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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(5)釣り船屋稼業も続けながら

 伊予灘沿岸を自動車で走ると、海岸で釣りをする姿が目につく。釣り人たちを船に乗せ手釣りをさせる釣り船屋稼業を、若い時から約60年続けている人がいる。釣り船という海の仕事だけでなく、ミカン作りや青果販売など、陸(おか)の仕事も手堅く営んできた**さん(昭和11年生まれ)に話を聞いた。
 「戦後すぐの昭和20年代は、食べ物を扱うと儲(もう)かっていた時代でした。父は製粉製麺(せいふんせいめん)業でしたから、そうめんを大阪に送って売っていた時期もあります。米や麦を扱ったこともあります。
 家は海のすぐ近くでしたから、学校から帰ると泳いでばかりでした。そのころから船が好きでした。小学校1年生か2年生の時、近くの船大工さんにボートを作ってもらいました。当時は魚がよく釣れ、1、2時間ボートで海へ出れば、ブリキのバケツ一杯の魚が釣れました。
 小学校4年生の時、4馬力のモーター船を買ってもらいました。近所の人と一緒にタイ釣りに行き、はえ縄で一晩に42貫(約158kg)釣って帰ったことがありました。小学校5年生の時には、地域の青年と、瀬戸田(せとだ)町(現尾道市)から広島の宇品(うじな)、宮島(みやじま)、岩国(いわくに)の錦帯橋を回って航海したことがあります。
 上灘港ができたのは昭和28年(1953年)ですが、それまでは3丁目の浜へ船をあげていました。昔は浜が広く、網の作業をしたり、新造船の披露をしたりしていました。満潮の時に船をあげる距離は短くて済みますが、干潮の時には『よいしょ、よいしょ。』と力を入れて船を押し上げなければなりません。
 家で船を3杯(はい)(3隻)持っていたので、釣り客から乗せてくれるよう頼まれるようになりました。松山から汽車で来た釣り客から頼まれて、伝馬船(てんません)に乗せて海に出るようになりました。昭和30年代でしたが、客が多額の礼金をくれましたので、割合よい商売でした。
 こんなことで、自然に客がついて釣り船屋になりました。上灘でも他の地域でも、まだモーター船が珍しい時代で、釣り人を船に乗せる人がいませんでした。お客さんを積んで海に出て、釣りをして船でご飯を炊(た)いて食べてもらうこともありました。客と一緒に乗って海に出ることもあれば、船を貸して客だけで海に出てもらうこともありました。
 釣り客は地元の人は少なく、松山の人が多かったです。当時、釣りはお金のかかるぜいたくな遊びでした。地元の人が釣り船を利用するのは、お盆に客が来た時ぐらいでした。接待で釣り船が使われることもよくありました。客には学校の校長さん、商工会や役場関係、県職員や警察官もおりました。全日空がチャーターしてくれたこともありました。
 釣り船の客には、女性もいました。女性はスカートをはいて乗ってもらいます。船で小用を足す時には、船の後ろの櫓(ろ)を入れる穴の所で済ましてもらいました。松山から来ていた釣り好きの女性は、釣り船に乗る3日前くらいから水分をとらないで生活し、トイレにいかなくてすむように体を慣らしていたそうです。
 昭和30年代には漁協のなかに『小釣(こづ)り組合』がありました。その組合で年に1回釣り大会を開催しました。船がだいたい40杯(ぱい)(40隻)くらい出ました。私が大会の世話役をしていましたが、お客さんが多くてにぎやかでした。朝8時出航で昼過ぎまで海に出ています。大会ではコンテストがあり、釣った魚の数の多い人、魚の大きい人に賞品が出ます。数の優勝者は600匹くらい釣っていました。当時は竿釣(さおづ)りではなく、手釣(てづ)りでした。大きさなら、80cmのカレイで優勝です。今でも時々70cmくらいのカレイは釣れます。釣り大会の賞品は、釣りに来るお客さんの友人の医者(松山市在住)に頼んで寄附してもらいました。
 父とともに製粉製麺業をしながら、昭和30年代後半から40年ころまでは、ミカン作りもしていました。当時は『ミカン作らん馬鹿がおる。』と言うくらい、ミカン作りが広がった時期でした。ミカン畑を少しずつ買い広げ、4町5反(約4.5ha)ほど経営し、成木を買ってきて植えて作っていました。
 私は16歳でオート三輪と小型4輪の免許をとりました。下灘駅前に住んでいた親戚(しんせき)が薪炭業の大きな店を構えており、そこが薪炭を運ぶためオート三輪を買ったのに、家族に免許を持っている人がいなくて運転ができないというので運転手に雇われました。電話がない時代で、急用で店まで運転に来てほしいときは、店の女性2人が交代で自転車に乗って私を呼びに来ていました。薪炭の店まで、私はメグロ(目黒製作所)のバイクに乗って行きました。
 そのうち近くの電器店で働くようになり、松山に支店を出すというので支店長を任されて、松山へ移り住みました。掃除機や洗濯機、テレビなどがよく売れました。
 20代半ばになって、『嫁をもらえ。』と言われて上灘へ帰り結婚しました。ミカンを作っていれば生活ができる時代でした。
 しかし、昭和48年(1973年)のオイルショックのころ、ミカン価格が暴落して安値が続きました。それで私はミカンを作るのをやめ、青果業者に転業しました。お金がない時に転業して商売を始めたので難儀しましたが、宮崎・鹿児島・熊本・長崎・佐賀など、九州一円のミカン産地を回って集荷し、地元スーパーへ納品しました。
 八幡浜からフェリーに乗って九州の産地へ行き、私が値段をつけて胴巻きから現金(げんぎん)を出して支払い、そのままトラックに積んで帰るのです。自分が価格を決めるのですから利益が出るのです。また、ミカンの選果場を作って配送したり、ジュース原料になるミカンも買い集めてジュース工場へ納入したりしました。6,000t扱った年もあります。そのころはおもしろかったです。これを16年しました。その間、釣り船屋も引き続きやっていました。
 昭和の末ごろにはミカンを扱っても儲(もう)からなくなりました。高値の時は利益が出ますが、安値の時は買い叩(たた)かれて利益がありません。そこでミカンの卸売りに見切りをつけて、今度はタケノコの缶詰をやろうと思いました。これも地元だけでなく九州から材料を集めました。ミカンで九州のあちこちと取引がありましたから、タケノコの買い付けもうまくやることができたのです。信用ができて、電話一つでタケノコを取引先のトラックで送ってもらえるようになっていました。タケノコの缶詰も初めて7、8年は利益が出ましたが、少しずつ利益が出なくなってきたので、昭和から平成に変わるころから、冷凍食品に力を注ぐようになりました。
 5年は見通しを持って同じ仕事を続けることができますが、10年後はわかりません。5年目までの売れている間に次のことを考えて準備をするようにしてきました。ですから、仕事は今でも忙しいのです。今の時代、双海町の中だけで利益のあがる仕事は難しいです。私は、今は世界中を相手に冷凍食品の商売をしています。人生一代の間は、いろいろな仕事をするものだと思います。」
 昭和の上灘灘町の人々は地域と密接にかかわりながら、町内だけにとどまらず、県内各地、日本全国、また世界へ飛躍していった。その足跡を、それぞれの長年の体験をもとに語ってもらうことができた。