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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 鉱石を掘る①

 中山町内には、小規模な鉱山が多数存在していた(図表1-1-3参照)。この表に掲載された鉱山のほか、中山町出淵(いずぶち)の影之浦(かげのうら)と栃谷(とちだに)のあたりには蒲山(かばやま)鉱山があるなど、中山町の鉱山については解明(かいめい)されていないことも多いようである。これらの鉱山についての地質学者の報告としては、すでに宮久三千年氏らが『日本地方鉱床誌 四国地方』(昭和48年)でまとめており、『中山町誌』(平成8年)でも詳しい説明がなされている。ここでは、従来の文献にあまり収録されていない、鉱山で働いた人の仕事やくらしを、聞き取り調査によってまとめた。佐礼谷(されだに)の鉱山については、Bさん(大正15年生まれ)に、中山鉱山(日南登(ひなと)鉱山)については、Cさん(大正12年生まれ)とDさん(昭和2年生まれ)から話を聞いた。

(1) 佐礼谷の鉱山で働く

 ア 三宝鉱山で働く

 「私(Bさん)の父親が鉱山で働いていたので、自分も鉱山で働くようになりました。父は、まず宮本(みやもと)鉱山に勤め、次に寺野(てらの)鉱山に勤めていました。私は兵役から帰って、昭和23年(1948年)、23歳から働くようになりました。マンガン鉱がよく採れる三宝(さんぼう)鉱山で長く勤めましたが、近隣のいろいろな鉱山へも行ったことがあります。
 三宝鉱山の山の持ち主は上岡さんという人で、宝産業が経営していました。その後、父が勤務していた関係で、栃(とち)ノ木(き)鉱山に少しの間行ったこともありました。栃ノ木鉱山は、九州の萩尾さんという方が経営していました。秦(しん)鉱山長沢坑(ながさわこう)にも行きました。長沢坑は、平田さんが経営しており、この地域では一番遅くまで鉱山をやっていました。親父さんが亡くなってから、息子さん1人がやるようになり、1人では危ないということで、『よい来てくれや。一緒にやってくれや。』と言われたので一緒に仕事をしました。鉱山関係の仕事は、三宝鉱山で5年ぐらい、他も含めると14、15年続けました。採算が取れなくなって多くの鉱山が経営をやめる、昭和30年代終わりまで鉱山業に従事しました。
 マンガンの鉱山は大矢(おおや)地区にもありますが、1回発破(はっぱ)をかけて鉱石を割って採取した程度で、継続しては採掘(さいくつ)しなかったです。マンガン鉱が佐礼谷(されだに)や中山に4、5か所あるのは知っています。しかし、他の人が鉱区を持っていると、その人以外は採掘できません。自分で採掘できるように鉱区申請をしましたが、一つも鉱区を取得することができませんでした。鉱区は最初に申請した人に権利があります。『ちゃわん石』と呼ばれる陶石であれば、鉱区申請しなくても採取できると監督局の人から聞いたことがあります。
 私が勤務した三宝(さんぼう)鉱山のマンガン鉱でも100人以上の従業員がいました。従業員は、三宝鉱山と大谷鉱山に分かれて勤務していました。鉱山の勤務の役職としては、一番トップに事業主がいて、その下に鉱長(こうちょう)、次に監督がいて、その下に鉱夫・選鉱夫などの従業員がいました。監督は2名ほど、選鉱夫は4、5人いました。私が勤務していた時は、3交替で勤務をしました。当時は、夜間勤務のときなど、監督は従業員を放っといて帰りました。それでも、従業員はさぼらず作業していました。従業員がさぼっているかどうかは、掘削(くっさく)した距離で一目瞭然(りょうぜん)でした。
 鉱夫は、1mとか2mでいくらという『請(う)け(請負)』の契約なので、みんながんばって仕事をしていました。給金(きゅうきん)の基準は、重さではなくメーター(長さ)で請け負っていました。奥行き何ぼ(いくら)、高さ何ぼで給金が決まっていました。トンネルを請け負っている人には、1か月100万円ほどの給金を受け取る人もいました。当時、『請け』でやる人は、日当が『請け』でない人の倍になっていました。『請け』で契約していない人は、さぼっても給金が変らないのです。『請け』は、やったらやっただけ貰(もら)えるので、だいたいの人は『請け』で仕事をしていました。
 三宝鉱山は、マンガン鉱が取れなくなったことと、鉱長が亡くなったので、それを機会に休山しました。
 近郊の鉱山では、住友が経営していた寺野(てらの)鉱山に一番多く従業員がいました。遠方から来た鉱夫のために長屋が建つぐらいでした。従業員が多いので、担(にな)いの魚屋さん4、5人が上灘(かみなだ)から来ても、2時間もしないうちに魚がなくなったぐらいでした。他に佐礼谷(されだに)鉱山敷野坑(しきのこう)もあったので、多くの従業員が佐礼谷地区で働いていました。
 『中山町誌』の鉱山位置図には、昔にあった大きい鉱山だけ掲載しているように思います。掲載されていない小さな鉱山がたくさんあったと思います。」

 イ 鉱石を採る

 「マンガン鉱は塊(かたまり)ですので、塊を探してそこを採掘します。塊の大きさによりますが、だいたい一つの塊を4人から5人で1年かけて採取できるぐらいのペースになります。採掘の仕事はダイナマイトを鉱石に仕掛けて、崩れたものを採取します。マンガン鉱は硬いので、2時間程の作業でノミが立たなくなり、その度(たび)にノミの先を焼いて尖(とが)らせては、採掘の作業に戻りました(写真1-1-6参照)。
 鉱石の中で、鉄を多く含むものを『テツマン』と呼んでいました。テツマンは、特に硬く重たいので、テツマンを多く含んでいる場所は、1時間作業しても5寸(約15cm)も採掘が進まない、大変な場所でした。
 マンガン鉱は、色の黒いものや赤いものなど、240種類程あります。品質の良いマンガン鉱は、マンガンの含有量が65%でした。マンガン鉱は品質が良いものほど黒くなります。赤いきれいなマンガン鉱を採鉱しても、1週間も経つと黒くなりました。その中でも、『バラ』(バラ輝石・菱マンガン鉱)といって、赤い鉱物が散った鉱石がありますが、それを磨(みが)いてさびが来なければ、指輪にできると聞いています。マンガン鉱のうち、バラといわれる鉱石は割ると中が赤いのです。バラとは別の、黒い『タンマン』という鉱石の中には赤い水銀が入っていて、『絶対歯で曲げてはいけない。歯がもげるから。』と言われていました。そういう鉱石は、選別してカマスに入れて採取していました。水銀は後で抜くことができました。
 坑道を掘るときは、下に向かって掘っていくのでなく、上に向かって掘っていくほうが楽です。下に掘る場合は必ず排水をする必要がありますが、上に向かって行く場合は、水が溜(た)まらないからです。
 坑道は高さ2mぐらいあり、人が歩ける大きさになっています。場所によっては、這(は)っていかないと入れない場所もありました。高さが1mぐらいの坑道で作業していた人もいました。
 坑道の中で崩れそうなところは、坑木で柱を立てます。その上に材木で天井を補強している部分を『ヤギ』といいます。坑道が掘り進むと、柱を立てて、ヤギを入れるようにします。松の坑木3寸(約9cm)角で1万貫(約37.5t)ぐらいの重さに耐えられるように聞いています。真直ぐに立てておいたら、1寸(約3cm)角に1,000貫(約3.75t)耐えられると言われていますが、坑木はだいたい斜めに立てていました。
 鉱石に発破(はっぱ)をかけては、『スカシ』や『セット』、『ノミ』を使用して鉱石を採っていました。スカシは、鉄の棒を尖らしていて、全長1mぐらい、太さは5分(ぶ)(約15mm)から6分(約18mm)でした。マンガン鉱山では、朝一番に自分で道具に刃をつけて(スカシの先端を尖らして)準備してから、始業時間がくると坑口に入っていきました。ノミも使用していました。道具類は、今でも10人分ぐらい所有しています。
 坑道の壁一面に六つから七つの穴をあけていました。長さが10尺(約3m)ぐらいのノミを回しながら穴をあけるのですが、穴の中は、砂や小石が溜まっていくので、そこに水を入れて混ぜて粘(ねば)りがでたら、それを、耳かきのような形状で長い棒の、サジ(スプーン)の形をした部分で取り出していました。水を入れて粘(ねば)ったら出すのです。ドロドロの状態では、全部は取り出せませんでした。その水に混ぜて粘りが出たもののことを『クリコ』と呼んでいました。
 穴ができると、火薬を詰めて爆発させ、落ちた鉱石を採取しました。しかし、ダイナマイトでも掘り進める距離は短く、その当時、ダイナマイト1回で進む距離が、最高で1mぐらいで、50cmぐらいのときもあり、なかなか大変な仕事でした。ダイナマイトを爆発させた後、スカシを使って鉱石を壁から落としていきます。1度ダイナマイトを仕掛けると、30分ぐらいは、中に入ることができません。初めは、黒色(こくしょく)火薬(かやく)を使用して採掘していましたが、ダイナマイトが普及してからは、黒色火薬より威力(いりょく)が大きいのでダイナマイトを使用するようになりました。ダイナマイトは、ダイナマイトの使用許可を持っている人でないと使用できませんでした。
 マンガン鉱を砕き、まだ下に落ちてない鉱石や大きい鉱石を手ごろな大きさにノミなどで叩いて、選鉱場に運んでいました。鉱夫は、ノミなどの道具を自分で整備できるように教えてもらい、道具の先端を尖(とが)らしていました。鉱石をうまく砕くことができなかった場合などは、ダイナマイトを小さくちぎって、小石で押さえるようにして、自分が逃げることができる長さの導火線を用意して、発破(はっぱ)をかけます。仕掛けてその坑道が直線であれば、かれこれ逃げないと100mぐらいは鉱石が飛ぶ威力があったと思います。坑道がカーブしている場合は、カーブしている所まで避難していれば安全でした。昔使用していた黒色火薬とは、威力が違いました。ダイナマイトは、小石でなく強い方に力が掛かりますので、鉱石にダイナマイトを張りつけて爆発させ、手ごろな大きさにして選鉱場に運び出します。この作業のことを『やいとをすえる』と言っていました。ダイナマイトの量を加減しながら、効率よく作業を行っていました。
 鉱石の量が少ない場所は、品質の高い鉱石ばかりを採取するので、座って作業しないとできない坑道もありました。また、鉱石の質が同じぐらいでも、大量に採れる場所は奥へ奥へと穴を掘っていきました。採算の取れる品質の良い鉱石ばかりを採掘していました。そのため、体を坑道に突っ込んで取れるだけ採ったら終わりの坑道もありました。
 昔は、ヘルメットを着用してなかったです。同僚の中には、住友(すみとも)(住友金属鉱山)から購入した帽子を着用している者もいました。今ではヘルメットを着用してないと、現場に入ることができません。履物も地下足袋(じかたび)でした。安全靴を履(は)いたりはしていませんでした。
 子どもが働いていることはなかったです。大昔には子どもが働いていたこともあったようですが、今は法律で18歳以上でないと採用できません。それに、抜き打ちで通産局(四国通商産業局)が視察に来ていたので、そういうことはなかったです。通産局は、従業員が怪我(けが)をするような問題が起きそうな場所などないか確認していたと思います。
 森岡数栄先生の本『風雪を越えて』(1986年)には、佐礼谷(されだに)の鉱山での仕事が書かれています。鉱夫が採掘した鉱石を、鉱夫の後ろで拾い集める子どもを『てご』と呼んだそうです。森岡先生ご自身が『てご』だったと聞いたことがあります。明治時代ころは、坑道の中を動き回れる子どもを『てご』として雇っていたこともあるようです。」
 佐礼谷生まれの森岡数栄氏(明治28年生まれ、故人)の著作『風雪を越えて』(1986年)には、小学校卒業後、宮本鉱山で働き、「掘場てご」になって採掘をしたこと、14、15歳になって坑道で「ジョレン引き」をしたこと、斜坑で鉱石を運ぶ「負いてご」をしたこと、18歳近くになって「トロッコ押し」を経験したことなど、子どものころの鉱山労働の体験が綴(つづ)られている。明治時代にはあった子どもの鉱山労働は、戦後はなかった。

 ウ 落盤事故にあう

 「作業中は崩落(ほうらく)に気を配っていました。埋まってしまうと命がないので、崩落は怖かったです。鉱夫はみんな、どこが危ない所かは、だいたい分かっていました。セットでコンコン叩いて音を聞くと、地盤が浮いているかどうか分かりました。天井や側面の表面が、硬いか柔らかいでなく、身が詰まっているか詰まってないかの違いを音で判断しました。そういった場所には、『ヒチフ』さんが坑木を入れて補強してくれました。坑木は長さ5尺から7尺(約152cmから約212cm)ぐらいの松の木を使用していました。坑木をけって差し込んで設置していました。ヒチフは支柱鉱夫のことです。支柱鉱夫が支柱夫になり、ヒチフになったと思います。
 落盤で坑口が塞(ふさが)る経験を2、3回したことがあります。落盤は、ガサッと落ちてきます。また、鉱夫が『出られんぞ。』と騒ぎ始めるので気がつくことがあります。
 三宝(さんぼう)鉱山で勤務中に、ばれて(崩れて)出られなくなったときがありました。大谷鉱山から応援が来ましたが、結局は、坑道内から外に向かって穴をあけて脱出しました。脱出できない事態になったときには、こうすれば出られるという、いざというときの脱出プランを普段から考えていました。坑内の坑口を知り尽くしていましたので、無事脱出できました。新しい鉱山では落盤することはほとんどありませんが、古い鉱山ではたまにありました。以前掘った所を後になって採掘しようとすると、落盤が起こりやすかったみたいです。
 脱出に時間がかかり、1日で脱出できなかったこともあります。脱出に使用する穴が崩れないように、しっかり補強をしてから脱出したためです。無数に坑道をあけて、品質の良い鉱石だけを採取して放置したままの坑道が多かったので、マンガン鉱山では、落盤事故がよく起こりました。」

 エ 鉱石を運ぶ

 「坑道の中の鉱石は板に乗せて運んでいました。それを『ジョレン引き』と言っていました。昔は竹で編んだ『ジョレン』を引いていたので、ジョレンが板になっても『ジョレン引き』と呼んでいました。板のままでは運びにくい場合は、竹を炙(あぶ)って曲げたものを板の下に取り付けて、ソリのようにして運んでいました。それでも運びにくい場合は、横に竹を設置しておいてその上を板に載せた鉱石を滑らせて運んでいました。板の長さは1m余りでした。鉱石を載せすぎると、重くて1人では運べなくなるので載せる量を加減していました。
 昔は、坑道から出した鉱石は馬で運んでいました。14、15頭の馬がいました。雨が降ったときなどは、馬に合羽(かっぱ)を着せて運んでいました。鉱石を載せる所と降ろす所には屋根があるので、雨の日でも鉱石を運ぶ事ができました。その後、馬で運ぶのでは間に合わなくなったので、索道をかけて運搬するようになりました。索道は、山間の坑口から山口(やまぐち)地区まで、全長1kmぐらいありました。閉山前には、道路をつけてトラックで運搬していました。
 マンガン鉱は、高知県の製錬所へトラックで運搬していました。トラックでの運搬が都合の悪いときは、松前(まさき)の北伊予駅までトラックで運び、鉄道で高知県へ運んでいました。」

 オ 鉱山とくらし

 「勤務時間は、昼の勤務なら朝8時から夕方5時まででした。だいたいどこも、休み時間は昼食までないですが、自分の判断で自然と休んでいました。『請け』の人は、休んだりせず黙々と仕事をしていました。お昼は、家から弁当を持ってきていて、坑内から出て昼食を食べていました。寺野(てらの)鉱山の長屋住まいの人は、坑口の近くに長屋があるので、食べに帰っていました。『請け』でない人は、煙草を吸ったりして一服していましたが、『請け』の人は、12時から1時まできっちり休む人はいなかったです。『請け』でない人は、監督が来たら、『おう来たぞ。』と言って仕事を始めていました。
 勤務は日曜日が休みで、週6日の出勤でした。土曜日も半日勤務ではなかったです。ほかに休みといえば、お正月の三箇日(さんがにち)が休みでした。正月には、山神(さんじん)さんにお供えやお飾りをつけて、坑口には門松を立ててお祝いをします。
 道具祭りもしていましたが、時期は覚えていません。今でも中山の農家では、鍬(くわ)や鎌(かま)をそろえて道具祭りをしていますが、鉱山でも同じようにしていました。鉱山の事務所は狭いので、広い敷地で屋根のある選鉱場に道具を並べて行っていました。みんなが集まって道具を拝み、お昼から飲み会をします。この日も半役(半日)は休ませてくれます。丸一日は休みませんでした。
 別に山神祭りもありました。お祈りして飲み会をします。お太夫(たゆう)さん(神主)を呼んで祈禱(きとう)することもありました。そのときは、折(お)り(弁当)や酒の2合燗(かん)二つをいただいて飲食していました。それを家に持って帰り飲食する人もいました。この日は1日お休みでした。開催時期は覚えていません。鉱山によって、お太夫さんを呼ぶ所もあれば、呼ばない所もあったように思います。お神酒(みき)は必ず用意されていました。酔って家に帰れなくなった人もいました。そのまま一晩宿泊し、次の日のお弁当を同僚の人にお願いする人もいました。女の人もいましたが、女の人は時間が来たら帰っていますが、男の人はいつまでも飲んでいる人がいました。」

図表1-1-3 中山町の鉱山一覧(昭和33年)

図表1-1-3 中山町の鉱山一覧(昭和33年)

『四国通商産業局管内鉱区一覧』(昭和33年)から作成。

写真1-1-6 採鉱具「ノミ」 上写真

写真1-1-6 採鉱具「ノミ」 上写真

伊予市中山町。平成23年9月撮影

写真1-1-6 採鉱具「ノミ」 下写真

写真1-1-6 採鉱具「ノミ」 下写真

伊予市中山町。平成23年9月撮影