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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 永木石を掘る

 中山町永木(ながき)地区では、戦後長く採石業が営まれ、地区の人々が作業に従事していた。永木地区で採石された石は「永木石」と呼ばれた。この石は戦後、主として土木工事に使われた。採石業に携わったGさん(大正15年生まれ)に話を聞いた。
 「永木石の採石場は、鳥越(とりごえ)山と駄場(だば)や奥山(おくやま)にありました。永木地区には黒雲母(くろうんも)安山岩の地層があり、この地層から採れる永木石が石造物に使われました。地元の永木三島神社には、応永9年(1402年)につくられた石柱があって、県の指定文化財になっていますが、この石柱も永木石ではないでしょうか。永木三島神社の石柱と同じような石柱が長浜(ながはま)の住吉神社にもあって、江戸時代に永木三島神社から運ばれたそうです。
 明治時代には永木地区に石屋が2軒あって、注文に応じて石塔や碾臼(ひきうす)、搗石(つきいし)などに細工していたそうです。大正から昭和の時代にかけて、永木地区の道路を整備するときに、要所の石積みに鳥越山から出た割り石を使いました。しかし、道路工事が終わるとしばらく採石は中止されたようです。戦後になって、土木工事で割り石を使うことが増えてきたため、地区内の3か所に採石場ができ、町内外に搬出されました。割り石を採ったあとの屑石(くずいし)はバラスになりましたから、採石場は活気がありました。しかし、コンクリートブロックが土木工事に使われるようになると、昭和60年(1985年)ごろから採石コストのこともあって、次第に閉山していき、現在、採石場跡は荒れ果てて昔の面影はなくなりました。
 鳥越山では、昭和25年(1950年)ごろから39年(1964年)ごろまでは入岡さん、昭和39年ごろから42年(1967年)ごろまでは泉さんが採石をしていました。働いていた人を『割り子』といいますが、20人ぐらいの人が働いていたと思います。今は、この採石場は、林道を改修したときの捨て土で埋められて、その跡形もありません。
 駄場の採石場は、駄場の地蔵様からおよそ100m登ったところにありました。ここは、昭和35年(1960年)ごろから45年(1970年)ごろまでは松山(まつやま)市の石材店が、昭和45年ごろから60年(1985年)ごろまでは五十崎(いかざき)町(現内子(うちこ)町)の石材店が、それぞれ採石をしていました。ここは地の利に恵まれていて、林道終点から道路を採石場につなげることができました。多いときには、およそ40人が働いていたと思います。採石の現場では削岩機や発電装置が設けられて、大掛(おおが)かりに採石をしていました。
 奥山の採石場は、天山(あまやま)城跡のすぐ下に位置していました。ここは、昭和28年(1953年)ごろから30年(1955年)ごろまでは五十崎(いかざき)町(現内子町)の建設業者が、昭和30年ごろから昭和40年(1965年)ごろまでは内子町立川(たちかわ)の二宮さんが採石をしていました。20人ぐらいの人が働いていたようです。ここは険しい山中にあって、運搬用の道路がありませんでした。林道の終点まで、索道を設けて搬送(はんそう)していましたが、距離が長いので架(か)け替え中継所があったくらいでした。」
 現在は、採石がなされておらず、静かな採石場跡では、かつて山あいに響いていたであろう削岩機の轟音(ごうおん)をしのぶよすがもない。