データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並をたどる

(1)海岸沿いの町並み

 「九町の町並みは、海岸沿いの道が奥地区へ曲がっていく道沿いにあります。当時は海岸沿いの道も、山際に向かう道も狭く、自動車が離合できる道ではありませんでした。台風の時や波が高い時は、海岸沿いの道際まで海水がきていました。昭和40年代になって、大型のバスやトラックが通れるように、道路南側を拡張して道幅を広げました。中にはジャッキで家を動かし、引き家をした家もありました。
 九町には、豊栄(ほうえい)座と町見館(まちみかん)の二つの映画館がありました(図表1-2-2の㋕参照)。豊栄座と町見館は経営者が違い、それぞれ上映する系列が違っていました。一つは大映系だったと思います。経営は地元の人が行い、映画技師としても仕事をしていました。どちらの映画館も規模は大きくなかったのですが、両方がどんどん上映して競いあっていました。それまでは娯楽映画などを見る機会はなく、映画といえば学校での教育映画ぐらいでしたので、映画館で見る映画は目新しかったです。
 映画館がなかった戦前には、浜に芝居小屋がありました。芝居は、地元の人たちがするものではなく、地域を巡回する旅の一座が行っていました。舞台の設置は、久保や須賀など九町の中の各地区が持ち回りで設置していました。担当地区の人たちが集まり、ノコギリを持って作業する人がいたり、幟(のぼり)を立てる人がいたり、1日がかりで舞台を造ります。舞台は、観客が海側に向かって見えるように設置されるので、潮が満ちてくると舞台の下まで海水が満ちて、海上に舞台がある状態で芝居をしていました。観客は砂浜で見ていました。とても幻想的で印象深かったです。その後、常設の豊栄座や町見館ができたので、浜の芝居小屋はなくなりました。
 道の海側にあった映画館の近くには自転車店や魚屋、たんすを作る指物(さしもの)大工さんなどが住んでいました。魚屋さんはリヤカーで魚の行商をしていて、奥地区の天徳寺(てんとくじ)あたりまで行っていました。
 海岸にある突堤の両側には、製材所や旅館がありました。曲がり角のところに家があったため、バスの右折や左折ができませんでした(図表1-2-2の㋖参照)。今は、角の家が立ち退き、道路改良で曲がりやすくなっています。角の家の西には理容店がありました。
 突堤の東の浜辺では砂浜に土俵を作って相撲(すもう)をしていました(図表1-2-2の㋗参照)。牛市場も浜辺にありました。道の曲がり角のところには、牛を量る大きな秤(はかり)がありましたが、その後、タクシー会社になりました。昭和28年(1953年)ころには、牛市場で伊方と町見が交代で牛の品評会をしていました。」

(2)山際の道 

 「海沿いから山手へ向かう道を少し進むと、左に八幡(やわた)丸の問屋がありました(図表1-2-2の㋔参照)。八幡丸は、三崎から半島の南岸の各地に寄って八幡浜へ行く船です。船が突堤に着かないので艀(はしけ)を出して船に乗っていました。もう一つ、繁久(しげひさ)丸というのがあって、八幡浜と別府を結んでいました。繁久丸のほうが八幡丸より大きかったですが、便数は少なかったです。
 山手へ向かう道の右、農協のところ辺りが少し広場になっていて、盆踊りを踊っていました(図表1-2-2の㋔参照)。お祭りの山車(だし)などもそこに出ていました。
 その少し先にはアイスキャンディー屋さんがありました(図表1-2-2の㋒参照)。昔は、キャンディーの表面にアンモニアの味がついていて、なんだか表面が苦(にが)かった経験があります。
 医院は、井田先生がしていました(図表1-2-2の㋐参照)。船に乗って九町へ来る人の中には、井田医院に通院する人もいました。井田医院に診てもらうために、三崎の方からも井田医院に来ていました。帰りの船の関係で、医院での診察の順番とりのために、船を降りたら走って病院に行っていました。」

図表1-2-2 昭和30年ころの九町の町並み1

図表1-2-2 昭和30年ころの九町の町並み1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-2 昭和30年ころの九町の町並み2

図表1-2-2 昭和30年ころの九町の町並み2

調査協力者からの聞き取りにより作成。