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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 大久の生活

(1)くらしと浜とのかかわり

 ア 大久のニワトコ

 「海岸沿いの東西の道を浜道路(はまどうろ)(海岸道路)と言います(図表1-4-1の㋙参照)。まだ浜道路がない時代には、大久の東西への移動に砂浜の陸側で歩きやすいところをみんなが通るので、足跡が着いて自然と道ができていました。地元の人は大久の浜道(はまみち)と呼んでいました。戦前のことですが、大久の海岸沿い(海岸に近い)の各家は『ニワトコ』という物干し場を持っていました(図表1-4-2参照)。ちょうど今の浜道路がある辺りになります。その当時は、砂浜の陸側に所々赤土が露出したような場所がありました。その赤土の陸側の一段上がった場所がニワトコになります。そこの陸側に石積の壁に麦わら葺(ぶ)きの小さな納屋(なや)を建て、中には麦やアワ、ヒエの脱穀用のカラウスとそれをつくヤグラなど農業用の様々な道具を置いたり、『納屋のツシ』と呼んでいた天井裏のスペースには牛に与える干し草などを保管したりしていました。その納屋の前の広場を各家の物干し場として使っていたのです。麦や切り干しを干したり、イリコを干したり、牛のえさにするイモのつるも干していました。イモのつるがかさばって納屋へ入りきらないので、ニワトコの前の赤土の部分にやぐらを組んで干したイモのつるを入れていました。大久では昔からの慣習で、家から海までを地先として各戸が自由に使える権利がありました。その権利を持っていない家は、砂浜に船を上げたり、牛をつなぐ杭を立てたりすることができなくなるので、砂浜は誰でも自由に使えるようになったのですが、砂浜の手前の赤土の部分までは各戸の地先とする権利があったのです。」

 イ 生業の場としての浜

 「昭和20年代後半まで大久ではイワシ網漁が行われていました。イワシ網漁は5月漁と言って旧暦の5月、今なら6月くらいが宇和海のイワシ漁の最盛期になります。イワシはイリコにします。イリコを作る作業はニワトコでしていました。マイラセ(魚などを入れる竹製のカゴ)に入れたイワシを大きな釜につけてゆでて、スダイ(シノズ、長さは1間半〔約2.7m〕)へ移して、4段から5段ぐらいの棚(たな)を作って干します。イワシがたくさん獲れて、梅雨時なので干すのが間に合わないときは、『腐(くさ)らかし』と言って酒樽(さかだる)のような桶(おけ)に入れてそのまま腐らせて畑の肥やしにすることもありました。
 5月漁の真最中はちょうど麦を刈る時期と重なるのです。女の人は炊事や洗濯もあるので忙しくて大変でした。沖で網を引いている間は畑で麦を刈って、漁の終わった船が帰り始めると麦刈りを中断して、浜に出て釜にお湯を沸かしてイワシをゆでて、それを干さなければならないのです。麦刈りの終わった麦も束にして干さなければならないので、その時期は寝る時間がないぐらい忙しかったのです。
 秋から冬のはじめにかけては、切り干しを干します。秋祭り(10月18日)が終わるとイモを掘って切り干しを作ります。千貫切(せんがんぎ)りで薄く切ったイモをスダイに入れて、ニワトコに3段ぐらいの棚を作って乾燥させます。ニワトコだけでは間に合わないので、砂浜に直(じか)干しすることもありました。切り干しを出荷する時は、家から浜まで運んで、八幡丸の問屋さんが持っている通い船を借りて、人夫を雇ってその船に積んで大船まで運んでいました。」

 ウ 楽しむ場としての浜

 「大久の春祭りが旧暦の3月18日にあったのですが、それに合わせて芝居の興行(こうぎょう)がありました。春芝居と言って大久地区の区費からお金を出して芝居の一座を呼んでいました。1日しかなかったのですが、砂浜に丸太を組んだむしろ囲いの舞台を建てていました。その日は仕事を休んでお弁当やお酒を持って芝居を見ます。子どもから大人までの大久のみんなが楽しみにしていました。昭和30年代の中ころまではやっていたと思います。大久に映画館ができる前なので戦前のことですが、春芝居とは別に浦芝居と言って、地方巡業の芝居の一座が回ってきて浜に舞台を建てて上演していました。
 夏になると牛駄屋から牛を連れ出し、人も牛も浜辺で夕涼みをしていました。昭和30年代は、大久のほとんどの家で牛を飼っていたので、砂浜の陸に近いところには、高さ1.5m足らずの杭が無数に立っていて、そこへ牛をつないでいました。まだ、テレビがない時代だったので、夕食が終わると浜に行って、みんなで話をしたりして帰るのが毎日の日課でした。
 現在の大久小学校の東側に於幾世里(おきより)大明神(だいみょうじん)があります(図表1-4-1の㋚参照)。地元では『おきよ様』と言いますが。『昔、大久の沖合で船が転覆し、お幾世(きよ)という女の人が流れ着いたが息をひきとり、その後疫病(えきびょう)や災害が続いたので、お幾世様の祟(たた)りかもしれないということで、祠(ほこら)を建て於幾世里大明神と唱えてその霊をなぐさめたら疫病も災害もおさまった。さらに九州の五島(ごとう)列島から習って帰ったしゃんしゃん踊りを奉納し霊をなぐさめた。』という言い伝えがあります。そのお祭が旧暦の八朔(はっさく)、現在は9月1日に行われます。夕方になるとイヤシャン踊り(大久ではしゃんしゃん踊りのことをイヤシャン踊りという。)の奉納があります。最初にお幾世様の供養のためにお寺(長松寺(ちょうしょうじ))で踊りをして、それからおきよ様(於幾世里大明神)の前の浜で踊って、明神(みょうじん)さん(感浦(かんうら)大明神、於幾世里大明神の分社)の前の浜で踊りを奉納して終わりになります。昔は、イヤシャン踊りが終わると、新仏(しんぼとけ)さんを出した家族が集まって供養のために盆踊りをしていました。
 秋祭りの舞台も浜でした。御輿(みこし)や四ツ太鼓、唐獅子が浜とその周辺を練り歩き、人々が浜に出て見物するのです。大久の人にとって浜は生活の場であり、集まり楽しむ場でもありました。その一方で浜は別れの場でもありました。昔は、葬式を浜で行うことが多かったのです。また、お盆の15日には、新盆を迎える家の親戚や近所の人が、麦わらで『おしょろい舟(精霊船(しょうろうぶね))』を作って流すのです。」

 エ 浜がやせた

 「昭和30年(1955年)ころの大久の浜は今よりもきれいで、テトラポットも波止場(はとば)もなかったので今よりももっと広かったのです。テトラポットができたのが昭和35年(1960年)ぐらいだと思います。浜がやせて狭くなったのは、沖の砂を取りすぎたからだと思います。昭和30年代には、ほとんど毎日のように、何艘(そう)もの船が大久の沖で砂船を着けて砂を取っていました。伊方町(いかたちょう)仁田之浜(にたのはま)の業者が砂を買っていたのです。大久地区は、砂を売ったお金を地区運営費用にしていたのです。大久地区で砂船を監視する人を雇って、その人が双眼鏡で見て、船の名前と何艘(なんそう)分取って帰ったかを記録して、業者から集金をしていました。しかし、宇和島の海上保安部から砂を取ってはいけないという指導があり、砂を取ることができなくなったのです。」

(2)娯楽の殿堂

 「松田劇場は、倉庫を改造したような建物でした(図表1-4-1の㋛参照)。中は中2階になっていて入口側というか道路側が2階で映写機があり、海側(北側)にスクリーンがありました。観客席は結構広くて50、60人は入れました。客席には、むしろが敷かれてあり、下はでこぼこしていました。虫もいて、劇場へ行くとあちこちかまれた記憶があります。映画館でしたが、観覧席より一段高い舞台もあって芝居小屋のようになっていました。劇場内は光をさえぎる暗幕もなく、明るいと戸の隙間(すきま)から光が漏(も)れるので、上映は暗くなってからやっていました。夕方になるとレコードがかかって『娯楽(ごらく)の殿堂(でんどう)、松田劇場』というように松田劇場のマイク放送が入るのです。それをみんなが畑でイモ掘りなどの仕事をしながら聞いて、『今晩は○○○○がある。』『早く帰って行かないけん。』と言いながら、映画を見に行くのを楽しみにしていたのです。入場料もそんなに高くなく、ちょっとした小遣いぐらいで見ることができました。テレビがない時代だったのでよく行っていました。映画が上映されるのは、毎日ではありません。三崎から技術者の人が来ていたので、1週間に1回もなかったです。小学校で教育映画を見るときも、当時は体育館もなくて映画を上映する場所がなかったので、小学校からみんなで松田劇場まで歩いて行って、教育映画を見ていました。
 松田劇場がなくなったのは、昭和41年(1966年)です。私(Fさん)が中学校を卒業した年です。同級生4人ぐらいで卒業式の後に映画を見に行きました。2本立てで1本は高橋英樹主演の『男の紋章』でした。もう1本は忘れてしまいましたが、それが最後の上映でした。昭和30年代後半からテレビが普及するようになって、劇場をやめる3年ぐらい前から、『これが最後の上映になります。』『今回が最後です。』と放送をしながら上映を続けていたのですが、その時は本当に最後の上映になってしまったのでよく覚えています。
 テレビが普及し始めたころのことです。各家でテレビを買うと家の屋根にテレビのアンテナが立ちます。アンテナが立つたびに、それを見た松田劇場のおじいさんが『あそこの家もテレビを買ったから、もう映画は見に来てくれんなる。』と言って残念がっていました。やはり、テレビに押されて、映画を見に来る人が少なくなってやめたのでしょう。」

(3)酒店からみた大久の変化

 「お店を始めたのは、私(Cさん)の祖母の代になるので明治時代になると思います(図表1-4-1㋜参照)。正確な年代はわかりませんが、かなり昔からやっていたようです。私(Dさん)は昭和29年(1954年)に伊方の湊浦からここへ嫁(とつ)いできました。まだ道路が整備される前だったので、嫁入り道具を砂船(すなぶね)に載せて大久の沖まで運んでもらいました。沖からは小船に積み替えて運んできたのです。お酒の仕入れも八幡浜の問屋から八幡丸で大久の沖まで持ってきて、それを通い船に積んで浜まで運び、浜から店までは担(かつ)いで持って帰っていました。主に焼酎(しょうちゅう)で、1斗(と)入りのウンスケ(焼酎や酒を入れる陶器の壷)に入れて持ってくるので、それを1升(しょう)ビンに入れ替えて販売していました。お酒だけでなく食品や雑貨すべて八幡丸で運んできていたのです。大久のお店だけでなく、田部(たぶ)や神崎(こうざき)のお店の人も同じようにして運んでいました。山を越えて運ぶので大変だったと思います。
 その当時、この辺は役場も郵便局もあって、店もたくさんあって四ツ浜村の中心部だったのです。ほとんどの家は、牛を飼いながら山(段畑)でイモと麦をつくるという生活をしていました。麦は食用としてつくり、イモは切り干しにして出荷していました。現金収入は牛を売った収入と切り干しを売った収入でした。そのため、支払いは現金でなくてツケ(その場で支払わないで店の帳簿につけさせておき、あとでまとめて支払う方法)でした。牛を売ってお金が入ったら支払うか、年末に切り干しが売れたお金が入ったら支払うという人がほとんどでした。
 私が嫁いで間もなくして大久小学校が東明(こちあけ)へ新築移転しました。新しい小学校を建てる時に、地区の人がたくさんコウロク(奉仕的な労働作業)で手伝いに行っていました。うちの主人も行っていました。小学校跡は牛市になったのですが、そのころが一番忙しかったです。牛市が開かれる日はお客さんがたくさん来て、お酒を買って立ち飲みをしながら牛のことをいろいろと話していました。また、浜でチアイ(牛の爪切り)があるとここへ寄って、立ち飲みをしたりお酒を買って帰ったりしていました。
 昭和31年(1956年)に伊予鉄バスが大久まで開通したので、申請をしてバスの切符を売るようになりました。郵便局の前に出て大きな黒いカバンをかけて切符を売っていたのです。まだ三崎までバスが開通していなかったので、最終便のバスは大久止まりになります。消防車庫の西側が親戚の空地だったのでそこへバスを停(と)めるようにして、空き家があったので貸してあげて運転手も泊まっていました。昭和34年(1959年)にバスが三崎まで開通するまでの間ですが、畑でイモや麦を作って、牛も飼っていたので世話をしなければならなかったので忙しかったです。昭和40年代に入って、周辺の雑貨屋やお菓子屋が店をやめていきました。それまで家(うち)は、お酒とタバコしか扱っていなかったのですが、周りのお店がやめたので文房具やお菓子も置くようにしたのですが、20年ぐらい前から子どもの数が減って文房具を買う子どもがいなくなり、文房具を仕入れるのをやめました。今は大久にお店がほとんどないので、昔からのお客さんや近所の人が不便にならないようにこれからも続けたいと思っています。」

図表1-4-2 ニワトコの図

図表1-4-2 ニワトコの図

Aさんからの聞き取りをもとに作成。