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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 郡中港の産業・海運の活況②

(3)伊予園芸農業組合の設立とミカン・青果物の輸送基地

 昭和23年(1948年)7月に、伊予郡内3町9か村を統括(とうかつ)する青果専門農協として伊予園芸農業協同組合が設立され、内港の船着き場に本部事務所が設けられた。ミカンをはじめ青果物の輸送のために、郡中(ぐんちゅう)港はなくてはならなかった。昭和30年代に事務所も増築され、車庫や倉庫なども設置された。昭和27年(1952年)には機帆(きはん)船を購入し、昭和28年(1953年)には船を買い替え、昭和30年(1955年)まで、直営の機帆船輸送事業を行っていた。

 ア 青果物の輸送

 伊予園芸に昭和35年(1960年)に就職したFさん(昭和15年生まれ)から、内港の事務所に勤務していた昭和41年(1966年)まで6年間の仕事や港の話を聞いた。
 「青果物の輸送は船が中心だったので、港に事務所がありました。その後は、出荷量が増えたことや鉄道の貨物輸送が充実(じゅうじつ)したこと、容器が木箱から段ボールに変わったことで、昭和37年(1962年)には鉄道の輸送に中心が替わりました。愛媛青果連で宇和・八幡浜(やわたはま)・伊予・松山・今治(いまばり)から東京の汐留(しおどめ)駅まで、ミカンを積み込んだミカン列車を走らせるようになり、昭和41年(1966年)には国鉄伊予市駅の東側に選果場が建てられました。
 伊予園芸では昭和27年(1952年)に機帆(きはん)船を購入し、伊予丸と呼んで、阪神方面に海上輸送していました。それ以外にもチャーターした船で運ぶ事もしていました。富有(ふゆう)カキは砥部(とべ)と南伊予(みなみいよ)が中心で、九州には青果連の小倉(こくら)駐在所があったので、北九州に荷をあげて宮崎や鹿児島へと運びました。伊予園芸管内でミカンが一番多かったのは南山崎(みなみやまさき)で、25%を占めていました。それ以外には、新川(しんかわ)や松前(まさき)の黒田(くろだ)の玉ネギなどもありました。
 昭和23年(1948年)からカナダへのミカンの輸出が始まりました。神戸(こうべ)まで輸送して積み替えるのですが、輸出品のため港で検査官が立ち会って、検査を受けてからでないと輸送できませんでした。各支部の選果場と内港に積み上げられた荷造り場所で2回の抜き取りをして、カイヨウ病などの検査をするのです。なかには虫や腐敗(ふはい)、外観などで通らないものもありました。輸出用ミカンは、神戸での積み替えに間に合わせないといけないので、夜遅くまで積み込みの仕事に追われました。
 ミカンは木箱に詰めて運ぶのですが、当時ミカンは3月末まで貯蔵していて、5月ころから9月までは、支所や選果場で木箱づくりをするのが当時の風物詩(ふうぶつし)でした。女の人が10人位で1日中、金づちで木箱打ちをしていました。木箱の材料は、製材所で作ってもらい、本箱(20kg)、半箱(10kg)、中箱(5kg)、輸出箱といろいろありました。木箱というのは、ミカンを手詰めで並べないといけないので、荷造りも下灘(しもなだ)支所、上灘(かみなだ)支所というように各支所で、選果して手詰めしていました。輸送部があって、車は5t車のトラックが4台、三輪車が2台ありましたので、車で郡中港の本部まで運んでいました。隣が門田石油さんの事務所でしたので、そこで燃料を供給してもらっていました。門田石油には、五色丸(ごしきまる)という船に給油するタンク船もありました。
 船への積出は、スラーという滑り台で積み込んでいました。沖なかせさんが30人ぐらいおりました。100t位の船が毎日出ていましたし、木材や定期船もあって忙しかったので、沖なかせさんの確保のために、前日に船何はい、何時位という計画を出して、沖なかせの責任者にあいさつをしに行ったものです。回漕店さんも競って積み荷の取り合いをしていました。
 ミカンは10月から3月まで関西へ、富有(ふゆう)ガキは10月から11月後半まで、玉ネギは4月から5月に積み出していました。スイカもだいぶあって、俵に包んだスイカを一つずつ手送りで運んで積み込んでいました。のどが渇くと、わざと落として割れたと言って食べたりする人もいました。ナシもありました。ナシや富有カキを木箱に詰めるとき木毛(もくもう)(木材を糸状に削ったクッション材)を敷き詰めるのですが、伊予園芸の木毛工場が三島町(みしままち)にあったのです。ジュース工場も、市民会館の隣にありました。」

 イ 伊予園芸

 「昭和35年(1960年)ころ、伊予園芸では、輸送部15人、事務が30人、丸一(郡中、北山崎、南山崎)選果場に季節時には50人と、全部で100人ぐらい働いていました。私も真夜中までの仕事が多く、独身だったので1か月のうち20日間も宿直(しゅくちょく)していたこともありました。残業は谷まんさんでそばか定食を食べていました。選果場は土曜日と日曜日に仕事をしますから、決まった休みは金曜日となっていましたが、出荷のかき入れ時期は休みもなかったように思います。お酒もよく飲みました。米井の青果店で材料をたのんで、事務所ですき焼きをよくやったものです。近くに岡田酒店もありましたし、料理店も浜蝶(はまちょう)、作兵、浜田屋、きたや、平久(ひらきゅう)、鈴(すず)の家(や)さんなど沢山あり、黒森旅館、つたやさんの旅館もありました。
 私が学生のとき、下灘(しもなだ)の山がどんどん開墾(かいこん)されて、ミカン畑になりました。この産業を動かすのが伊予園芸だというので志願(しがん)して就職したのです。給料も役所などと比べてもどこよりも良かったです。『伊予市は伊予園芸や。』と誇りをもっていました。売り上げも30年代に『10億円突破した。』と喜びました。賞与も年間7か月ありました。成績が上がると特別ボーナスも出たりしました。仕事は大変でしたが、やりがいもありました。職場では花見や、船を借り切って同僚や家族を連れて、広島や小豆島(しょうどしま)、南予の鹿島(かしま)、下関(しものせき)などの旅行にも行きました。当時は、ミカンの山も郡中の港も活気がありました。」
 伊予園芸のミカン販売量は、昭和32年(1957年)の8,000tから昭和40年(1965年)には26,000tへ3倍以上も増加した。郡中港は、ミカンや青果物の一大出荷拠点(きょてん)として愛媛を代表する港に発展し、港で働く人たちの大きな誇(ほこ)りでもあった。

(4)回漕店・海運業の発展

 明治末期からの郡中港の整備によって船舶の出入りや停泊が便利になるにつれ、大正時代から昭和初期には、石崎汽船(きせん)の寶安丸(ほうあんまる)・阪豫丸(はんよまる)の定期便(三津浜(みつはま)~三机(みつくえ))の寄港地でもあり、大阪商船の郡中港取扱店も置かれ、大阪と門司(もじ)・若松(わかまつ)行きの定期・不定期船の港として活況を呈(てい)していた。
 明治末期から大正・昭和にかけては、大西回漕(かいそう)店や金井運送店が、汽船や和船、荷客扱いなどの船舶輸送や倉庫業を営んでいた。昭和7年(1932年)には伊予商運(いよしょううん)株式会社の郡中出張所が設けられ、終戦後も宇和島運輸(うんゆ)汽船が郡中港に寄港していた時期もあった。その後も、運輸業の統合(とうごう)・新設・廃止が行われ、昭和30年代以降の海運業として、丸一回漕店、郡中港運、伊予組回漕(かいそう)店、大西回漕店などが運送業を営んでいた。

 ア 木材や青果を積み出す

 伊予組回漕店のGさん(昭和10年生まれ)に、昭和30年(1955年)ころの海運業の活況ぶりについて話を聞いた。
 「機帆(きはん)船は毎日出ていました。運ぶものは木材が大半で、沖なかせさんが手作業で一本一本きれいに船に積み込んで、京阪神へ運んでいました。船は菊間(きくま)や中島(なかじま)から来ていまして、うちらは菊間の船を使っていました。その後、製材組合さんらが丸一回漕店をつくって、製材は月1、2回外港からだすようにもなり、業者間の荷の取り合いもよくありました。
 伊予園芸の輸出用ミカンはカナダへ、青果物は九州方面に運んでいました。スクラップや柳川さんの鉄くずもあって、姫路(ひめじ)の日新製鋼(にっしんせいこう)に運んでいました。一番困ったのは、急に言われて船がおらん(いない)ときがあるのです。よく三津の船を借りてきていました。逆に船があっても荷がないのも困りましたが。初荷のときには、旗をたて、のし紙をまいて、お神酒(みき)をあげたりしていました。」

 イ 削り節や珍味の材料を運ぶ

 明治末期から郡中(ぐんちゅう)の港で海運業を営んでいた大西回漕店は、昭和30年代後半に伊予商運郡中出張所の土地建物を買収した後、大西陸海運送と社名を変え、昭和51年(1976年)にはカネサ運輸として運送業に従事している。昭和34年(1959年)から郡中の海運業をみてきたHさん(昭和9年生まれ)に、当時の話を聞いた。
 「港湾(こうわん)法では伊予港になっていますが、昭和38年(1963年)の港湾運輸(うんゆ)事業法では郡中港なのです。郡中港という名前は生きているのです。昭和30年代後半までは、松山より伊予の方が扱う木材は多かったです(図表3-2-10参照)。私も一日中、久万(くま)や小田(おだ)、砥部(とべ)、内子(うちこ)まで得意先回りをしていました。久万や内子からは木材、中山は木炭、砥部はスイカ、カキ、ミカンを郡中の港へ集荷(しゅうか)していました。輸出ミカンも神戸に運びました。東京航路もつくって、船は和歌山の田辺(たなべ)から福栄丸(100t)や東長丸をチャーターして東京へも木材やパネルを運んでいました。
 久万や小田の製材所も昭和40年(1965年)ころにはトラックを持っていましたから、山仕事して夜中に製品化した製材を運んで来ていました。ヤマキやマルトモの削り節の原材料のムロアジは、明浜(あけはま)(現西予市)の高山(たかやま)、九州の五島(ごとう)列島から船舶で運ばれていました。松前(まさき)の珍味の原料のスルメイカも定期的に来ていました。
 港には船は30隻以上ありました。沖なかせは、50名近くいて組がありました。元気でしたよ。『お前らの月給はわしらがはろてるんや。』というぐらいでした。朝は朝星、夜は夜星で、朝7時から夕方は6時ぐらいまで仕事していました。
 よく困ったのが、物はあるけど船が足りないときで、船探しに松山にしょっちゅう(再々)行ったものです。初荷のときには、荷物の量が多かったです。船には幟旗(のぼりばた)をたてて出港していました。港の建物から『○○丸さん電話ですよ。』と船長を呼び出すマイク放送もしていました。
 港のピークは昭和30年代でしょう。木材の中心が外材になって内地材が入らなくなり、製材の衰退が港の衰退につながったと思います。」
 大西回漕(かいそう)店時代、昭和14年(1939年)に機帆(きはん)船の千恵丸を建造して、海運業に利用していたが、30年代には船はなかったとのことである。会社名も大西海陸運送になり、2tの三輪車4、5台を持って陸送運輸へと変わっていく時代でもあった。

(5)郡中港で最後の船大工

 郡中(ぐんちゅう)の港には、親子2代にわたって漁船や機帆船をつくってきた船大工がいた。Iさん(大正11年生まれ)は、戦時中は海軍工作兵として徴兵されたが、復員(ふくいん)した後、親子で船大工を続けてきた。大西回漕店の千恵丸や福井製材所の福力丸も黒田さんが造った機帆船だった。Iさんに船大工の仕事について話を聞いた。
 「戦争が終わって昭和21年(1946年)12月に結婚しました。その晩に南海地震が起こったので驚きました。私は、郡中の漁業組合の木造漁船(約10m)と300tぐらいの輸送船をつくる船大工でした。父は下灘出身で親子2代の船大工です。
 郡中港は、昭和5年(1930年)に予讃線(よさんせん)南郡中駅(現JR伊予市駅)ができて、相生丸(あいおいまる)や寶安丸(ほうあんまる)が三津浜(みつはま)や長浜を行き来していましたし、大阪商船の出張所もあって、門司(もじ)や大阪への定期便もありました。三津浜港に負けんぐらい船が入っていました。その後バスも走り出して小型商船はなくなりました。私が小学校のときには、港には銅鉱石(どうこうせき)の置き場がありました。中山から鉱石を運ぶ索道(さくどう)の終着点が郡中駅でした。索道ができる前は、馬車で鉱石を運んでいました。船に積んで大分県の佐賀関(さがのせき)や別子(べっし)(別子銅山)に送っていました。他には、九州の炭鉱へは坑木(こうぼく)も運んでいました。
 戦後は、スギやマツ、ヒノキなどの木材、炭やミカン、ナシ、ビワ、モモなどあらゆるものが阪神や北九州に出ていました。
 稼業(かぎょう)として船大工をしていましたが、今の五色浜公園の浜のところに工場があって、漁船をつくっていました。姫島の造船所から6本のレール線を買って来て、砂浜にころころ(船を乗せて運ぶための線路)を引いていました。地元船がほとんどでしたが、宮崎県から運搬船の注文もありました。
 大西回漕(かいそう)店の千恵丸、マルトモの明関さんところの海光丸も作りました。100tぐらいでしたか。材料は、宮崎県の弁(べん)こう材(船を造るための材木)で、今治から製品にしたものがトラックで来ていました。ヒノキの15mぐらいの長さのものを使って、船体の曲線の形にしていきます。5mぐらいの箱の中に入れて、下から蒸気(じょうき)を送って組んでいくのです。
 船は、用途に気を付けて作らないといけません。石炭や鉱石のような重いものを積むのと違って、雑貨などを積む場合は荷物が軽いので船の重心が上がり、バランスを崩しやすので、船の足が弱い(安定感がない)船にならないように気を使いました。
 船を造るのに、うちには設備が少なかったので、時間がかかりました。1隻造るのに4、5か月かかりました。費用のうち、最初にいただく契約金だけでは船ができないので、残りの費用をよう催促(さいそく)していました。もうけにはならなかったです。全部で10隻位はつくりました。もちろん他に木造船の修理や改造の仕事もしていました。
 船が完成して進水式のときは、大漁旗を立てて、餅(もち)まきをしていました。船は造船所や同業者から、お祝いでいただいた幟(のぼり)で飾っていました。幟は、三津に幟屋さんがありましたから、そこにみんなが発注して幟のデザインが重ならないようにしていたみたいです。福井製材の福力丸のときは、だいぶ人が来ていました。」
 愛媛新聞の『わが街に、この人あり-伊予市』伊予職人気質(昭和50年〔1975年〕10月16日)に、船大工・Iさんの記事がある。「伊予灘で産声をあげた、おらが船。大漁旗を、いっぱいかかげて走っとるワイ。」
 昭和60年(1985年)に和船づくりをやめたIさんは、郡中港で活躍した最後の船大工であった。


<参考引用文献>
①山本典男『砥部焼歴史資料(第一集)』砥部焼伝統産業会館 1997
 山本典男『砥部磁器史(上)』里の会 1986
②「村諸日記」(『伊予市史資料第四号』伊予市教育委員会 1980)
③近藤英雄「三島陶磁器の歴史と風物詩」(日刊『中央愛媛』 1973)
④「明治29年職工人名簿」(『砥部焼歴史資料(第一集)』砥部焼伝統産業会館 1997)
⑤森岡正雄『池田貫兵衛と池貫工場』 1987
⑥篠崎勇資料綴「池貫と郡中陶器」 1979

<その他の参考文献>
・小川宗勝『伊豫郡の花』 1911
・『愛媛県誌稿(上巻)』愛媛県 1917
・大内優徳『伊予の陶磁』雄山閣 1973
・吉田忠明『愛媛の焼き物』愛媛文華館 1995
・伊予市『伊予市誌』 2005
・愛媛県歴史文化博物館『資料目録13集 伊予陶磁器関係目録 三間焼窯道具』 2005
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地域調査報告『伊予市の風土と人々の暮らし』 2002
・伊予園芸農業協同組合『創立50周年記念誌』 1999
・伊予園芸農業協同組合資料 
・(社)愛媛県木材協会『愛媛の木材発展史』 1976
・伊予市・伊予商工会議所『伊豫商工名鑑』 1956
・愛媛県『愛媛県統計年鑑』
・伊予市『伊予市統計資料』
・郡中町『郡中町郷土誌』 1911

図表3-2-10 昭和35年木材積出港

図表3-2-10 昭和35年木材積出港

『愛媛県統計年鑑』から作成。