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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 湊浦のくらし

(1)周辺の村浦とのつながり

 「湊浦は『お町(まち)』と呼ばれていました。上手(うわて)(瀬戸内海側、伊方越(いかたごし)や亀浦(かめうら)などの集落がある)へは、遠足のときなど、歩いて行っていました。上手に小学校4年生までが通う分校がありました。小学校5年生、6年生は、山を越して湊浦にある伊方小学校に通っていました。
 上手の子どもたちは、通学してくる時、麦など精白するものを背負って来て精米所に預けて、学校が終わると受け取って背負って帰っていました。旅館に頼まれて、杉葉や炭を背負って持ってきたりもしていました。湊浦の上にお堂があって、上手の子どもたちはお堂で着替えていたそうです(図表1-1-3の㋑参照)。『オイコをお堂に置いて、モンペなど着てきた衣服を学校行き着の服(当時は学生服の人はほとんどいなかった)に着替えて、精白するものを精米所へ持って行くなど家の用事を済ませてから、帰りにお堂で着替えてオイコを背負って帰っていた。』と、お堂の下に住んでいた同級生の子が話していました。上手へはお堂から山上を歩いて1時間ほどかかります。雨の日も、ここで着替えていたそうです。
 私(Cさん)の母は上手の出身なのですが、春のはじめ2月ころに、家族でニナ(巻き貝)拾いとかヒジキやワカメを採りに出かけていました。上手に親戚がある人はよく行っていました。」

(2)行商

 「魚売りの人が、川永田から二人ほど来ていました。テンビンボウで魚を担いでくる人は、ホウタレ(カタクチイワシ)など庶民的な魚を取り扱っていて、支払いは盆暮れ勘定(かんじょう)でまとめて払っていました。勘定がわかるように帳面がありました。冷蔵庫がない時代でしたので、魚売りの人が勝手に家の土間に入ってくれて、しょうけ(竹かご)に魚を入れて吊(つ)ってくれました。もう一人は、自転車の荷台にトロ箱を付けて、高級魚の刺身なども取り扱っていました。
 天理教教会の道の向かい側にある、家2軒のどちらかの道端の部屋に、1年に1、2回、生地(きじ)屋さんがやって来て、部屋全部に品物を並べ、壁にもかけて反物(たんもの)や布地を広げていました。生地屋さんがどこから来ていたのかまでは分かりませんが、輪抜(わぬ)け(神社で無病(むびょう)息災(そくさい)を祈って竹で作った輪をくぐる夏の行事)の時期やお盆前、秋のお祭り前とかに来ていました。湊浦にも呉服屋さんはあったのですが、高級呉服店という感じでしたので、近隣の多くの人がこの生地屋さんから買っていました。風呂敷に背負って家々を回る行商の人もいました。」

(3)電化製品

 「伊方でテレビが一番早く映るようになったのは有寿来(うすき)小学校で、その次が『村立(そんりつ)さん』と呼んでいた伊方村立病院の宇高先生方です(図表1-1-3の㋙参照)。私(Bさん)が高校を卒業した昭和31年(1956年)ころだったと思います。そのころ、テレビが映るのは村立病院と伊方越(いかたごし)の有寿来小学校でしたので、そこまで見に行っていました。
 村立病院にまだテレビがない時、私(Cさん)ら子ども5、6人は、10円で40個ほど買える、金魚の形をしたお菓子を持って、宇高医院(村立病院)のおじいちゃんに連れられ、有寿来小学校まで歩いてテレビを見に行きました。山を越えて行きましたが、楽しかったので覚えています。広島からの電波で、山向こう(伊予灘側)はよく映っていました。こっち(湊浦)はあまり電波がよくありませんでした。
 テレビを見に、兄弟7人で近所の自宅にお伺いしたことがあります。寒い時期でしたが、懐中電灯を持って兄弟が並んで歩いて行きました。私は2番目に大きかったので、列の一番後ろで弟たちが怪我(けが)したりしないように見守っていました。テレビを見させていただく時は、テレビのある座敷ではなく、一つ手前の部屋で見るのが礼儀でした。NHKの『赤穂浪士』の最終回を見たのを覚えています。長谷川一夫が出演していました。プロレスは、電器屋さんが浜の広場にテレビを持ってきて見せてもらった記憶があります。
 電化製品では、テレビより洗濯機が早かったです。テレビを買ってから冷蔵庫でした。昔は、冷蔵庫といっても、氷を上に入れて冷やす冷蔵庫でした。その前は、冷蔵庫代わりに井戸の水でスイカやトマトを冷やしたりしていました。」

(4)年中行事

 「4月の春祭りには相撲(すもう)大会があって、大勢の人が来ていました。子どもや青年団など、それぞれの年齢層で競っていました。4月8日(釈迦(しゃか)誕生を祝う花まつり)には妙楽寺(みょうらくじ)に甘茶をもらいに行っていました。ビール瓶を持ってもらいに行っていました。甘茶はすごく甘くて、その甘さが思い出になっています。
 5月のこどもの日は特に何もしていませんが、6月に入ると農休(のうやす)み(〔野休(のやす)み〕ともいう)がありました。6月になると麦刈りをし、イモを植えます。それが終わると農休みで学校が1日お休みになります。その日は、そら豆のアンコでサンキラ饅頭(まんじゅう)(蒸し饅頭)を作ってもらいました。サンキラ(サルトリイバラ)の葉っぱやホタルブクロが生えるころの思い出です。ただ、その分だけ、夏休みの日数は減らされていました。他にも『農繁休業』(農繁期に子どもが家で手伝いをするため休校する)という学校が休みの日もありました。
 八幡浜から宇和島(うわじま)へ行く船が出ていましたが、ふだん宇和島へ行くことはありませんでした。宇和島に行くのは夏の和霊(われい)さんの時(宇和島市にある和霊神社の夏祭り)です。船の神様だから、和霊祭は昔から行っていました。ほとんどの船、漁船も石船(いしぶね)(砂利運搬船)も、人がいっぱい乗って行っていました。初めは小さい船で行った思い出がありますが、最後の方は鉄板の大きな船で行きました。お祭りに行って、船の中に泊まって戻って来ていました。
 盆踊りは公民館前で行われていて、伊方小学校に会場が移ったのはずっと後になってからでした(図表1-1-3の㋐参照)。公民館前はとても狭いのですが、見物人がとても多かったです。盆踊りでは、両手にシデ(竹の先に色紙などをつける飾り)を持って踊るシデ踊りをしていました。女の子は、たすきがけに蹴出(けだ)しを出して、鼻筋に白いおしろいをして、口紅をつけてもらいました。子どものころはそれがうれしかったので、口を気にしながら踊りました。シデはそれぞれの家で作っていました。今は、発砲スチロールでシデを作りますが、赤や黄色の色紙を切り、竹の先に付けて作っていました。昔は子どもが多くいたので、子どもだけの集団で踊れました。大人は、ほっかむりではなく笠を被(かぶ)った人もいました。
 私の母は伊方越(いかたごし)から嫁いできていました。母の地元では、笠を被って踊っていたみたいなのですが、その笠を被って踊る姿が、『ハイカラや。』『粋(いき)や。』ということで、地元の人たちに母が教え、湊浦の踊りに取り入れられて、笠を被るようになりました。それは、笠を被った阿波(あわ)踊りの女性の姿に似ていて、時代劇に出てくる三味線(しゃみせん)を持った旅姿の女の人のような格好でした。
 千鳥丸の問屋をしていた橋本さんと杜氏(とうじ)の梶谷さんは声が良くて、盆踊りでは長い間、マイクなしの地声で歌っていました。歌の練習のために伝馬船(てんません)で沖に出て練習していたりしました。『加周(かしゅう)口説(くどき)』は、今でも傘(かさ)をさして歌います。なぜか必ず破れた番傘をさして歌っています。昔は意味があったのだと思います。」

(5)演芸大会

 「昭和20年代から30年代に一番盛り上がった行事は演芸大会です。一大イベントでした。地区ごとでするときは、子ども会や婦人会などみんなでするのですが、『ホンダン(本団)』と言って、地区で選ばれて芝居をするときは青年団がしていました。1年に1回、湊座で伊方じゅうの地区が順番に出て芝居をします。知っている人が出るからおもしろかったのです。専門の役者を雇うのではなく、自分たちで演じ、だれもが役者になって、みんなが『今度はこれ。』というように、地区ごとに出て芝居をするのです。
 演芸大会は、小さい子どもからお年寄りまでみんなが楽しめました。三段重ねの重箱に弁当をこしらえて湊座に行っていました。湊座に人が入りきらないので、伊方を東側と西側の二つに分けて、2日間同じことをやっていました。化粧したりする準備は湊座ではできなかったので、劇場の周りの家は、各地区の宿になっていました、私(Cさん)の家は仁田之浜地区、Bさんの家は河内(かわうち)地区の宿でした。お化粧したり、三味線など芝居道具を置いたりしていました。
 芝居を教える先生のような人もいました。仁田之浜にはカツラを準備できる人もいて、カツラを貸してもらったり付け方を教えてもらったりしました。芝居はほとんどが時代劇で、現代劇は流行(はや)りませんでしたが、中浦(なかうら)地区がよくしていたと思います。湊浦地区も現代劇の『田園交響曲(こうきょうきょく)』をしたことがあります。
 11月3日の翌日から一斉にイモ掘りが始まり、その晩から演芸大会の稽古が始まって、その後、麦まきが終わった11月末ごろにホンダンが行われました。ちょうど秋のイモを掘る時期したので、黒斑(こくはん)だらけの手で踊りの練習をしたのを覚えています。」