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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並をたどる

 「三机の町は、昔からの道を広げたりしていないので、メインストリートの道幅は昔から変わっていません。海岸沿いで地番が4000番台の土地には、今は家が立っていますが、そこは全部、海を埋め立てたのです。三机のメインストリートの特徴として、道の両側に幅20cmぐらいの青石を敷き詰めています。また、建物の基礎に青石が使用されています。昭和30年(1955年)ころとかでなく、三机の町ができたころから使っています。
 旧役場側の歯医者さんの辺りから酒屋さんぐらいまでが、『十七軒屋(じゅうしちけんや)』と呼ばれています(図表1-3-2の㋘-㋝参照)。昔、宇和島のお殿様が来られた時などに、家来やお供の者が宿泊する場所が十七軒屋だったそうです。その当時の豪商たちの家です。
 お殿様には、『御仮屋(おかりや)』と呼ばれる専用の宿泊所がありました(図表1-3-2の㋐参照)。場所は、旧庄屋宅の山手の上、道を挟(はさ)んで上ぐらいの位置になります。今は標柱が建てられています。その標柱も少し前まで、場所が違っていたので建て直しました。
 御仮屋の場所には、昭和30年ころ、写真店がありました。写真店は岩宮旅館の関係の方(分家)がやっていました。今は、家はありません。かつて、岩宮さんの家筋の方が宇和島藩に仕えた関係で、御仮屋跡地を購入したと聞いたことがあります。
 宇和島藩のお殿様は、御仮屋に泊ることは少なく、ほとんど長養寺(ちょうようじ)に宿泊されていたそうです。そして、参勤交代の帰りにお殿様が亡くなってご遺体を安置したこともあったそうです。
 『八間(はっけん)長屋(ながや)』は、四電(四国電力散宿所)から菓子屋までの間の、ずっと繋(つな)がっている所です(図表1-3-2の㋙-㋜参照)。1間を1.8mとすると8間なので15m弱です。このあたりの海岸に桟橋(さんばし)があって、汽船が停泊していたそうです。
 庄屋さんの敷地は、子孫ではない方の家やデイサービスセンターなどに今はなっています(図表1-3-2の㋑-㋒-㋓参照)。三机のお庄屋さんは、井上・兵頭・菊池家と順番に代わりました。最初のお庄屋さんは、中尾城主であった井上(いのうえ)善兵衛尉(ぜんべえのじょう)重房(しげふさ)の子がなりました。昭和の中ごろまで、メインストリートの正面に庄屋の門があり、広くきれいな邸宅で、時代劇に出てくるような門構えでした。今の花壇がある所です(図表1-3-2の㋕参照)。そこで私(Aさん)は、小学生のころよく遊びました。昭和30年ころには、庄屋さんの屋敷や門はなかったように思います。
 庄屋の家の向かい側の公園が旧役場でした(図表1-3-2の㋗参照)。旧役場は、2階建ての建物で、風流な建物でした。明治時代の建築で、解体するかしないかで問題になりましたが、結局解体しました。この建物は残すべきでした。建物の前には、サルスベリの木があって雰囲気がよかったです。今は、ハマボウ(落葉低木)があります。
 昭和37年(1962年)に私(Bさん)が商工会に就職した時には、旧役場の建物を借りて内装などを改造し、様々な団体が入っていました。一番端に松山海上保安部三机分室があって、商工会があって、その隣が宇和島煙草(たばこ)耕作組合で、もう一つは養蚕(ようさん)組合、そして瀬戸町建設協会、奥に瀬戸農協がありました。2階には公民館の主事さんがいました。2階と言っても中2階の部屋でした。モダンな建物でしたが、あまり大きくはなかったです。
 戦前の話ですが、回り舞台がある常小屋(じょうごや)がありました(図表1-3-2の㋚参照)。町の真ん中の一等地、岩宮旅館の隣の倉庫が常小屋でした。昔は『華やかで、ええとこやった。』と聞いていますが、私(Aさん)が覚えているのは、ぼろぼろの建物です。
 とんぼ通りの名はどちらから見てもT字なので、とんぼ通りといいました(図表1-3-2の㋜参照)。近田貞子さんが名付けた名前です。近田貞子さんは三机の有名人で、若いころ、バスガイドをしていました。とても気の利いたかわいらしい人でした。」

図表1-3-2 昭和30年ころの三机の町並み

図表1-3-2 昭和30年ころの三机の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成。