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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)年中行事

 ア お節句

 **さんはお節句について次のように話す。
 「灘町では、4月3日にひな祭りをして、4日にはげ山(現在の八景山(はっけいさん))へお弁当を持ってみんなで行っておりました。大勢の人出でした。わが家はガソリンスタンドの仕事の都合で5日に行っていました。4日は節句で自動車が動くので休めなかったからです。当時、10kgの小型プロパンガスを山へ持っていって現地で料理しておりました。今は木が生い茂り海が見えませんが、当時は海が見えていました。平成になってから行くのをやめました。」
 **さんもお節句について話す。
 「お節句の時は、戦後ははげ山に行くようになりましたが、戦前は、4月3日に本尊山(ほぞんさん)に行きました。本尊山の頂上のすぐ下のあたりや頂上に行ってお節句の料理を食べておりました。戦前には本尊山の頂上に神社(ふもとの天一稲荷(てんいちいなり)神社の分社)がありましたが、戦時中に火災に遭(あ)い、なくなりました。それで頂上には少し広場があったのです。翌4日には5丁目の浜へ出て、お節句の料理を楽しみました。浜にはお旅の松をはじめ、4本の大きな松の木と地蔵堂がありました。」

 イ 牛市

 **さんと**さんが牛市のことを話す。
 「牛市が上灘で開かれていました。この辺りは和牛の子牛の生産が多かったのです。牛市の日はお祭りで、鍬や鎌を売る店も出ていました。大洲からも買いに来ていました。戦前は、毎年5月12日にしていました。牛がたくさん出て、売り買いされたり等級を決めたりしていました。博労(ばくろう)さん(馬や牛の売買をする人)も大勢集まっていました。清流橋から牛市の場所まで、川沿いの道路に食べ物や道具類などの出店がずらっと並んで、なかなかにぎやかでした。昭和20年代まで開かれていました。」
 『双海町誌改訂版(④)』によれば、上灘町での牛の市は、灘町5丁目の牛市場で毎月行われた。毎年5月12日には大祭が催され、牛と人であふれ、出店が並び、各所で宴が開かれ、三味線や太鼓の音で終日にぎわったという。

 ウ どぶ掃除

 **さんは話す。
 「昭和30年代には、まだ大通りは舗装されていませんでした。6月の第1日曜日に各家から人が出て、どぶさらいの作業していました。それまで各家で畳をはいで大掃除をしていたのをやめて始まったもので、現在も続いています。町並みにある商家は、1階が売り場で2階が生活の場でした。お風呂やトイレや水回りは奥にありました。水は自然に海に流れて、異臭がするようなことはありませんでした。」
 『双海町誌改訂版』によれば、上灘灘町の道路は、昭和41年(1966年)砂利の路面からアスファルト舗装への工事が進められ、昭和45年(1970年)には舗装工事がほぼ完成したという。