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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)年中行事

 ア お節句

 **さんと**さんがお節句について話す。
 「昭和30年代、春のお節句には料理を作って1日遊ぶことが普通に行われていました。平城の人は、4月3日に法華寺の花見に行き、4日に日土(ひづち)の海岸に行っていました。
 みんなで持参の料理を広げ、おしゃべりをしたり食事やお酒を飲んだりして楽しみました。どこの家もしていましたが、仕事の都合で別の日に節句をする家もありました。」

 イ お大師様の縁日

 南郡の人々は観自在寺のことを「お大師様」と呼ぶ。そして毎年8月21日に行われるお大師様の縁日には南郡じゅうの人々が集まって、寺で盆踊り大会を開いていた。昭和40年代になると、同時に平城地区の夏祭りが行われるようになっていく。平城で長年洋品店を営み、商工会の世話をしていた**さんは次のように話す。
 「お大師様の縁日は年4回ありました。旧暦の1月、3月、7月、10月の4回で、いずれも21日にありました。出店は4回ともありました。
 旧暦の7月21日が、時々新暦の9月にかかることがありました。そうすると2学期に入ってしまうので、新暦の8月21日に縁日をするようになりました。旧暦1月、3月、10月の縁日の出店は観自在寺の石段から四つ角まででしたが、旧暦の7月21日の縁日の出店は、寺の石段から観栄橋まで連なっていました。
 露天商の親方さんがいまして、出店の場所を差配していました。出店は、昔はバナナ屋さんが多かったように思います。バナナのたたき売りです。
 それから将棋や碁の出店が必ずありました。店にはサクラがいます。サクラが店の人に将棋や碁で勝って賞品をもらうのを見ていた人が、『あいつが勝って賞品をもらったから、おれもやっちゃろうか。』と思ってするのですが、なかなか勝てません。そして『1回いくら』というのが『1目いくら』『1手いくら』になって、金をふっかけられるのです。勝てると思ってやったら、負けるのです。サクラ以外は、店の方が絶対に勝つようになっているのです。高校生がこれにひっかかり、お金がないので腕時計を取られて、『子ども相手に。』と警察沙汰(ざた)になった話を聞いたことがあります。
 もちろん、なかには良心的な出店の人もおりました。万年筆を売っていた出店の人は、買った万年筆にきれいにネームを彫ってくれます。ある時、私が自分の万年筆を胸にさしていると、『万年筆持っておるね、名前書いてやろか。』と言うので、『お金がいるんじゃろうか。』と言うと、『いや、ただで書いてやる。』と言って、きれいにネームを彫り付けてくれました。そんな思い出があります。」
 **さんも次のように話す。
 「一本松の正木地区の人々も、お大師さまの縁日によく来ていました。1年に1度は歩いてお参りに来ていたようです。その時についでに買い物をして帰っていました。みんな、ここへ来るのを楽しみにしていたように思います。昭和40年代まで、南郡(なんぐん)じゅうからお大師様に集まって、盆踊り大会をしていました。家串(いえくし)(旧内海村)から僧都(そうず)(旧城辺町の山間部)まで各地区から集まって、それぞれの踊りを披露していました。踊る場所は観自在寺の仁王門をくぐった所の広場です。当時は今のように石碑や木立ちはなく、けっこう広い広場でした。
 浴衣(ゆかた)を着てうちわやタオルを持って民謡などに合わせて踊るのは、現在の盆踊りです。昭和40年代まで、南郡じゅうが観自在寺に集まって踊っていた時分は、『歌舞伎くずし』といいまして、役者に変装をして道具を持ち、口説(くど)きに合わせて踊っていたのです。那須与一(なすのよいち)や白井権八(しらいごんぱち)など歌舞伎の話の演目がありました。そしてその踊りが上手なところに優勝旗が出たりしていたのです。南郡じゅう、どこの地区でも歌舞伎くずしを踊っていました。踊りをする人に見る人がついてくるので、人出が多かったのです。これは、昭和50年代になって行われなくなりました。」

 ウ 夏祭り

 **さんと**さん、**さんは次のように語る。
 「昭和40年代から、8月21日のお大師様(観自在寺)の縁日に合わせて夏祭りが行われるようになりました。平城で1番のイベントは夏祭りです。この日は南郡じゅうの人が集まっていると思うくらい、人が大勢集まっていました。花火は観栄橋から見えやすいので、出店がずらっと並んでいました。観栄橋からお大師様(観自在寺)までの通りはすごい人出で、お祭りが終って帰ろうにも、人が多すぎて帰れないくらいでした。
 私(**さん)は商工会で夏祭りの実行委員長をしていましたが、昭和50年代からは町の道を歩行者天国にしたり、花火大会やカラオケ大会を行ったりしました。花火の打ち上げ場所は、民家ができたため場所を移しました。打ち上げ場所の近くは花火の火の粉が落ちるので、それを楽しみに子どもたちが走り回ったりしていました。
 夏祭りの時には、平城の町を樽神輿(たるみこし)が練り歩いていました。夕方4時ごろから、役場や商工会青年部、県事務所、銀行などの職域の各団体や地区ごとに樽(たる)神輿を出し、東は南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)前から、西は児童館(元の町役場)前まで、練り歩きました。その後を踊り連が続きまし。
 夏祭りの樽神輿は、人寄せでしているのではなくて、神輿を出している自分たちで楽しむという面が強かったと思います。いろいろな職場の人たちが、樽神輿をかつぎ、競走するのです。町の中のスタートとゴールを決めて、職場対抗で競走するのです。そこに沿道の人が水をかけるのです。今も樽神輿は出ますが、水をかけることはなくなりました。」