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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)札所の門前にて

 観自在寺の門前の参道で長年呉服店を営む**さん(昭和11年生まれ)から、呉服店の仕事と札所である観自在寺門前の移り変わりについて話を聞いた。
 「この平城の町で、昔ながらの店舗を構えているのは、上町にある金物店、寺新町の種苗店、そして私方の呉服店の3軒だけになりました。
 私は、昭和33年(1958年)から父母とともに呉服店をしてきました。早く母を亡くし、私は7人兄弟の1番上でしたから、弟妹の面倒をみながら父と店をしていました。昭和39年(1964年)に店を改造して店の奥まで土間にしました。今は2軒しか卸屋さんと取引がありませんが、昭和30年代には30軒くらいの卸屋さんと取引がありました。というのは、呉服のほかに洋品や寝具なども販売していたからです。毎日のように卸屋さんが店に来ていました。呉服屋ですから、宇和島や八幡浜のほか、京都をはじめ全国の卸屋さんと取引がありました。昭和30年代にはオートバイで八幡浜から御荘へ来ていた卸屋さんがいました。京都の卸屋さんはバスで御荘まで来ていました。
 呉服の販売が主でしたが、帯や反物、小間物、また洋品なども売っていました。呉服店や人形店は城辺にはありましたが、平城にはなかったので、昭和38年(1963年)ごろは雛(ひな)人形も売っていました。西海町や御荘町、城辺町の久良(ひさよし)あたりの人がよく買いに来てくれました。行商で反物や呉服を売り歩くおばさんに、商品を渡していたこともあります。当時は節季払いで、盆や暮れに支払いをしてもらわなければなりませんので、その時期は大忙しでした。『通(かよ)い』(掛売りの品や金額を記入する帳面)での貸し売りが多かったです。店の売り上げは、昭和40年代、50年代が多かったです。
 平成7年(1995年)からだったと思いますが、縁日が新暦で行われるようになりました。私の店はお大師様の門前でしたから、年4回の縁日にお客が多かったのです。お参りのついでに寄ってもらい、呉服や小間物を買ってもらいました。
 お遍路さん相手の宿屋は、昭和30年代、山門前の参道沿いに2軒あったのを憶えています。『きのくにや』さんと『つるのや』さんです。『つるのや』さんは昭和の終わりに店を閉じましたが、『きのくにや』さんは平成10年ころまで営業していました。宿屋では食事も出していました。また、お寺のなかに、無料で宿泊できる通夜堂が今でもあります。」