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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(4)新宮茶に生きる

 **さん(新宮村馬立 昭和8年生まれ 60歳)
 **さん(新宮村馬立 昭和36年生まれ 32歳)

 ア 親・子・孫三代のお茶つくり

 新宮茶の生みの親、育ての親といえば脇久五郎翁である。翁は昭和62年88歳で逝去されたが、茶業振興の功績によって、昭和51年(1976年)井邦賞、昭和53年県功労者表彰を受けた。また昭和57年7月4日のテレビ愛媛の『えひめ人その風土(⑱)』で久五郎翁の茶に取り組む姿が放映された。ビデオテープをもとに当時のことを再現してみよう。
 「昭和29年(1954年)だったのう。村長(石川重太郎氏)に『ええ品種の茶があるんだが作ってみんか。』と言われてのう。崖から飛び降りる気持ちで始めたんだ……」当時新宮村の生業は、タバコ、ミツマタ、養蚕が主体であった。県の農事試験場工芸作物専門技術員の落合千年氏が、茶の品種としてヤブキタ種(昭和28年茶農林6号として農林省登録品種になった優良品種)の導入を積極的に指導した。それは新宮村は銅山川から立ち込める朝霧が発生すること。地形が傾斜地で排水もよく、緑泥片岩の風化土壌で茶の栽培に適していたこと。四国の石鎚山麓(ろく)には昔よりヤマ茶が自生していること。などの茶栽培の立地条件をそなえていたのである。
 石川村長や落合技術員の熱心なすすめがあったとはいえ、30年来タバコ作りをやってきて、茶に切り替えても成功するかどうか疑わしい。周囲の人々もどうせ失敗するだろう、無謀なことをするとみていた。10aの畑にヤブキタ苗を植え付けた。ときに久五郎翁は55歳であった。苗木の成育、施肥、晩霜対策などはじめての経験で試行錯誤の状態であった。研究書で勉強したり、先進地視察も度々行い研究をする。朝も昼も夜もお茶、お茶、お茶の生活であった。
 昭和34年(1959年)、初めて新茶を収穫した。静岡県茶業試験場で「香りは日本一」の折り紙がつけられた。久五郎翁は「あの感激は忘れられんのう。やっと報われたという気持ちでしたなあ。それにしても、苗木を植えて茶を収穫するまで、全然収入がなくて家族には苦労かけましたよ。」と述壊している。
 茶樹は挿し木して増やす。湿度とか土壌に恵まれていたので、挿し本の活着率もよかった。当時は、県内でヤブキタ種の導入を試みているが、成功したのは久五郎翁だけであった。苗木は村内の農家や県内の茶産地にも送られた。新宮村の茶の栽培はスローペースではあったが徐々に普及して行った。なぜかと言えば、この地域の山中にはヤマ茶がいくらでも自生している。山中に自生しているものを、なぜ畑に植えなければならないのか。というのが当時の村人の考えでもあった。そんなことで、茶栽培の初期には小面積の畑とか、傾斜が急で畑作に不便な場所に植えられてきた。それでも昭和45年(1970年)には村内に45haの茶畑が拡まった。
 次に苦労するのが、新宮茶の販売であった。当時茶といえば静岡や宇治の知名度が高く、新宮茶は市場でも全くといってよい程知られていなかった。
 久五郎翁の茶作りにかける情熱に感化されたのが、長男である**さんである。昭和32年、33年の2年間、**さんは静岡県の茶栽培農家に住み込んで茶の栽培や製茶の修業をすることになった。当時、交換留学の制度があって、静岡からは南予のミカン農家に来ていた。新宮村からは**さんともう1人が静岡へ留学した。
 静岡から帰って、中古ではあるが製茶機械を買い、納屋を改造して製茶工場も作った。製茶はしたが、販売に苦労した。知名度もなく、信用もない。さらに山地での栽培で手摘みしかできない。九州や静岡の平坦地で、温暖な土地の生産にくらべ収量も少ない。どうしてもコスト高になる。
 当初のころは新宮茶の市場はなかった。荒茶問屋に売る場合も、飲んでみるとうまいなという顔をするが、いろいろ文句をつける。ヤブキタという品種に慣れていない。宇治あたりのソフトな味になれているので、「あくどい」とか「きつい」とか文句をつけて買いたたかれる仕末であった。これでは作っても採算がとれない。そこで消費者に直売することにした。**さん自身が、お茶好きといわれる人々を尋ね歩いて、少量ずつだが飲んでもらうようになった。新茶ができるとその人たちに、新茶ができましたと一煎(せん)ずつ送って、新宮茶の宣伝に努力した。
 お茶はしこう品だけに、ヤブキタ茶は宇治茶に慣れた口には、きついがこくがある。一度飲んだら、結構まあヤブキタ茶のとりこになるという一面もあった。徐々にではあるが、新宮茶の得意もできてくるようになった。
 昭和34年(1959年)製茶工場を持った年に、宇摩郡の土居消費生協が発足した。土居生協から新宮茶購入の話があり、販路の安定をみることになった。その後、新宮茶は香りが良く、おいしいお茶と評価され、販売も伸びていった。また昭和56年(1981年)えひめ生協からも声がかかり納入することになった。新居浜の住化生協(現アイコープ)も新宮茶を取り扱うようになった。現在では新宮茶『脇の茶』の販売の大部分は生協である。

 イ 低農薬栽培から無農薬栽培へ

 脇の新宮茶をなぜ生協は、商品として積極的に導入したのか。新宮茶が香りが良く、おいしいということだけではなかった。新宮茶が無農薬栽培で、安くて飲んで安全な茶ということが大きな要因であった。
 **さんは無農薬栽培について、次のように話した。「静岡から帰って、栽培や管理は、静岡で習った方式でやっていた。虫が出れば薬をかけるのが当然のことと考えていた。新宮で5月に茶摘みする時期は虫はつかないが、6月の二番茶の時期になると多少虫が出てくる。お茶の三大害虫はハマキ虫、ウンカ、ダニである。大発生すれば農薬を撒布していた。新宮では熱心な農家は農薬撒布するが、全然しない農家もあった。新宮の地形が傾斜地であったり、茶畑が家から遠いところにあったりして、撒布には不便である。農家の若い労働力不足ということもあり、撒布せずに済めば、これに越したことはないが、当初は越冬害虫を殺すため秋口に1回は撒布していた。新宮茶は低農薬で安全だということが、生協さんにとって大きな魅力であったんでしょう。消費者との懇談の中で、低農薬でなく無農薬でやれないかという話があったんです。」
 〔無農薬栽培にふみきっだ動機〕
 生協との懇談や申し入れがあった時期に、「昭和58年(1983年)に父親が入院する。続いて母親も入院する。めいも入院ということで、家内が看病の付き添いをする。それで1年間は茶畑は放置された状態でした。本当に茶畑はボロボロになっていました。静岡から茶摘機のメーカーの人が、秋口に来るという連絡があり、あんまりボロボロの茶畑をみせるのは恥ずかしいので、弟と2人で前日に剪定(せんてい)しました。」翌日の状況について、『こーぷらいふ(⑲)』№66の「脇の茶特集号」に次のような記述がある。
 「その翌日は、とても良い天気でした。**さんは、茶畑を見ようと家の上に上がりました。その時です。**さんは、強い衝撃を受けました。茶畑には、一晩のうちに、一面朝日を受けてキラキラと蜘蛛の巣が張っていたのです。前の日に剪定したばかりだというのにです。農薬をかけていれば、蜘蛛は死に、巣も張ることはできなかったはずです。末だに、その光景は忘れられないと言います。『これが、天敵利用ということなんだな』と**さんは直感しました。『理屈では分かっていても、なかなかそこへ踏み切ることは難かしいというのが本音だったのですが、それを見て、こりゃ、いけるなと。うちは当然やるし、他の農家にも呼びかけたんです。』と話された。」
 その翌年から、天敵を利用した無農薬栽培に踏み切ることになった。現在はクモ以外にもハチやテントウムシなど、自然の生態系利用で新宮村では無農薬栽培が定着している。
 〔無農薬栽培のための土作り〕
 **さんは、「無農薬で作るための絶対の条件は、土作りです。新宮村では茶の代表的な病気はモチ病です。病気に耐えられる茶樹を作るには、有機物を土にたくさんすきこむことです。」と言う。だから窒素成分の多い化学肥料は使用しない。魚粉、油粕、たい肥を茶畑の溝にまき、その上に山草やカヤを土壌の敷草とする。除草剤を使用しないから、夏場は草とりが大変であるが、山草を敷くことは、土壌に有機質の補給と、雑草の繁茂を防ぐ一石二鳥の役割を果たすことになる。

 ウ 新宮茶の栽培と製茶

 **さんのところでは、茶の栽培を始めたころは5反百姓であったが、その後の規模拡大で、平成5年は1.6haの茶畑をもつようになった。5月の一番茶手摘み、6月の二番茶の茶摘みの時期は、季節雇いを含め20名ほどが従事する。
 新宮村全体では、平成4年度で栽培農家数380戸、このうち生葉販売農家数142戸、栽培面積42ha、生葉生産量162t、荒茶生産量35tにまで成長した。県全体のうち新宮村の割合は、栽培農家数6.7%であるが、栽培面積では16.5%、生葉生産量21.6%、荒茶生産量22.0%と県下に占める地位は高い。とくに新宮茶が、「香りは日本一、飲んでおいしく安全な茶」という評価と信用を将来も持続し、新宮村の特産品として定着させる必要がある。そのために**さんは自費で、『新宮茶園だより』、『新宮茶の栽培指針』を発行している。それを村内の全栽培農家に配布して、技術指導や啓蒙活動を続けている(図表2-2-17参照)。『新宮茶園だより』は昭和52年(1977年)に第1号を発行してから、平成5年4月で第75号まで続いている。**さんのところでは、農家から持ち込まれる生葉の買い上げと、農家の委託加工もする。加工場では専属3名で、茶摘み時期の4月から7月までの生葉が多く持ち込まれる時期は、10名程度が雇用される。新宮で生産される製茶の60%、販売の70%が**さんの製茶工場で取り扱っている。村内には他に農協の加工場と、個人の加工場がある。

 エ 3代目のお茶つくり

 伊予三島市・川之江市・新宮村の2市1村の若者たちで組織する、「広域まちづくり委員会-アトリエ宇摩」のメンバーであり、「塩塚スカイクラブ」の副会長を務める、**さん(32歳)が脇の茶の3代目である。脇の茶だけでなく新宮村にとっても頼もしい後継者である。**さんは現在2児の父親である。奥さんは中学時代の同級生で、結婚は昭和60年(1985年)であった。
 家業を継いだことについて、「祖父や父親の苦労している姿を見て育った。農業が好きとか、興味があったということではなかった。小さいころから、父が夜も寝ずに仕事していたのをみていたから、少しでも手助けができたらという気持ちはあった。昭和54年(1979年)に三島高校商業科を卒業した。同級生は進学や就職をしたが、僕は新宮に帰った。今でこそ高速自動車道が開通し便利になったが、15年前は陸の孤島で、茶の機械の修理もままにならん状態でした。父親から、機械の修理技術を習得してきてくれと言われて、静岡の製茶機械工場へ行きました。また、お茶の問屋にも行きました。それは、お茶の仕上げの勉強です。当初は村内の農家に茶摘機の仲介もしていたので、茶摘機のメーカーにも行きました。静岡では住み込みです。新宮のお茶の時期には人手がないので帰ってきて、お茶をもんでから、再び静岡へ行くということが何年か続きました。」と話す。
 3代目としての苦労について、「山の中の新宮では、1人で何もかもやらなければならないということです。茶の栽培、防霜ネット施設や石垣積み、製茶から機械の修理、小売り販売の営業活動としなくてはならない。考えようによっては、お茶作りのすべてをやれて良いということもありますが、ときに農民の顔、技術屋の顔、あるときは商売人で、すべてをうまくこなすことは、父親はできても、まだ僕には自信がありません。」とのことである。
 3代目としての茶作りの抱負について、「新宮茶には独特な味がある。香りも強い。なん煎もできる。お茶に力があります。祖父の時代、父親の時代、僕の時代で、新宮茶がどう変わったかと言われても、品質の点でそう大きな変化はありません。品質管理面については、袋詰機械の導入、大型冷蔵庫の設置、包装袋の改良、香りや味を引き立たせる火入れの工夫などで、昔に比べるとずっとよくなったと思います。父親の発想で、『たべるお茶』として粉末茶を2年前より製品化しました。戦前・戦中にご飯がすえかけた時に、『茶ガユ』にして食べるとお腹をこわすことがなかった。それがヒントになって5年ぐらい前から研究していたものです。『たべるお茶』は父親のアイデアであったが、僕は茶の葉を『茶ブクロ』に入れて風呂に入れる、美容と健康の『茶ブクロ』入浴剤の製品化を考えている。いま試験的に製品をサービスとして出しています。これからのお茶の用途は、ただ飲むだけでなく多方面に開発が進むと思います。もう一つの試みとして取り組んでいるのは、大昔よりこの地域の山中に自生してきたヤマ茶を採取してきて、挿し木して増やし、できれば品種改良にも使いたい。日本古来のヤマ茶は病気にもならず生き続けてきた。ヤブキタ種以外に、日本古来の味を再現したいという夢をもっています。」と夢を語る**さんの目は輝いていた。

図表2-2-17 新宮茶の栽培作業暦

図表2-2-17 新宮茶の栽培作業暦

脇製茶場の『新宮茶の栽培指針』より作成。

写真2-2-17 新宮村馬立の茶畑と製茶工場

写真2-2-17 新宮村馬立の茶畑と製茶工場

脇製茶場。傾斜地に茶畑があり、防霜ネットの施設がみられる。平成5年11月撮影

写真2-2-18 新宮村馬立の茶畑

写真2-2-18 新宮村馬立の茶畑

土壌に有機質の補給と雑草の繁茂を防ぐ一石二鳥の敷草。平成5年11月撮影