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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 三崎牛の飼育

 佐田岬半島は昭和40年(1965年)ころまで、三崎牛とよばれる肉牛の飼育が盛んであった。その起源は宇和島藩主伊達(だて)秀宗(ひでむね)(1591年~1658年)が仙台(せんだい)から入封(にゅうほう)の際、仙台(せんだい)藩名取郷(なとりごう)から駿馬(しゅんめ)と馬飼人を連れてきたことに由来するといわれる。明治初期までは馬・牛ともに盛んに飼育されていたが、次第に馬の飼育は衰退し、代わりに牛の飼育が増加した。明治末期には優秀な種牛の導入や新種改良を行い三崎牛として知られるようになった。明治43年(1910年)には大久に家畜市場も開設された。以後、毎月牛市が立ち、大久や川之浜(かわのはま)のほとんどの農家は数頭の牛を飼育するようになった。しかし、昭和40年代以降は三崎牛の飼育も衰退し、大久の牛市も昭和46年(1971年)に閉鎖された。
 三崎牛の飼育や牛市の様子について伊方町大久のAさん(大正13年生まれ)、Bさん(昭和2年生まれ)、Cさん(昭和5年生まれ)、Dさん(昭和2年生まれ)に話を聞いた。

(1)コダシとカイダシ     
 
 三崎牛の飼養形態についてBさん、Cさんは次のように話す。
 「昭和30年(1955年)ころは、大久のほとんどの家で牛を飼っていました。どこの家にも母屋の隣や納屋に牛駄屋(だや)がありました。うちは、母屋のすぐ隣に駄屋があって通路を挟(はさ)んで人と牛が生活をしていました。今も牛駄屋は残っています。物置にしていますが建物は当時のままです。牛駄屋は、練土(ねりつち)(土に石灰や小砂利、にがりを混ぜてこねた壁土)を使って造っていました(写真2-2-1参照)。石積みを造るのに土だと雨が降って流れるからです。
 牛は、私たちが子どものころからずっと飼っていました。私たちも話しに聞いたことがあるのですが、昔は馬を飼っていたようです。いつまで飼っていたのかは定かではありませんが、明治時代はまだ飼っていたようです。私たちは馬を飼っているのは見たことがありません。私たちが知っているのは牛です。
 この辺の飼養形態は、大半が雌(めす)の親牛を飼育し、種付(たねつ)けをして子牛を産ませ、その子牛を育てて売る形態で、コダシと呼んでいました。子牛は、8か月から9か月ぐらい飼って太らせて牛市に出します。農家1戸が親牛1頭と子牛1頭を飼育することが多かったのですが、大きな農家では親牛と子牛を2頭ずつ飼っているところもありました。また、生後10か月ぐらいの雌の子牛を買って、それを育てて売るところもありました。カイダシと言います。種牛(たねうし)のことをコッテと言います。コッテを飼育している家は大久で2軒ありました。そのどちらかの種牛に種付けをしてもらって子牛を産ませるのです。雌牛が2、3歳になると子を産むことができます。雌牛が発情したらコッテを飼っている家へ連れて行って種付けをします。種付けをして200日ぐらいすると子牛が産まれます。」
 また、Aさんは次のように話す。
 「うちはコダシとカイダシの両方をしていました。カイダシは、博労(ばくろう)(牛馬の売買・仲介を業とする人)に頼んで牛市で雌の子牛を買ってもらい、1年から1年半くらい世話をして太らせて売ります。子牛を買った時に、和牛登録をすると登録証が交付されます。当時飼っていた牛の登録証が残っています。登録証は、人間でいうと戸籍のようなもので、牛の名前、父牛・母牛の名前はもちろん祖父母牛の名前、誕生日、繁殖者、所有者が書かれており、その牛の特徴も記載され、鼻紋(びもん)が押されています。
 昭和44年(1969年)に雌のシゲコ号という子牛を買いました。繁殖者は高茂(こうも)で牧場を経営していた人です。牧場で放牧をしていたので繁殖者も知らなかったのでしょう。世話をしていた私も最近太ったと思うくらいで、まさか子ができていたとは思いもしません。ある日、畑仕事から帰って牛駄屋に行くと子牛がいるのです。子牛が子牛を産んだのです。『ベェー、たまげたやないか。』と牛に声をかけると牛も『ベェーー』と鳴いて、なんだかすまなさそうな顔をしていたことを思い出します。産まれた子牛は立派な牛でした。この子牛も育てて売ったのですが、母牛はわかっても父牛がどの牛かわからないので安い値段でしか売れませんでした。」

(2)三崎牛の飼育について

 三崎牛の飼育についてBさん、Cさんは次のように話す。
 「人が朝ごはんを食べる前に牛にえさを与えて、牛に食べさせた後で人がご飯を食べていました。当時、人は朝6時ころにごはんを食べて、10時ころに昼ごはんを食べて、3時ころにもう一回昼ごはんを食べて、晩に晩ごはんを食べていました。牛には朝昼晩の3回、えさを与えていました。牛のえさは草です。この地域では米を作っていなかったので稲わらをえさにすることはありません。 
 うちは、草場(牧草地)を持っていたのでそこへ刈りに行っていましたが、草場を持っていない家は現在、佐田岬リゾートが建っている辺りに亀ケ窪(かめがくぼ)という草場があり、そこへ刈りに行っていました。草場のことをコグサ山と呼んでいました。もともと亀ケ窪は大久の共有地で面積も150町歩以上ありました。当時は、そこにチガヤが繁殖しており、牧草地として農家に小作をしていたのです。それぞれの家ごとに牧草地をしきっていました。この地域では、標高が一番高い場所になります。コグサ山は、亀ケ窪以外にも田部(たぶ)越えやゼンノゴシにもありました。コグサ山で刈るチガヤは、冬のえさにする分です。だいたい9月ころになるとコグサ山へ行ってチガヤを刈りに行っていました。白い穂の出る前がちょうど良かったのです。秋祭り(10月17日、18日)までには草刈りを終えていました。秋祭りが終わるとイモ掘りで忙しくなるからです。昔は、草刈り機もなく全て鎌での手作業だったので家族総出で行っていました。刈った草は山で乾かしてオイコで背負って帰ります。それに麦や大豆カスを混ぜて与えていました。
 夏のえさは青草です。段畑のギシ(段畑の段になっているところ)に生えているハズ(カラムシ)などの草やイモづるなどをえさとして与えていました。ハズは牛の好物のようでおいしそうに食べていました。イモづるはハミキリ(草やわらを細かく切る道具)で切って与えていました。その当時は、段畑のことを白畑(しらはた)と呼んでいました。麦とイモを作っていたので、年中白っぽく見えるからです。イモづるはえさにして麦わらは敷草(しきくさ)として使っていました。」
 また、Aさんは次のように話す。
 「牛のえさは主に草ですが、少しでも栄養になればと思い、冬には大根の形の悪いものやイモを切って、人が食べないような麦と一緒に釜(かま)で炊いて、ハミキリで切った乾燥したコグサやイモづると混ぜて与えていました。夏は、青草を食べさせていました。牛にえさをやるのは、年寄りの仕事で、草を刈るのは若い人の仕事でした。
 牛の糞(ふん)を始末して麦わらを敷くことを『牛のしたたてる』と言います。長い間置く人は20日間ぐらい置くのですが、私は人間でもきれいな場所は気持ちが良いので牛も同じだろうと思って、1週間に1度は糞を除(の)けて、ハミキリで切った新しい麦わらを敷いていました。牛の糞はカマスに入れて、オイコでかろて(背負って)山に上げ、腐らせて畑の肥料にします。」
 また、Dさんは次のように話す。
 「実家でも牛を飼っていましたが、私は勤めに出ていたのでほとんど牛の世話をすることはありませんでした。昭和26年(1951年)に結婚したのですが、それから牛の世話をするようになりました。この辺では、牛のえさにする草を刈るのは嫁の仕事でえさをやるのは姑(しゅうとめ)の仕事でした。牛を売るとお金が入るので牛さま様だったのですが、草を刈りにいくのが大変だったのです。夏の青草を刈りに高茂(こうも)の方まで行っていました。朝5時ころに行って、刈った草をカヤで束(たば)ねてオイコで背負って持って帰ります。雨が降っても何があっても毎日行かなければならないきつい仕事でした。秋になるとコグサ場へ行って冬のえさにする草を刈り、干して持って帰っていました。当時、行っていたコグサ場も現在は道路ができて大きく変わってしまいました。」

(3)牛で浜は真っ黒

 Bさん、Cさんは次のように話す。
 「夏には、夕方になると浜に牛を出して遊ばせて、暗くなると連れて帰って牛にえさを与えます。6月から8月は牛駄屋の中は暑いので牛を浜に連れ出し夕涼みをさせるのです。その当時は浜が真っ黒になるぐらい牛がいました。牛を浜に連れ出すのは、牛に適度な運動をさせる目的もありました。大久や川之浜には長さが500m、幅も50mほどの立派な浜があったのです。浜は今もありますが、浜がやせてしまってあのころとは景観が違っています。田部(たぶ)や神崎(こうざき)は牛を浜に出すことはしないで、家の庭で遊ばせるぐらいでした。牛を浜に出すのは夏だけで冬にはしません。
 浜では夕涼みだけでなく、牛の爪切りもしていました。爪を切るといっても人間と違うので大変な作業です。浜で牛を倒して、暴れないように足を綱で縛(しば)って行うのです。また、チアイと呼ぶ、牛の舌に針を刺して血を抜いて、針を刺した跡に塩をすり込むことも昔から浜でやっていました。チアイは、牛を飼っている農家が獣医に頼んでやってもらいます。1年間で2、3回は行っていたと思います。獣医は牛の頭数が増えたので、私が県農業共済組合へお願いして獣医を置いてもらったのです。それから病気や難産の時は獣医に診てもらえるようになりました。河野さんという獣医がいて旧瀬戸町だけでなく三崎(旧三崎町)や伊方(旧伊方町)も担当していました。川之浜に住んでいたのですが、最初のころは移動手段が自転車しかなかったので大変だったと思います。」
 また、Aさんは次のように話す。
 「この辺では、夏に牛を浜に連れ出すのはおじいさんの仕事でした。若い男の人は山(畑)仕事があり、女の人も晩ごはんの仕度や洗濯があるのでしません。女の人が牛を扱うのは大変でした。私も、たまに牛を追い出したりしましたが、牛が怖いので逃げ腰になり上手(うま)く扱えませんでした。夕方になると、どこの家もおじいさんが孫を背負って、駄屋から牛を追い出して浜に連れて行き、着いたら孫を下ろして遊ばせて、親牛は浜に打ち込んである棒杭につないで、子牛は放して遊ばせながら牛を涼ませていました。夕方になると浜は牛で黒くなっていました。」

(4)気持ちを喰わせた牛

 Aさんは次のように話す。
 「牛を飼って売ることは唯一の現金収入であったので牛は大切にしていました。大久ではあまり言わなかったのですが、川之浜では『牛はお宝様』と言っていました。私は、母からよく次のような話を聞かされていました。

   〝牛市に来た博労(ばくろう)が、牛を売りに来て手油をつけながら牛をなでているおばあさんに『この牛は、よく肥えて
  いる牛じゃ。何を食べさせているのか。』と聞くので、おばあさんは『この牛にはモチを食べさせました。』と答えると、
  博労は『そうでしょうなぁ。そうじゃなかったらこんな立派に育たない。』と言ったので、おばあさんは牛の背中をなでな
  がら『この大きなものにどうやってお餅(もち)を喰(く)わせましょう。餅は餅でも私は気持ちを喰わせました。』と言っ
  た。〟

という話です。常に牛に気を遣って気持ちを込めて接しなさいという意味だと思います。そのぐらいこの辺の人は、牛を大切にしていました。大切な牛なので大久では牛を畑仕事に使うことはありませんが、佐田岬半島で唯一田んぼがあった小島(こじま)や大江(おおえ)では田んぼを耕す時に牛を使っていたようです。私もいつも気をつけて育てていたのですが、牛が病気になりつらい思いもしました。獣医さんに来てもらって診てもらったのですが、治らない病気で八幡浜にある家畜保健衛生所に引き取られました。」

(5)大久の牛市

 牛市についてBさん、Cさんは次のように話す。 
 「大久の牛市は、佐田岬半島では有名で毎月6日に開かれていました。牛市は私が子どものころからありました。塩成(しおなし)や小島など瀬戸(旧瀬戸町内)はもちろん三崎(旧三崎町)や伊方(旧伊方町)からも牛を引っ張って連れて来ていました。伊方にも牛市があったのですが、伊方の牛市は毎月開かれていなかったと思います。牛市の場所は、3回ぐらい変わったと思います。戦前は現在の大久保育園前の浜で牛市が開かれていました。戦後、その場所に四ツ浜中学校を建てる(昭和24年〔1949年〕新校舎落成)ので、牛市は東明(こちあけ)の現在大久小学校のある場所に移りました。その後、大久小学校が現在の場所に移転することになり、牛市の場所が変わって元小学校跡になり、小学校跡に保育園を建てることになって、国際電電跡地に移り、昭和46年〔1971年〕に閉鎖されました。
 牛市は農協が経営していました。牛市に出される頭数は、その月々によって変わっていましたが、平均すると50頭ぐらいは出ていたと思います(昭和37年〔1962年〕の大久市場の入場頭数は744頭、取引頭数は630頭である。『愛媛県史 社会経済1』)。たくさん出されていると今日は値が下がるのではないかと心配することもありました。成牛のセリもありましたが、ほとんどが子牛のセリでした。
 博労という家畜商が牛を買います。地元では大久に2軒、塩成に1軒ありましたが、ほとんどは他所(よそ)から来た博労でした。八幡浜や宇和島など南予一円から、多いときには20人ぐらいの博労が集まっていました。この辺の博労は主に雌牛を買って、それを農家に売っていました。博労は親牛の性質を見たりして目星をつけて買っていたと思います。セリは、何円、何円という掛け声ではなく何両、何両というように競っていました。セリで落とされた牛で雄牛は肉牛になることが多かったのですが、雌牛は生産のために使われます。そんなに大きな差はなかったのですが、値段は雌が高かったので子牛が産まれると雌のほうが喜ばれました。
 博労が競り落とした牛は、渡海船(とうかいせん)に乗せて運んでいました。大久や川之浜には砂浜に船を着けて牛を運ぶ渡海船が何艘(なんそう)かあったのです。大久でも3軒ぐらいは持っていたと思います。舵(かじ)やスクリューを上にあげることができる船で、浜にトモ着け(船尾から着けること)していました。その船に歩み板を敷いて牛を乗せます。牛が乗るので歩み板の幅も広く、厚みもありました。長さも5、6mあったと思います。牛が波を怖がって歩み板の上に乗ることを嫌がるので3、4人で牛を引いて乗せていました。1艘に子牛なら10頭から15頭ぐらいは積んでいました。昭和40年代に入ると競り落とした牛を車で運ぶこともありましたが、車では何頭も運べないので渡海船に乗せていました。」
 また、Aさんは次のように話す。
 「昔は、博労さんもたくさん来ていました。牛市の前日にやってきて大久にも旅館が2軒あったので泊まっていました。牛市は朝からしていましたが、田部(たぶ)や神崎(こうざき)、三崎の方からも牛を連れて来ていたのでそんなに早い時間ではなかったと思います。
 牛市に牛を出す前日の晩は『明日は何頭ぐらいでるのだろうか。』『いくらで売れるのだろうか。』と気になってなかなか寝られなかったと思います。私は、それまで家族同様に世話をしてきた牛を、いざ牛市に出す時になるとさびしい気持ちになりました。牛が売れてお金が入るのはうれしいのですが、牛と別れることを考えると複雑な気持ちでした。
 牛市の日は、市場に一杯飲み屋さんやうどん屋さんなど出店もありました。博労や牛を売って懐(ふところ)が温(ぬく)もった人などで賑(にぎ)やかでした。牛を売ったお金は、その場で現金で入ってきます。牛が思っていたより高く売れると『牛の子祝い』といってその晩に、お寿司(すし)を作ってお祝いをしていました。大きなお客(大勢のお客さんを招待すること)のようなことはしませんが、兄弟を呼んでご飯を食べたり、近所にお寿司をおすそ分けに配ったりしていました。おすそ分けをすると『おとみ(贈り物を受けた時、その容器に入れて返す物)』といって近所からシイの葉がお皿の上にのって返ってきていました。私たちは、母から気持ちはシイの葉に包めと教えられて育ちました。後には『おとみ』はマッチ棒2、3本に変わりました。」

(6)大久から牛が消えた

 三崎牛の衰退について、Bさん、Cさんは次のように話す。
 「昭和35年(1960年)ころに瀬戸町では1,000頭以上の牛がいました。そのうちの大半を大久、川之浜で飼っていました。しかし、そのころから牛の数が減少していきました。柑橘(かんきつ)栽培を取り入れる農家が増えていったからです。牛の飼育が衰退する原因は、柑橘栽培の導入だと思います。戦後間もないころ、柑橘を作っている農家は大久では10軒ぐらいはありましたが、昭和30年(1955年)ころまで柑橘農家と呼ぶような柑橘栽培を主に経営している農家はなかったのです。私もイモ・麦を主とした栽培から柑橘栽培への転換を進めた一人です。イモ・麦を作って牛を飼うという経営から柑橘栽培を主とした農業への転換です。
 私は、昭和24年(1949年)まで柑橘栽培の先進地域であった三崎農協に勤めていました。農協をやめてから、300本から400本のダイダイ(夏柑)の苗木を買って植えました。家の近くに畑があっちこっちに何箇所もあるのですが、一つの畑が狭くて、枚数はあるのですが、まとまった広い畑がない状況でした。この地域で柑橘栽培をするためには、ガキ(スギの防風林)を作らないと潮風があたって栽培することはできないのでガキを作ると植える場所がほとんどない状況でした。突然、ガキを作ると隣の畑にも迷惑になるので、山の空(頂上、標高200mぐらい)の畑なら迷惑にならないと思い土地を買って4反ほど植えました。それが、大久で柑橘を植えた最初の方でした。その後、下の方の畑にもミカンを植えたのですが、白畑の中にガキを作ってミカンを植えたので最初は周りの迷惑にならないか心配したものです。やがて、ミカンの価格の上昇とともに柑橘畑への転換が進んでいきました。それまでこの地域の農家は、段畑でイモ・麦を作っていましたがイモ・麦だけでは食べていくのが精一杯で牛を飼って売ることが唯一の現金収入になっていました。そしてそのお金を蓄えて家を建てたり、娘の嫁入り仕度をしたりしていたのですが、柑橘栽培で現金収入が得られるようになると、牛を飼っていた人が次々とやめていきました。」
 また、Aさんは次のように話す。
 「家で牛を飼っていたのは昭和45年(1970年)ころが最後だったと思います。牛を飼うのをやめたのは男の人が出稼ぎに出るようになり、現金収入が入るようになったからです。農閑期の間は出稼ぎに出るのです。4月から5月の麦刈り、その後のイモの植えつけの時期と10月から11月のイモ掘りと麦蒔(ま)きをする時期の農繁期は帰ってきて農作業をしますが、それ以外はお盆と正月に帰るだけで出稼ぎに出るようになりました。」

写真2-2-1 牛駄屋の跡

写真2-2-1 牛駄屋の跡

伊方町大久。平成23年7月撮影