データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)久万林業の扉を開いた人

 **さん(久万町大字入野 明治44年生まれ 82歳)

 ア 還俗によって植林に打ち込む

 久万林業の父、井部栄範は紀州和歌山の生まれである。11歳で仏門に入り、慶応元年(1865年)24歳のときに来県して、松山市石手寺定観坊の住職となった。その直後、明治新政府の打ち出した神仏分離、寺禄廃止等の措置をめぐって全国の寺々は、その維持管理の問題をかかえて大揺れに揺れていた。そのころ、彼の同郷の先輩で師と仰ぐ木嶋堅洲僧正が、久万山郷菅生山大宝寺(44番札所)の住職に入山しており、その師を慕って明治4年(1871年)に大宝寺の執事に就任した(明治5年説もある。)。
 そして彼が手がけたのは、寺禄廃止に伴って窮地に立たされた、財政基金としての植林である。「明治6年3月、寺院周辺に6千本(3千本説もある。)の苗木を植え付けた。」と記してあるのが人工造林の始まりである。ところが、翌年の明治7年4月2日、大宝寺は火災によって寺院が全焼し、寺の維持管理はさらに難しくなってきた。ここに及んで栄範は、師と相談の上、還俗して寺の再建に乗り出すことになった。その計画が植林による財源の確保である。

 イ 久万育ちの吉野スギ

 植林計画を立てた栄範は、明治8年(1875年)以降、寺領にスギ苗を植え付ける一方で、自らも土地を求めて毎年スギを増植しているが、その苗木は、彼のふるさと吉野地方から買い入れている(写真1-2-13参照)。
 井部栄範が創立した、久万造林株式会社に長年勤めている**さんは、彼の足跡について、「栄範翁は、自分の目で確かめ、よく知っている木が吉野スギであったので、その苗木を送ってもらっています。その経路を調べてみると、吉野郡吉野町の小川というところが銘木の産地ですが、その小川の苗木を大阪の河内まで出して、そこから船積みで三津の岡田回漕店に送り、それから馬の背に乗せて三坂越えでここに運んでおります。吉野から久万に至るまでの輸送には、かなりの日数がかかりますが、その間、苗木を枯らさんようにするための荷造りや、輸送方法をどのようにしてきたのか、それなりの苦労があったと思います。この吉野の苗木をここに取り入れて植えたのが、久万における吉野材の始まりです。」
 その後は、地元においてもスギ苗作りの研究に取り組み、明治の中ごろには、久万育ちの吉野スギの育成に成功した。そして栄範は明治12年(1879年)菅生村戸長(村長)に就任するや、村会の決議を経て、村内の全戸に対して、一年の間に200本ずつのスギ苗を植え込むよう奨励したのである。生活の苦しい者には無償で配布し、土地の無い者には、村の共有地を山林一代を期限として貸与したりしているが、この借地制度は、吉野の借地林制度にヒントを得たものと考えられている。
 **さんは「栄範翁が、自信をもってこの地方に植林を進めたのは、木嶋堅洲師と共に青年時代を先進地の吉野地方で過ごしてきたことに関係があります。吉野林業では、古いスギで450年くらいから200年・300年の立派な人工造林がすでにあったのですね。それが吉野川・紀の川を経て和歌山にも出ますし、京阪神方面にも搬出されていました。タル丸材とか、本の香の漂う灘の酒ダルに用いる木材は、相当古い吉野スギでなければ、香りのするタルにはならんのですから、向こうでは高値で取り引きされていたようです。それを栄範翁がいつも見ていて知っているし、お寺に居るものですから、いろんな所へ出かけて話を聞いていたと思われます。植林は栄範翁が久万へ来て初めてああするこうすると考えたのではなく、その基礎知識は吉野林業が土台にあったと思います。」
 井部栄範の指導のもとに進められた植林は、当時の菅生村を中心に川瀬村・明神村・父二峰村・弘形村などへも拡大し、そこから次の久万林業を背負って立つ、篤林家たちが、各地域に輩出したのである。
 「栄範さんの偉いところは、自分も植林をして人にも勧めたことです。ところが、いくら勧めてもなかなか植えません。そこでこれを植えさせるためにはどうしたらみんなが納得するかと、利益関係も力説したんですが、思うようには植林が進みません。この植樹については、いろいろ目的がありますね。将来の目的としては利益の追求とか治山治水の問題があります。例えば天竜の林業は、天竜川が洪水で暴れるので、洪水防止のための植林が、今日の天竜林業を生みました。
 吉野林業は、この地域は田んぼや農地が少ないので、木によって生計を立てる目的があります。そして、ここで恵まれとったのは、紀の川を利用した流し筏による運搬方法です。そこで栄範さんは『この地方には何も産業が無いじゃないか、その産業を起こして、収入への道を開くためにも一戸当たり何本植えなさい。』と村是をつくって奨励し、それを実現させました。」と林業出発当初の経緯を語る。

 ウ 宝の山に至る道

 いま一つ栄範が力を注いだ事業は、三坂峠に車道を開通させたことである。**さんは、「次に栄範さんが考えたのは、植えた木が立派に育った段階で、どのように松山まで木を運ぶかということです。現在のような国道33号線が抜ける前のことですから、いわゆる三坂峠の殿様街道を馬の背で運んでいたのでは、利益が少なくなります。そこでどうしても大八車か馬車の通る道路が必要だということで、その開通を関係機関へ働きかけてきましたが、なかなか実現には至りません。どうすればこれができるのか、もし道路ができんのやったら、植林を中止させるか、というところまで来ていたようです。」
 「そのことについて栄範さんは、『植林は中止しない、もし道路が出来んのやったら、もっとドンドン木を植えて、宝の山がここにできたら、人々は三坂の急峻な岩盤を削って、その宝の山を求めに来るであろう。』と語り、そしてこのことに自信を持っていたようです。」
 「栄範さんは、郡内の各村々を隅々まで歩いて、そこの作物の取れ高を調査しておりました。上浮穴郡内には、トウモロコシ、ダイズ、アズキなどの産物はこれだけあります。それが道路ができて、三坂峠を越えていくようになると、これだけ売り上げが多くなります。また松山方面から、この久万山へ入ってくる品物は年になんぼありますから、道路ができると安く手に入り、その両方を計算すれば上浮穴の郡民はどれだけ生活が潤うかしれません。また松山への影響もどれくらいあるかを細密に調査して説得材料に提出しております。」
 明治25年(1892年)8月に完成した四国新道は、当時の上浮穴郡長として、その開通に心血を注いだ桧垣伸を始め、地元側にあって推進の中心となった井部栄範の先見性・行動力などによって実を結んだものである(写真1-2-14参照)。

写真1-2-13 明治期に植えた大宝寺のスギ粒

写真1-2-13 明治期に植えた大宝寺のスギ粒

平成5年10月撮影

写真1-2-14 井部栄範翁の頌徳碑

写真1-2-14 井部栄範翁の頌徳碑

平成5年11月撮影