町の北にあった民家(図表3-1-3のケ)は木造3階建てでした。戦前は料理屋『吾妻(あずま)』で、芸妓(げいぎ)さんもいたように思います。
 波止浜では戦前、瀬取船(せどりふね)(水深の浅い場所で使われた船底の浅い船。上荷(うわに)ともいう。)が港に発着していました。瀬取船は石炭を運んでいました。九州から運ばれてきた石炭は、波止浜の沖合いで運んできた大型船から瀬取船に積み替え、塩田の石炭小屋に持っていき、釜焚(だ)きの燃料に使っていました。逆に、塩は塩田で瀬取船に積み、塩田横の水路を通って湾に出て、専売公社(タバコと塩の専売を行っていた政府全額出資の公共企業体。1997年に塩専売制度は廃止。)の倉庫(船着き場の北側)に収納していました。塩田の横にある水路は、満ち潮の時には瀬取船が通行できました。
 瀬取船では、仲背人夫(なかせにんぷ)という人たちが働いていました。中で瀬取(せど)る(大型船の積荷を瀬取船に移しとる)仕事や荷物を陸揚げする人たちです。昔は、船着場のすぐ南側に瀬取船をつけ、人夫さんたちが乗り降りしていました。港の岸は石の階段になっていました。塩田があったころには、問屋町の海岸沿いの町角に仲背(なかせ)小屋があり(図表3-1-3のキ)、そこで休んだり焚(た)き火をして暖をとったりしていました。食堂など、人夫さん相手の店も立ち並んでいました。
 町内には、波止浜一番の塩田地主であった矢野本家の古い屋敷が今も残っています。明治から大正にかけて波止浜塩田のおよそ4分の1が矢野本家のもので、田畑も多く持っておりました。屋敷は大通りから離れた、奥まった場所にありますが、400坪の敷地の南側には倉庫が立ち並んでいました。
 波止浜水門は、昭和29年(1954年)に起工し、32年(1957年)に完成しました。高潮などに対処するため、塩田の堰堤(えんてい)をかさ上げして防潮堤を造るか、水門を造るという話になり、結局水門を造ったのです。水門は潮の干満に合わせて開けたり閉めたりします。また、橋を上下に動かして、下を船が通過できるようにしてあります。
 水門の工事は、矢板という土留(つちどめ)の板を、水門工事現場を取り囲むように海に打ち込んで、その周(まわ)り幅5mくらい取り囲むように土砂を入れ、工事現場に海水が入らないようにしました。そして矢板の内側を岩盤まで掘って工事をしました。工事中、地盤沈下がおこって近くの黒住教の教会所が傾きましたが、工事関係者が復興に奔走し、信者とともに教会所を建て直しました。
 水門がないころは、新地の南の方まで船が着いていました。しかし年に1回は、高潮の時に床下浸水することがありました。水門ができてからは、そのような被害はなくなりました。」

 エ 本町

 「本町の大通りの北側突き当たりに教会(図表3-1-3のク)があり、町の目印になっていました。
 服部病院(図表3-1-3のサ)の住宅は古くからの豪邸です。今でも入り口には、上下に開く扉が残っています。戸が分銅の重みで上に揚がるようになっています。入り口はケヤキの木で横木が入っています。入ってすぐ左が薬局、続いて待合室があってその奥が診察室でした。入って右は先生の住まいでした。
 服部医院の斜め向い側にある升八木(ますやぎ)家(図表3-1-3のコ)は、100年くらい前に建った家です。かつて、明治42年(1909年)生まれの老人会長さんが、『この家は、わしが幼稚園に行くころ建てていた。』と言っていました。この家は、北洋漁業で財を成した八木亀三郎の家で、『カニ御殿』と呼ばれていました。
 本町の南、龍神社の北側を流れる川の上に、食堂や魚屋がありました。建物は昭和48年(1973年)ごろなくなりましたが、『右へんろ道』の道標は今も残っています(図表3-1-3のセ)。ここの三差路(さんさろ)は道幅が狭く、バスが曲がりきれずに川に落ち込むことがありました。天和(てんわ)橋の上手には堰(せき)があって、潮水が上るのを止めていました。」
 本町で今も荒物・金物を商う**さんが話す。
 「菊間屋(図表3-1-3のソ)は、元禄(1688~1704年)のころ、菊間(きくま)(現今治市菊間町)から波止浜に移り住んだようです。塩田経営ではなく、塩田で必要な道具や材料を売る家だったと言い伝えられています。その後、塩を運ぶ仕事をしていましたが、船が難破してやめたようです。父の代にはレンガやセメント、材木も扱っていました。
 戦後は現在まで荒物・金物などを販売し、波止浜や波方を中心に、今は今治市一円を主な販売先にしています。昭和40年代まで、ブリキのバケツやタライ、鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、錠前、目立てヤスリ、釘(くぎ)など金物を主に販売していました。釘は樽(たる)で仕入れて、量り売りをしていました。釘の樽は60kgあり、番線(太い針金)は80kgで巻いてあって、それを肩にかけて運んでいました。」 
 波止浜の町の南にある龍神社の玉垣には、明治時代から昭和にかけて波止浜で活躍した町人の名が刻まれ、塩の生産や海運が盛んであった往時をしのぶことができる。

図表3-1-3 昭和40年ごろの波止浜の町並み①

図表3-1-3 昭和40年ごろの波止浜の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。円蔵寺の南から龍神社の北までの通り沿いの町並みに限って調査した。★☆は同じ位置を示す。

図表3-1-3 昭和40年ごろの波止浜の町並み②

図表3-1-3 昭和40年ごろの波止浜の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。円蔵寺の南から龍神社の北までの通り沿いの町並みに限って調査した。★☆は同じ位置を示す。