データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)商店街に「革命」が起きた

 ア 「主婦の店」の開店

 昭和33年(1958年)、20歳の若者が平城の上町に「主婦の店」を開店した。この店は、店舗面積を広くとって多品種の商品をそろえ、営業時間を延長し、それまでの伝統的な対面販売・掛売り(盆前と年末に支払いをまとめてする)決済をやめ、セルフ販売・現金決済を行うようにした。南宇和郡で初めてのやり方で、従来の商店と違うことから、町の話題を集め、大勢の客が訪れたという。この店の経営者である**さん(昭和12年生まれ)に話を聞いた。
 「主婦の店は、昭和33年に開店しました。そのころは、どこの店も対面販売をしていましたが、主婦の店はセルフサービスの方式で始めました。従業員は5人くらいであったと思います。
 昭和32年(1957年)だったと思いますが、松山の坪内寿夫さんらが、松山大街道(おおかいどう)の映画館の跡地を使って、主婦の店を愛媛県で初めて開いたのです。そして県下各地へ展開しようとしていました。私の実家は、和口(わぐち)橋の東側で食料品や肥料・セメント・酒類などの小売商をしていましたので、そこで見習いをして、商売のやり方を少し覚えました。ちょうどその時、『南宇和郡でも主婦の店はどうだろうか。』という誘いがあって開店することにしたのです。最初、宇和島にあった主婦の店を見学し、ノウハウをもらいました。そして平城でちょうど酒屋さんが廃業して空き家になっていましたので、その広い建物の一部を借りて始めたのです。
 当時は珍しい形式の店でしたから、看板に『セルフサービス』という文字を入れましたが、意外とお客さんの戸惑いはありませんでした。年4回のお大師様の縁日には南郡(なんぐん)じゅうから客が押し寄せ、日に1,000人以上の人が70坪足らずの店に来てくれました。紙の袋に商品を入れ、お客さんに提げて帰ってもらいました。今のようなビニールの袋はなく紙の袋でしたが、三越の紙袋を持って帰るのと同じようにお客さんに喜んでもらったのを憶えています。昭和30年代は経済の成長期で、生産が増加し商品の種類も増えていたころで、『薄利多売』という商売の方法が持てはやされた時代でした。
 店を始めたころは、まだ問屋さんが力を持っていましたから、メーカーと直接取引をするということはありませんでした。仕入れは宇和島だけでなく、松山や大阪など各地の問屋さんと取引がありました。セルフでやっている店で『愛媛スーパーチェーン』という共同仕入れをする組織を作ったこともあります。経営がうまくいきましたので、昭和36年(1961年)に城辺にも支店を出しました。
 主婦の店は当時の他の商店に比べ、広くて明るかったです。商品は店の奥の棚に置いてあるのではなく、衣料品や食品、雑貨などを平台や陳列台に載せて並べ、お客さんが選べるようにしていました。また、制服を着た店員が応対するのも新鮮だったと思います。『スエダの金銭登録機』という外国製レジスターは当時50万円もしましたが、それを店に据えてお客さんが買った商品の計算をして、レシートを出していました。売り掛けはほとんどなくて現金商売でしたし、『商品を安く提供する』というのが主婦の店の経営理念でもありましたから、商品の価格は他の店とはかなり違っていました。化粧品などはかなり安く売っていたと思います。私の店の弱点は、魚や青果など生鮮食品を揃えにくかったことです。地元の青果市場で買い付けできなかったことや、地元出身ですので地元業者に対する遠慮もありました。
 地元で同じような店舗をつくる動きがなかったので、主婦の店の経営を続けましたが、大型スーパーが南郡にも進出し自家用車で買物に行く時代になり、お客さんの動きも少しずつ変わってきました。そこで、昭和63年(1988年)に店舗の規模を小さくしてコンビニスタイルの店舗に改装しました。朝7時から夜11時まで営業していましたから集客力がありました。忙しくて体重が月に2、3kg減った時期もありました。今でも惣菜は自家製造で、ずっと続けています。開店当時から付き合いのあるお客さんは少なくなりましたが、何人かはおられます。昔はしていなかったのですが、今は日に何軒か体の不自由な方の家に配達をしています。」

 イ 御荘平城の盛衰

 『御荘町史(⑦)』によれば、「主婦の店」は平城の上町の酒造場跡に開店し、豊富な商品と自由に品物が選べるため一躍町の話題を集めたという。全商品が他店より2割安とあって、一部の商店主から非難の声が上がったが、従来の古い商法から脱皮するのに大きな役割を果たしたとされている。また、「みやたショッピングランド」は、城辺橋元に昭和44年(1969年)開店した。大規模な店舗で平城・城辺の両商店街に大きな打撃を与えたという。**さんは次のように話す。
 「昭和の時代、町並みの中で転機であったのは、上町にできた『主婦の店』や城辺橋のそばにできた『みやたショッピングランド』の開店です。そして、平城の町が大きく変ったのは、平成になるころです。フジなどの大型店が町の郊外にでき、客の流れが変りました。それまでは、店の経営者が亡くなったりして後継者がいない所は、だれかが跡に入って新規開店したりしていたのですが、それがなくなり、町が寂れました。」
 **さんは平城の町の移り変わりについて、次のように話す。
 「若い時分の記憶に残っているのは、まず第1に、飲食店なら手っ取り早く経営ができたということです。昭和32年(1957年)に売春防止法が施行されるまでは、問題のある特飲店(接客婦をおく特殊飲食店)がはびこっていました。そんなこともあって飲食店が多くありましたが、今では町並みに飲食店はほとんど見られなくなりました。 
 第2に、映画館などの娯楽施設や遊技場(パチンコ店)が人を集めていたということです。映画館は平城と城辺合わせて4館ありました。また、パチンコ店は規模の小さいものまで含めると平城に4店舗もあったように記憶しています。これも今は全てなくなりました。
 第3に、戦後の電化ブームの波に乗って、町の電気屋さんが出現したことです。テレビが普及する前のブームで、平城商店街に永井電気店、春日電機商会、蓮本ラジオ店、早田ラジオ店などが店を開き、客を集めました。
 第4に、マイカーブームの到来により自動車やオートバイの販売・修理の店舗が増加しました。それまでは自転車専門店であったのが、看板は自転車店でも実態はオートバイの販売・修理に変わったのです。
 第5に、主婦の店やショッピングセンターができたことで、個人商店が衰退したことです。
 このように戦後の平城の町並みの変遷を思い出してみると、本当に時代の変化を感じます。」
 平成21年現在、御荘平城や城辺地区の平野全体の市街化が進み宅地が広がって、道幅の広いバイパス道路沿いに大規模な店舗や施設が立地している。古い町並みではにぎわいが失われ、店舗であった跡が一般住宅に変わってきている。