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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)御荘平城の街かど-あの店、あの仕事-①

 平城の町並みは、西から本町(ほんまち)、寺新町(てらしんまち)、上町(かみまち)に三分されている(図表3-3-4参照)。寺新町は、観自在寺門前から観栄橋まで南北に通じる通りの両側の地域である。寺新町の西側、東西に延びる街道沿いをかつては下町(しもまち)と呼んでいたが、現在は本町という。寺新町の東側、東西に延びる街道沿いを上町という。上町は和口(わぐち)橋付近までで、その東側の沿道の地名は永(なが)の岡(おか)といい、公共施設や各種団体の郡支部・本部、郡内ただひとつの高等学校などが集中的に立地している。
 平城で長年生活してきた人々に、昭和30年(1955年)ごろ平城の町並みにあった店舗の名前を思い出してもらい、平城の町並みの地図を作成した(図表3-3-4参照)。この地図をもとに平城の皆さんから話を聞いた。
 「昭和30年代の平城の町並みは、西の端は御荘町役場、東の端は和口橋を渡って御荘座の東で町はずれになっていました。平屋か2階建ての瓦屋根の家が多く、町の中央の四つ辻の一角には、元銀行の建物があって目立ちました。
 版画家で有名な畦地梅太郎(あぜちうめたろう)は、若いころの一時期、奥さんの里を頼って平城へ来て生活しました。三間(みま)ではなく平城で支えてくれる人がいて、版画家として大成できたのだと思います。平城の人々が経済的な支援をしていたのです。畦地梅太郎は『四十番札所のある御荘は、わしの心のふるさと。』と書いています。」

 ア 下町(本町)

 「下町の町筋の北に岡村医院(図表3-3-4のア)、山内医院(図表3-3-4のイ)がありました。この2つの医院は、江戸時代から続く医者の家でした。旅館(図表3-3-4のエ)は、以前はお遍路さん相手の宿屋であったと思います。
 テレビが普及する前でしたので、ラジオ店がありました(図表3-3-4のキ)。ラジオの販売や修理をする店です。真空管をよく換えていました。ラジオ店は毎日のようにスピーカーで通りに流行歌を流していました。その後、テレビが出てくるとなくなりました。」

 イ 寺新町

 「四つ角の菓子屋(図表3-3-4のカ)は、かつては駄菓子屋さんで、平城の銘菓を売るような老舗の菓子屋はありませんでした。
 昭和30年代のある時期、菓子屋の2軒隣の薬局の場所(図表3-3-4のオ)が散髪屋で、人が集まって将棋などをしていました。観自在寺の門前近くにある種苗店(図表3-3-4のウ)は、もとは呉服屋さんだったと思います。
 かつて観自在寺は檀家がほとんどなく、寺の経営が苦しかったようです。観自在寺から観栄橋までを寺新町といいますが、新町というようにここは新しい町です。寺町がもともとあって寺新町ができたのではありません。年に4回の縁日には人が出ていましたが、普段お寺に人出はなかったように思います。
 四つ角の旅館の前にバス停があり、待合室(図表3-3-4のソ)がありました。観栄橋に行く道には貸本屋(図表3-3-4のタ)がありますが、ここは元は銭湯でした。この銭湯は、昭和30年(1955年)ころにはやめていたと思います。個人の家に風呂がなかった時代には町の人が行っていましたが、だんだん各家に風呂ができて、銭湯がはやらなくなりました。銭湯がなくなった後、近くに町営浴場の御荘温泉(図表3-3-4のコ)ができたように思います。
 御荘温泉の北側には、東映系列の映画館(図表3-3-4のク)がありました。客が多く、映画を見に行っても、『座れりゃええが、無理じゃろう。』などと思ったものです。遅れて入ると、人がいっぱいで、頭の隙間(すきま)から見なければならないくらいでした。ブリキ屋(図表3-3-4のケ)は、主に屋根の樋(とい)を作る工事をしていました。それから米びつ・桶やバケツをブリキで作ったり、修理したりしていました。」

図表3-3-2 平城の町並み年表(昭和20~50年)

図表3-3-2 平城の町並み年表(昭和20~50年)

『御荘の歴史年表(⑧)』から作成。