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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)高原の町久万はどう変わる

 ア 木にこだわる林業の町

 (ア)林道整備により活性化

 久万町森林組合 **さん(久万町大字菅生 昭和12年生まれ 56歳)の口述を中心にまとめる。
 藩政時代は、人はすべて徒歩または馬によって行われ、一部カゴが利用された。物資は人・馬により輸送され道路の改良につれて、馬車による輸送が盛んに行われた。
 筏(いかだ)による輸送路を持たない久万地方の林業は、車道の開通なくしてはその発展のあり得ないことを井部栄範(久万林業の基礎を築いた人)は見抜いて、三坂峠に車道を開削する事業の地元側の推進の中心となった。先述したように四国新道と言われたこの国道の建設が着工されたのは明治18年(1885年)であり、同25年(1892年)にはこの国道は松山市と高知市を結ぶことになった。
 道路開通までは駄馬によって木材は松山方面に出荷されたが、その量は微々たるものであった。開通後は人は旧道を通り、馬車によって木材の搬出が容易になったので荷馬車は新道を通る時代が長く続いた。新道は久万地方の木材の伐採・搬出が盛んになり、久万山から出す木材と、入ってくる物資で荷車の行列が見られたという。このように木材の運搬ができはじめると植林も急激に増えてきた。こうして明治・大正と時代の進歩と共に材木の需要も多くなり、久万材木の名があがってきた。変わった方法として、『久万町誌(①)』によると、木材を馬車で小田町突合(つきあわせ)まで運び、突合より長浜まで肱川を筏に組んで流す方法があった。この方法はずいぶん長く続き昭和の初期まで見られたと記しているが、しかし、当地方において最大最良の方法は、馬車による物資輸送であったようである。
 昭和に入って木材の需要はますます多くなり、トラックによる運送は年毎に増えた。戦時中は軍用材として伐採命令のきた山林もあった。終戦前後は山も荒れたが、緑化運動の推進と木材の需要の増加と高値に刺激されて人工造林が勧められ、町内の商店街は活況を呈していた。昭和40年ごろになると政府の補助と奨励によって、見事な人工林におおわれるようになったとか。
 町村合併当時、間伐林分の増加に反して、林地内の主要搬出を担っていた役用牛馬車等の急激な減少によって労賃の高騰に追い討ちをかけた。このため間伐材は不採算となり、組合ではこれに対処するため林道網の整備を強力に推進した。林道開設用機械を購入し、測量設計も自力でできるような技術者の養成に努め、昭和47年度末には林道密度50m/haの高密度を策定し現在その長期計画にそって努力している。
 林道発達による久万林業への利点について「林道発達によって作業現場への到達時間が短縮され労働生産性が改善された。そして機械の導入が可能となり、とくに間伐材の搬出が容易となり、間伐による収入も増大した。しかし何と言っても間伐材の搬出経費の軽減が一番のメリットで小規模山林所有者の自家労働で間伐材の搬出が可能となる。」と語る。
 久万町の財政基盤を支える基幹産業の林業は不振が続き、年間約30万m³と県内一の生産量を誇っているが、外材に押され需要減が響き、過疎化と若者離れの荒波に洗われている。さらに、林業従事者の平均年齢は約60歳で高齢化が進む一方である。
 この点に関して「現在の林業は外材や代替材の進出、山村からの人口流出など厳しい状況にあり、今後『国産林時代』の到来を現実のものとしていくためには、まずもって、生産基盤である林道及び作業道の整備を進めて、高密度な路網を形成し、外材や代替材に互していくことができる低コストな林業経営を確立していくことが緊急な課題である。」と語る。

 (イ)観光開発と木造建築文化

 四国は自然資源に恵まれているが、観光的には未開発地と言われてきた。このことは、交通の不便がその因をなしてきたのであったが、国道11号線や33号線の改修完成に伴い脚光を浴びるようになった。高知、松山間が時間的に短縮され、とくに33号線の改修とフェリボート、瀬戸内海大橋などにより本州・九州方面からの久万町を通過する観光客数は激増している。今後三坂トンネルが完成すればその数も現在の数倍、数十倍に達することが予想される。これらの観光客の足をいかにして久万町にとどめるかが今後の大きな問題であり久万町発展の大きな要素でもある。そのため観光地と有機的なつながりを強くし、おのおの特色を活かした施設の充実を図り、共存共栄の実をあげていくことが重要な課題となってくる。
 久万町は町の活性化を図るため人と自然のふれあいの場としてふるさと旅行村、美術館、天体観測館、ラグビー場、屋内ゲートボール場、運動公園等を一味違った観光、高原リゾート地として充実させている。また、木の文化の伝統を守り、木にこだわり、木のもつ温もり、美しい木造建築文化の再生を願って整備、「四国の軽井沢」としてPRに努めている。また、トマトなどの高原野菜の栽培を促進し、高齢化に悩む林業を担う会社組織も設立するなどユニークな行政で知られている。その上に、この充実した観光施設は、どの施設も順風満帆と言われている。
 町営の「国民宿舎古岩屋荘」の売上げは昨年度四国の国民宿舎第二位、昭和52年にオープンした「ふるさと旅行村」は昨年度の利用者が約19万人を数え、全国の優等生。昨年度同園内に完成した天体観測館は来館者が一年で28,600人、また、久万美術館は、平成元年に開館したが、入場者がこのほど延べ15万人を突破し町にとっては明るいニュースである。しかし、町の財政基礎を支える基幹産業の不振、後継者と過疎に悩む商店街など、町にとってこのアンバランスをいかに解消するかが今後の課題であろう。

 (ウ)若者の手による祭りつくり

 この町で、木の丸太をかきくらべ、その時間を競う新しい祭りが定着しつつある。いつの間にか途絶えてしまっていた「御用木まつり」が昭和59年夏に新しい祭りとなって復活した。これは従来から行われていたありきたりの夏祭りに業を煮やした若者たちが、どうせするなら久万らしい祭りで盛り上げようと立ち上がったのである。
 「御用木まつり」とは、大宝元年(701年)に建立された菅生山大宝寺では、毎年盆の16日に「大宝さん」と呼ばれた大山鎮めの祈願をかける「山の神まつり」を行い農林業の豊穣(ほうじょう)を祈る大祭として農民に深く信仰されていた。また、初代松山藩主加藤嘉明の松山城築城の際、重臣佃十成(つくだかずなり)が久万御領地頭として城普請の用材を久万山に求めた。その時築城祈願を込めて大宝寺で用材に祈禱を受けて御用達したという。この松山城普請の御用達材祈願の儀式は、その後、「山の神まつり」と合わせて「御用木まつり」と称され、久万山の祭りとして盛況を極めたが、いつのまにか途絶えてしまったのである。
 若者たちが、地域に伝わる伝承をもとに、今日的脚色を施した「新御用木まつり」について、久万御用木まつり実行委員会スタッフ**さんは、「御用材の銘木(長さ6m、重さ約200kg)は、町内各地区の篤林家に各組がお願いして提供していただき、祭りの数日前に山に入り、提供された御用木『ノコギリの儀式』を行う。祭り当日は、町内十数組の担ぎ手によって大宝寺で祈祷の儀式を受けた後、町内商店街約1kmを一組10人の担ぎ手によって次々にスタートし、勇壮に町内を疾走しタイムを競う。祭り全体は『元締(もとじめ)』(町長)がまとめる。担ぎ手は『荒子(あらしこ)』と呼ばれ、各組の責任者『組頭』の指揮に従う。荒子は黒装束の『江戸前』『ももひき』、白の『下じゅばん』、『地下足袋』などの木場衣装で身を固めて、御神木を担ぎ、先達には12歳の年男『若衆』(小学生)3人をあて、御用ちょうちんと、紅白の先導綱を持って疾走する。各組から選出された12歳の年女「清女」や観衆から、声援とお清めの水がかけられる。ゴールの役場前では、入賞チームの柱立ての儀式を行い、終宴セレモニーを盛大にして花火の打ち上げと共に祭りは終わる。」と語っている。
 また、祭りで清められた御用木は市場に出され、縁起のよい良材として、大工・建築工務店、製材業者に、家内安全・商売繁盛・五穀豊穣・大願成就の大黒柱として高値で買い上げてもらうそうである。
 この祭りを一層久万町のシンボルイベントに育てあげていくための課題として、**さんは、①スタッフが一部の青年有志と行政事務局だけで支えられているので、負担が大き過ぎ、それぞれの本業を持つ青年に息切れが生じ始めている。そこで、準備期間をかけて、広く住民の方々に祭りの理解を求めると共に、各地域においては、名誉なこととして公民館などが組織をあげてチームの選出が行われるほか、一方では林業関係組織やその他の職域に運営の協力と参加を呼び掛ける必要がある。②祭りの演出を濃密にしていく必要がある。とくに沿道での様子といえば太鼓衆や清めの水を配しているものの、冷ややかに、面白がって水を掛けるだけで、声援演出に欠けているので出場チームごとの応援部隊を配する。③今は、3日間の中の一日だけの祭に終わっているので、日常の林業地での営みの終結として位置付けする必要がある。④納涼祭りのプログラムはどこの町村でも行っている踊りと花火などであるが、できることなら久万でこそできる高原の夏の祭典となるよう、祭り全体を久万山御用木まつりとして、一貫したストーリー性を持たせ、特色ある祭りのアイデンティティをつくる必要があると語っている。
 そしてこの「御用木まつり」の終局目的としては、当日イベントとしての成功にはなく、それ事態はあくまでも手段であり、林業を暮らしの糧とする住民の生きざまのシンボルとして地域産業を愛する思いを託す住民のハレの活動であるととらえている。
 更に**さんは「久万町では木材価格の低迷する中にあっても、育林事業、林道網等基盤整備、人材育成事業に力を注ぎ、木材に付加価値を付ける、共販流通促進化等々、日々地域産業の将来に期待を賭けている。また、公共施設、学校、美術館、住宅の木造建築復活に地元から木のある生活に意欲を燃やしている。このハード面の事業促進に伴って、住民の木材生産と消費を大切に思う暮らしに対する意識向上のために、〝この『御用木まつり』ありき〟としたいと願っている。」と語っている。
 久万町教育委員会では、ふるさとの町に生きる樹木をイラストで紹介する副読本『みどりは友だち 木のノート』を製作、町内各小学校に配布している。この「木のノート」はB5判、内容は木の役割や観察の仕方、種類別特徴、葉や実での遊び方の説明、町内の文化財指定樹木一覧など。町教育委員会では「今の子供は周りに豊かな自然がありながら案外木の名前を知らないので、木を知ることでふるさとを見直すきっかけになれば。」と話している。また、中学2年生を対象に、下草刈りや間伐を泊まりがけで体験する「林業体験学習」を実施している。

 イ 活性化を目指す商店街

 『久万町誌(①)』によると、久万町の商工業は、四国霊場44番札所菅生大宝寺の門前町、また松山から高知に至る土佐街道の宿場町として発展し、次第に上浮穴郡の政治、文化の中心地として人々が集まり商工業が栄えた。あわせて井部栄範らの造林、植林の結果林業の町としても脚光を浴びるようになり、明治30年(1897年)ごろには、すでに現在の商店街に近いものが形成されていたのである。
 その繁栄は第二次世界大戦ごろまで続いたが、戦争であらゆる物資が軍事用として供給されるようになった結果、食料品、衣料品などの統制、配給制が行われ、当町の商工業も火の消えるような状態であったが、戦後次第に景気が回復して、統制、配給制が廃止にともない再び活況を呈していた。その上、朝鮮戦争の影響で当町に木材ブームが到来し商工業は旧に倍して活気づき現在に至っている。
 しかし、近年技術革新や流通機構の変革により、わが国の経済界は急激な進歩を遂げ、その労働源として地方の若者の都市集中化が起こり、当町もその影響を受け年々人口が減少している。このことは購買力の減少となり、今日のような大量生産を行う大企業の販路拡張のための地方進出、農協、スーパーマーケットの進出等は、必然的に合理化・近代化の遅れている久万町商工業者にとって大きな打撃となった。その上交通機関の発達及び普及、国道33号線の改修により、久万-松山間の所要時間が短縮され、町内はもちろん町外の顧客の松山流出が現れるなど、商工業者にとっては幾多の難問題が山積している。

 お茂ご酒造株式会社 **さん(久万町大字久万町 大正7年生まれ 75歳)
 「私の小学校時代、当時米の値段が一升40銭くらい、労働者の日当が70~80銭でしたから、米一升買って焼酎一杯飲んだらあまり残らず、家族の多い時代だったから生活は苦しかったようですが、商店街は活気があって、久万は郡内の中心だけあって周辺の集落から馬の背に米を積んできて、米屋に売って、一杯飲んで帰る。そのころ町の中は馬で一杯で、歩いていく方向に馬の背が向いているのでいつけられるか分からず怖かった記憶があります。」
 「山の値段は28年~30年ころがピークで、材木を扱っている人は裕福でした。松山で散財している人は久万山の人のみだという時代、このごろ先見の明のある人は、松山で土地を求めていればということにもなるのですが。」
 「わたしが商工会長をしていた昭和55年ごろ大型のスーパーが進出してくるということで戦々恐々としていました。商店街の近代化のためにスーパーに対して共同店舗しようじゃないかと位置まで決めたが、なかなか前へ進まず県や町の指導を受けました。その後他県の状態を見にいったり、話を聞いたりしましたが、久万は久万なりに近代化を図らなければいけないと、昨年やっと農協さんの所に一緒に8軒の共同店舗ができ、ある程度お客を食い止めることができました。しかし、交通の発達と、自家用車の普及で松山への流出が6割はあるのではないでしょうか。松山へ買物に行く人に聞いてみると、品物があまり良くない、価格も安くない。それで松山へ行ったついでに買物して帰るということです。行政の理解とともに商店主自身の努力も必要ではないでしょうか。」と語る。

 坪谷松栄堂(おこうまんじゅう)の**さん(久万町大字久万町 明治44年生まれ 82歳)
 「仕入先は、小豆だけは戦前柳谷より1年分仕入れ、その他は松山より買っていました。現在はすべて松山または福山より仕入れています。
 販売先は、昔は殆ど地元でしたが、いまは松山(デパート・空港)、地元(町営売店)で最近は宅急便ができ交通の便が良く早く着くので全国へ発送しています。
 戦前昭和15・16年ごろまでは、久万町も牛市とか木材市とかで各方面より泊まりかけで沢山の人出で賑やかでしたが、何と言っても久万は林業の町だけに、今は木材の価格が安く、労務賃のみ高く、手入れすることも何をすることもできず町は寂れるばかりです。木材が活況を呈すれば商店街にもお恵みがあるのではないかと思っています。
 先代が築いた100有余年の老舗を守ることは、いろいろ苦楽がありました。今後は子供共々今の信用を失わないよう、子孫代々続ける大きな責任があります。今後ともお客様に信頼されるよう努力していかなければならないと思っています。」と語る。

 同町商店街は国道33号線と平行する旧国道に沿って発達し、大正から昭和初期にかけて上浮穴郡の農林産物の集散地として栄えた。終戦後は住宅建築ブームで繁栄した。現在は約1kmの間に約90店が並び、林業の衰退と、過疎化や交通整備による松山への購買力流出、国道へのスーパー進出などで客離れが続き活気に乏しい。
 そこで、沈滞傾向を何とかしようと町商工会や商店有志、町は昭和50年代から打開策を模索。平成3年夏には8年間の難産の末、農協Aコープを核店舗に、地元商店が出店した共同店舗「ふれあいロードai」が町中心部の国道沿いに完成した。
 総事業費は約7億8,000万円、郡内最大のショッピングセンターである。国道側の地元商店は、精肉、ベーカリー、電器、ギフト、靴、スポーツ、花、米の8店。奥のAコープとの間の中央広場やトイレ、駐車場は町が2億2,000万円かけて整備した。8店で組織する「まちづくり協同組合」の理事長は「旧店時代より売り上げは延びたが客の流れは今ひとつ。」と語っている。
 久万町と松山市を隔てる三坂峠にトンネルを通す計画が完成すれば客が松山方面に流れてしまうとの危機感が背景となって、商店街の活性化の気風が盛り上がり「くまタウン協同組合」が結成された。理事長は「魅力的な観光施設が整備され、多くの客が町を訪れるのに、商店街にはまったく流れてこない。殿様商売をやめて、都会以上のサービスを考えないと衰退するだけだ。街路灯の建て替えを起爆剤にして一気に商店街改革を進めたい。」と語っている。
 その街路灯は平成5年10月30日に完成した。同商店街の街灯は、昭和58年までに116基建てられたが老朽化が進み、建て替え時期を迎え工事を進めていた。新しい街灯は高さ5.5mで海の波をデザインしたもので、モダンである。80wで旧式の倍の明るさだが電灯上部に深くフードがつき、夜空への反射を防いでいる。住安(すみやす)町道久万本線から曙町までの1.2km間に70基と、久万署と役場、大谷橋前にゲート状のサインポール3対も建ち事業費約3,000万円。

 ウ 思い出

 **さん(久万町大字久万町 大正7年生まれ 75歳)
 終戦後は、食料品の不足、またインフレがおき、酒造米は減石され、国民の主食米も20年代は一人2合1勺(0.37ℓ)、その内に代替米として麦、芋類、雑穀が相当量配給された。
 当時は切符制。このような状況の中日本へ、満州・中国・南方から約380万人の引揚者が帰国し、港は大混雑を極めていた。このごろは国民の酒に対する社会的要求は激烈で、米、酒、砂糖があれば望み通りの品が手に入る世の中でした。
 その後、造石高もやっと現在の10分の1以下ですが62万石を造ることになりました。当時は酒一升(1.8ℓ)の価格が1級23円、2級15円でした。昭和24年には配給酒ができ、価格は格安で、結婚5升、出産2升、死亡2升の配給であった。そのごろの話に、死んだり、生まれたりの架空の切符がでて配給酒をもらっていた人もいたとか。
 酒の配達は、卸商は馬車が多く、一升瓶の他、二斗樽、四斗樽とか樽で運んでいました。小売店は造り酒屋へ、リヤカーで空瓶を持参し、酒瓶を持ち帰っていました。このごろはみな現金売りであったので、これが世にいう旦那商売で苦労もしなかった。以降昭和35年がピークで自由経済に突入して苦労の波が押し寄せることになりました。
 わたし自身昭和11年(1936年)~13年の3年間、高知県の池川町や森町他周辺へ久万から約60kmの道のりを朝5時に出発して販売に出かけていました。乗り物はもちろん自転車です。でも当時の外国車のラーヂ・ケンネット号で3年間一度もパンクもしないしろものでした。今の世の中で自転車で行きなさいといえば、どんな顔するかと思います。
 昭和20年8月終戦となり故郷に帰りましたが、このごろ進駐軍が道後に駐屯し、久万町方面にもトラックやジープが毎日10台~20台上がって来て木炭を運搬していました。途中当社にも度々寄って酒をいただけないかと押し問答。その時わたしは、日本酒は国税が高く含まれており、進駐軍へは別途配給があるからと丁寧に話すと了解して引き上げたこともあるし、二度ばかりは進呈したこともありました。

 **さん(久万町大字久万町 大正3年生まれ 79歳)
 昭和22年主人は姫路で日本製鉄病院(現新日鉄)の副院長をしておりましたが、町の方々のたっての要請によって、故郷を大変愛しておりました主人は、山地でも胃や盲腸の手術ができるようにして手遅れなどで命を落とすことがないように、みんなの命を守りたいと大きな希望と夢を持って帰ってきました。そのごろは、大変寒うございまして、雪なんか軒まで積もったこともありました。また、毎日どんよりしていて日が当たらずつらい思いをしました。
 主人は、交通不便で、医療に対してもあまり知識がなく、設備も整っていない所へ帰りまして、先ず設備を整えなければならず、そのうえ町としても初めての事でもあり、予算もないとかで町の病院でありながら町から借入れの形で整えていきました。また、当時大変医者が不足しておりまして、田舎へはなかなか来てくださる方もないので、以前の姫路の日鉄病院副院長の時の名で岡山大学の教授にお願いして、外科・産婦人科のお医者さんに来ていただくなど大変苦労をしていました。
 また、田舎へ無理にお願いして来ていただいたお医者さんですから、食料など不自由させてはいけないと大変気を遣い、娯楽施設もないまま自分の家に度々お招きして食事を共にしたりして、病院としての基礎固めに力を注いでいたようでございます。
 こちらへ帰ってきた当時の往診は、タクシーで行けるところまで行き、あとは山道を歩いて行っていました。そして今と違って土曜半日、日曜休診とかなかったですし、その上に朝早くから夜遅くまで、往診の電話があったり、おいでになったり、患者さんにしてみれば自分だけと思われますが、こちらは大勢ですので主人は苦労していました。
 昭和26年一応病院としての基礎もできましたので身を引いて自分の病院をつくった様なわけでございます。
 久万は私にとっては馴染みのない町ですし、来た当時は周囲の人たちも何となくよそ者という感じで扱われますので、姫路時代が懐かしく思い出されたりも致しましたが、今は、一生で一番長く住んでいる土地になり、多くの皆様方とも交流もできて楽しく過ごさせていただいております。
 主人は67歳で他界して、娘二人も医者と結婚して松山へ出てしまい、私も一緒にと言ってくれますが、自分の家が一番いいですよね。主人が愛した町ですし、お墓もあることですので身体の続く限り主人の開業した家を守っていきたいと思っております。

 **さん(久万町大字久万町 明治44年生まれ 82歳)
 昭和9年にはじめて知らない久万町へ嫁ぎ、約60年になります。その間5人の子供に恵まれ、ただ子育てに夢中でしたが、戦争の恐ろしさも味わいました。
 子供たちが各々大学が終わりになる2年前に、突然主人が心筋梗塞で倒れ、その時、上の3人は大学も終わり、長女も嫁いでいましたが、下の2人の子供はまだ大学生でした。ありがたいことにもう駄目だと思っていた主人がやっと3か月振りに宇都宮病院へ通院出来るように回復して一安心。しかし、それもつかの間、今度は脳梗塞、それからは入退院の繰り返しで、60歳で発病してから79歳で亡くなりました。
 それまで後の4人の子供をそれぞれ結婚させて何とかそれなりの生活ができるようになりました。近所の方々や皆様のお陰で82歳になっても、まあまあ人様にご迷惑をおかけする事も少なく元気でおれることを感謝しております。
 義理人情とか道徳とかいうものは、昔も今も違わないと思うのですが、私の考え方が古いのでしょうか、今頃の若い人ははき違えているような気が致します。
 子供たちには「感謝の心」を忘れずに、尊敬する気持ちを持って健康であることのみを親として祈っています。すべてご先祖様のお陰だと思っております。良いおばあさんになりたいと願っていますが、子供たちからは、老人は「話上手」よりも「聞き上手」になりなさいと注意されるこのごろです。

 38年間教員生活を送った**さん(久万町大字久万町 大正10年生まれ 72歳)
 「昭和20年代は、プールもなく近くの小川で7月にもなれば体育の時間には泳ぎに行っていました。男の子は良く泳ぎましたが、女の子は不思議と頭が痛いとか、お腹が痛いとか言って一人も泳いでくれませんでした。そのごろの山の子は水着などは持っていません。それで恥ずかしがることに気がつき、家内に簡単な水着を女の子全員に作らせ与えてみました。ところが今までとは異なり、喜んで水に入るようになり、常に子供の気持ちを把握する大切さを知ることができました。」
 「私は校長に就任してはじめて、地域文化を学校教育に取り入れ、子供に地域の良さを知らすべきだと、遅まきながら感じるようになり、土曜や日曜を利用して地域文化の調査に町誌を調べたり、部落の長老を尋ねたり、校区の隅々までも散策して、分かったことがあれば、自己流でガリバンに印刷をし、校区全域に配布したり、学校教育にも取り入れるように努めた。地域の人々は土地に住みながら、知らなかったことが分かり大変喜ばれた。そんな関係で、退職後も町の文化財保護委員として努力しています。」