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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 半島の海の安全を願う

 日本一細長い半島の突端では、大正に入ってから汽船の速度と夜間航行の増加などによって豊予(ほうよ)海峡の通過が危惧(きぐ)され、大正7年(1918年)に佐田岬灯台が設置された。光源(こうげん)やレンズ駆動(くどう)の改良や航海に必要な情報を提供するシステムの高度化が進められ、平成5年(1993年)に職員の滞在勤務が廃止されたものの、今も半島の海を通る船の安全を見守っている。
 海上保安庁職員として昭和27年(1952年)から36年(1961年)まで佐田岬灯台(28年〔1953年〕から佐田岬航路標識事務所)に常駐勤務をしていたCさんは、灯台での仕事やくらしについて次のように話す。

(1)灯台守の仕事

 「灯台の光源は、もともとは石油を燃やすランプでしたが、昭和27年にはすでに電化されて電球でしたので、灯台ができた当時に比べて仕事の大変さは軽減されていたと思います。でも、毎日の日の入りや日の出に合わせた電源の入り切りや、正規気象観測などは時刻に合わせて正確にこなす必要のある業務でしたので気をつかいました。正規気象観測は、気温や気圧、風向、風速などを1日に4回観測(3時、9時、15時、21時。3時は自記記録からデータを採取)し、9時と15時の結果は松山の気象台へ電報で送っていました。当時はまだ使える電話回線が少なかったので、その気象電報を送る時間になると電話を使えなくして回線を空(あ)けておき、電報を最優先にして運用されていました。
 灯台を塗装(とそう)するのも職員の仕事でした。生石灰(せいせっかい)を18ℓ缶に入れて海水で溶(と)き、それを稲の穂先で作った箒(ほうき)で叩(たた)きつけるようにして塗(ぬ)るのです。塩分などを含んでいるからでしょうか、真水よりも海水で溶いた生石灰のほうが壁に付きやすく長持ちもしました。昔の灯台の白い塗装はすべてその方法でしていました。2年に一度ぐらい塗っていましたが、灯台の天辺(てっぺん)近くの作業のときは命がけでした。
 今でこそ灯台へは車で行けますが、当時は人がようやく通れるほどの細い道でしたので、船で来る人のほうが多かったように思います。夏場の観光シーズンには、串から三崎までの渡海船が観光客用の臨時便を出していました。その観光客への説明などは職員がするのですが、一番若かった私に任されることが多く、観光客を案内するために灯台の中の上がり下がりを随分(ずいぶん)としたものです。」

(2)黄金碆を照らす

 半島の海浜(かいひん)には碆(ばえ)と称する海底の露岩(ろがん)が目立ち、中でも半島尖端(せんたん)部から約700mの海上に浮かぶ黄金碆(おうごんばえ)は有名で、半島を特色づける岩石である結晶片(けっしょうへん)岩中の硫化(りゅうか)銅が輝くことから名付けられた。この硬い岩礁(がんしょう)付近は航路筋にあって潮流の速い難所であり、昭和25年(1950年)に灯柱(とうちゅう)が建設されたが、『日本燈台史』の中で戦後の著名工事の一番目に取り上げられるほどの難工事であった(⑤)。
 Cさんはその黄金碆灯柱について語る。
 「黄金碆の岩盤は削岩機(さくがんき)の歯が当たらないくらい硬く、しかも潮流がとても速いうえに潮の干満によって作業時間が限られ、相当な難工事だったと聞きました。最初の灯柱には旧日本軍の戦艦の砲身(ほうしん)が使われ、その上にガス灯がついていて砲身の中にガスの導管(どうかん)を通していたのですが、砲身というのは非常に硬いもので、ガスバーナーでなかなか切れずに作業が大変だったそうです。昭和51年(1976年)に佐田岬灯台から岩礁を照射(しょうしゃ)する方法に変更した後も、しばらくは灯頭(とう)を除いた砲身を被射体として使っていましたが、その後の台風で砲身が倒れてからは別の柱が立てられました。
 ガスを使う標識は全国でここが最後となり、灯柱から照射灯への切り替えは私が現場担当でした。灯柱の保守作業は、月に2回の点検や2か月に一度の燃料交換、台風などによる灯頭の被害の復旧などでしたが、特に燃料のアセチレンガスの交換作業は困難で危険を伴うものでした。高くてうねりのある波の中を傭船(ようせん)先から小さな伝馬(てんま)船に約80kgのガスボンベを積み直し、直径3mに満たない台座に渡り、引き潮の間の短い時間をねらって二人で作業を行ないます。台座のコンクリートの蓋(ふた)の下にボンベが入るようになっていて、灯柱に付いている梯子(はしご)に滑車(かっしゃ)を架(か)けて古いボンベを引っ張り出し、それを脇(わき)において新しいものに入れ換え、錆(さ)びて汚くなり持ちにくくなった古いボンベを運んで帰るのです。冬場などは海が荒れ、しかも台座に海苔(のり)がついて滑(すべ)りやすく非常に危険でした。」

(3)灯台で暮す

 「仕事の他に大変だったことは、特に、医療と子どもの教育でした。当時は、所長を含めて5人の職員とその家族が灯台近くの官舎に住んでいましたが、病院までが遠くて急病の時には大変困りましたし、正野小学校や串中学校まで(約2.5kmから約4kmの距離)を歩いて通っていた子どもたちにとっては、灯台周辺が主な遊び場であり、職員とその家族が遊び友だちでした。
 それでも、夜になると正野や串から村の人がよく訪ねて来てくれ、酒を飲みながら楽しく話をすることもありました。また、観光客以外にも思いがけない人が訪ねて来ることもあり、南極観測船『宗谷(そうや)』の2代目船長をされて当時は海上保安庁第6管区本部長であった明田末一郎さんが灯台の視察に来たときは、地元の人たちも同席する中で南極のいろいろな話を聞かせてもらいました。他の印象深い来訪者としては、昭和30年(1955年)の夏でしたが、金魚売りの業者が金魚の入った桶(おけ)を天秤(てんびん)棒で担(かつ)ぎ一人でやってきたことがありました。あそこに灯台が見えるから灯台守とその家族がいると思って長く細い山道を歩いてきたのでしょうか。忘れられない思い出です。」
 景観美の中に立つ白亜(はくあ)の塔の雄姿(ゆうし)から海上保安庁の「日本の灯台50選」にも選ばれた佐田岬灯台は、多くの人の地道な努力によって光を放ち、半島の人々のくらしを支える豊饒(ほうじょう)な海を照らし続けている。