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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)ふるさと回帰

 **さん(新宮村馬立栄谷 昭和2年生まれ 66歳)
 **さん(新宮村馬立栄谷 昭和5年生まれ 63歳)

 ア 結婚して独立したころ

 **さんの家は堂成から分れた栄谷(さかえだに)村道が終わって、さらに私道を100mほど登ったところにある。**さんは昭和63年(1988年)に神奈川県の相模原市にある泉自動車株式会社を退職して、ふるさと新宮村に帰ってきた。第2次世界大戦後、**さん夫妻が新宮村で営んできた農業、3人の子供さんたちの教育、さらに出稼ぎから上京して会社勤め、退職後の今の生活について、2人が歩んできた軌跡を話してもらった。
 昭和2年(1927年)生まれの**さんは、栄谷の**家の長男として生まれ成人した。**さんは昭和5年(1930年)大阪で生まれ育った。昭和20年(1945年)15歳の時に女子商業学校の女学生であったが、大阪が空襲で焼け野原となり、母親の郷里である新宮に帰ってきた。二人が結婚したのは昭和22年(1947年)で**さん20歳、**さん17歳暮れの時であった。
 **さんは長男であったが家を出て独立するのは、昭和24年(1949年)7月のことである。その時親から畑2反5畝(25a)をもらった。当時でもこれだけの面積での農業では生活は苦しい。だから山日傭(やまひよう)で杉の伐採や運搬もやった。また原木を買って炭焼きもやった。そのころはまだ堂成までの道がなく負い出し(背に負うて運び出す)ていた。
 昭和24年(1949年)に長女が生まれ、昭和25年(1950年)に長男が生まれ、昭和27年(1952年)に次女が生まれる。子供を育てるためにも、農業経営の規模拡大が必要であった。長女が川之江高校に進学する前に、父親から田4反5畝(45a)、畑3反(30a)を譲り受け、稲作と麦とサツマイモを栽培するようになった。
 藤田保村長の時、昭和37年(1962年)ころ、村長さんのすすめもあって牛を飼うことになった。資金は自作農維持資金70万円を借り入れして、牛3頭を購入した。牛舎を建て牛は放し飼いであったので、さほど苦にならなかったが、牛だと生き物であるので、何かの都合で飼えなくなると続けることができなくなる。
 次の農業を考えている時に、農業改良普及員から新宮でも養蚕をやってみたらどうかという話があった。

 イ 養蚕経営のこと

 **さんは**さんに相談をする。「お父さん、桑だったら植えとけばひとり太って、1年休んでも損はせんから、いっそ養蚕したらどうだろう。」ということになった。牛を飼いながら畑に桑を植えていった。実質牛を飼ったのは3年間であった。牛を飼うのをやめて毎年桑を植えて桑畑を1町歩(1ha)まで増やしていった。養蚕を始めるのは長男が中学1年生の時(昭和40年)であった。「主人は今もそうですが、物事に対して、進歩的というか合理的というか探究心の強い人です。機械化なども新宮では早い方ではないでしょうか。田仕事のため耕うん機を入れたのも、桑畑の除草機を導入したのも村では一番先ではないでしょうか。田の作業と養蚕の仕事が重なると体がもたない。能率を上げるための機械化でした。」「そのころ梅の木があったので、梅の実をとって出すと臨時収入でしたからうれしかったので、負い縄で負い出すのはしんどいとは思わなかった。梅の実を取る時期と、田植えと、お蚕さんの繭のケバ取りが一緒になって忙しかった。」と当時の労働のきつさを回想する。
 養蚕農家として**さん夫妻の経営は、桑畑が1ha、蚕の飼育数量は蚕卵の目方で春蚕90g、夏蚕20g、秋蚕50gを飼育する。「繭の生産目標は10gの卵から40kgの繭をつくることであった。蚕を飼うと蚕のふんがたまる。イアミという網をかけて、5齢までイアミは替えないでおく。そのかわりに玄米を擦って、その擦り糠と石灰を撒いて蚕室を乾燥させた。」**さんが「なんぼ忙しくても人を雇わなかったからなあ。だから大変だった。」と合槌をうつ。「台風がやってきた時は大変でした。ここは風が強いので、桑の葉が駄目になってしまう。そうなると蚕の餌がなくなるのでお父さんは桑の余っている農家をさがして、車を雇って桑を買い集めなくてはならない。桑をやるのは私1人だからたいへんでした。」**さんは80gの卵から蚕が5齢になると、大体2t車いっぱいの桑の葉をーぺんに食べてしまう。蚕に桑を与えて蚕室の向こうまで行って、こちらに帰ってくるとほとんど食べつくすほど食欲は旺盛でした。」とのことである。「昭和41年(1966年)に愛媛県の繭の品評会ではじめて優秀賞をもらった時はうれしかった。表彰状を受け取るために私は生れてはじめて松山に行きました。」**さんの家の部屋に当時の表彰状が掲げられている。それによると昭和42年(1967年)には努力賞、44年には3等賞、45年には2等賞を受賞している。厚子さんは「これを掛けてね。これをやったんだから、また何かやったらええと思うけど、これやった時はしんどかったなあ。眺めていると当時のことを想い出す。野村町や川内町の繭と私の家の繭では、飼育の歴史も違うし気候条件も違って、玉のふとりも違うから年収ではかなわなかった。当時は10gの卵から40kgの繭をつくることを目標に必死でした。そんなことで、この表彰状はいい記念だと思って眺めているんですよ。」と話された。
 **さんの家の周りには高さ5、6mの桑の木が疎林をつくっている(写真2-2-14参照)。これはかつて養蚕をしていた時代に植えた桑の木が、**さんが長男の大学進学を契機として、昭和46年(1971年)に東京へ移住してから放置されたものである。

 ウ 子供の教育

 「私も主人も大変でしたが、子供たちも大変でした。学校から帰ったら桑やりも手伝い、炊事もする。よく頑張ってくれたと思う。うちの子が高校へ行った時分は、中学校に1学年で130人ぐらい生徒がおって、20人そこそこぐらいしか高校へは進学しない時代でした。家の手伝いをしながら、ランプの燈(ひ)で勉強しながら学校へ行ったということは、子どもも大変だったと思う。農業が忙しいもんだから、よその子のような教育はしていませんが、小学校に入るまでには10ぐらいの数や自分の名前ぐらいは書けるように、また善悪の判断や最低限のしつけは教えなくてはならないと思っていました。だから数などを教える時は、田んぼの中へ子どもをパンツーつにして放り込むんですよ。お母さんが苗を取るから、10束(ぱ)ずつ置いておけ、子どもにそれを拾わせて、10束ずつにさせて、それがなん束とれたかを数えさせたりしました。また机の上で教えるのではなく、山へ行くと炭の粉があって、その上で名前を書かせて字を教えたりして体で覚えさせておりました。
 私は問題集を自分で作り子供に与えたりしました。そうしたら長女が2年生の時に、先生から、お母さん問題集は結構ですが、新カナ使いでお願いしますと言われたこともありました。」と子供の教育について話された。

 エ 離農そして東京移住

 3人の子供さんたちが相ついで川之江高校へ進学するようになると、農業収入だけでは家計は立たなくなる。そのため**さんが川之江で働くようになる。さらに**さんも工場勤めを始めるようになった。昭和44年(1969年)に長男が東京の大学に進学すると、**さん・**さんは出稼ぎの形で川崎に出た。当初は建築(大工)飯場であった。はじめの間は、冬場の出稼ぎで夏場は養蚕のため帰郷していた。都会の様子や生活にも慣れてくるようになると、世話してくれる人があって、**さんは、川崎市の東芝ガス機器に勤めるようになった。**さんも新宮の家の後仕末をして、メッキ塗装の伸工化学で働くことになった。大阪の女学校時代に習った簿記会計のおかげで、店の帳簿・会計一切をまかされるようになった。**さんは「ぽっと出の田舎者の私をここまで信用してくれたことに対して、どんなにうれしかったことか。それは言葉では言いつくせない感激でした。」と当時を述懐する。
 その後東芝ガス機器が閉鎖され、昭和52年(1977年)に**さんは、神奈川県相模原市の泉自動車株式会社に入社して、住所を埼玉県所沢市に移し、そこでの夫婦生活が始まった。その間、ハンドル組立台の改良で、会社からアッセンブリ一賞を受賞している。**夫妻は、昭和63年(1988年)に泉自動車を退職してからふるさと新宮に帰郷した。

 オ 囲炉裏と五衛門風呂のある生活

 昭和44年(1969年)に東京に移住する際、家も田も畑もそのままにして上京した。帰郷すると20年近く家を留守にしていたので、家が全く見えない程、木や草で覆われていた。建築の経験を持つ**さんは、傾きかけた家屋を自力でおこし、家を改造して再び自給自足のための農業を始めることになる。帰郷して初めて電灯もつけた。
 現在、**夫妻の農業の耕作規模は、田30a、畑10aである。米作りと野菜作りで、ニワトリが28羽放し飼いである。家族は内田夫妻と猫2匹、猟犬3匹である。家の下を流れる渓流の沢には山ワサビが植えられている。
 **さんの家が栄谷では一番上に位置しているので、「沢の清水をそのまま導水して飲料水や風呂水に利用している。燃料も灯油やプロパンも使っているが、自分の山林の、まきがふんだんに使えるし、木酢液(もくさくえき)を作るためにできた炭が使える。
 囲炉裏端で食事ができるし、地下足袋のままでトイレにも行ける。二人だけの生活だから誰に気がねをすることもないし、五衛門風呂も翌日でも農作業のあとに残り湯で汗を流すことができる。山ワサビや野菜なども販売を目的とするのではなく、新茶まつりや文化祭など村のイベントの時に提供して、気ままに自給自足の生活を楽しんでいる。」とのことである。

 力 木酢液(もくさきえき)のこと

 **さんは時間に余裕があれば単車で徳島や高知へ出掛けて行く。それはハウスで野菜栽培する農家を訪問するためである。今、野菜栽培で農家が一番頭を悩ませていることに連作障害がある。**さんは、その連作障害をいかにして防ぐかということを研究している。所沢市に住んでいたころ、30坪の家庭菜園をしていて連作障害に関心を持つようになった。調べていくうちに木酢液が連作障害の防止に有効であることを知った。
 新宮に帰ってから、木炭を焼く過程で木酢液をとることを始めた。今までに300俵の木炭を焼いて、ドラムカン10本(1本200ℓ)の木酢液を作った。これを高知県内や徳島県内の野菜園芸農家や新宮村の農家にも無料で配って、連作障害を防ぐための実験とデータを集めている。木酢液の原液を薄める倍率によって、その効果が異なってくるので、そのための試験と研究が必要になってくる。これも**さんの探究心のあらわれである。

 キ 新宮に帰って今思うこと

 「新宮を離れて勤めを終えて新宮に再び帰ってきた。都会の生活をしていた時も、いつも脳裏から離れなかったことは、いつでもふるさとに帰れるという気持ちであった。都会でサラリーマン生活をしていても気が楽だったのは、ふるさとがあるからでした。そこには家もあれば田や畑もある。過疎化の現状の中で村の活性化のために、何も手伝いはできないかも知れないが、私たちのようにふる里に帰り、自給自足の生活ができることはうれしい限りである。都会で生活してきて、いろいろな人生経験を積んだ老人の考えの中にも、何かとるところがあるように思う。年寄りの話も聞いて、何か取るところがあれば、それを土台にしてこれからの村を考えることも、新宮村の活性化への道ではないか。」と話された。またこれから村に帰ってくる人にアドバイスとして、「しっかりとした目的を持つこと。何か生きがいになるものを持たないと都会生活になれた者には、村の生活は難しいのではないか。」とのことである。

写真2-2-14 放置されて大木となった桑の木

写真2-2-14 放置されて大木となった桑の木

昭和40年代に養蚕のため植えられた桑の木が、その後離村のため放置され大木となった。平成5年8月撮影