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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)伝統行事を支える人々

 城川町窪野の八鹿踊りは、昭和49年に国選択の無形民俗文化財に指定されている。県内南予に多く分布する鹿踊りは、伊達政宗の長子秀宗が宇和島藩主として入部した際に、仙台地方に伝わる鹿踊りを導入したのが起源とされている。しかし、この窪野の八鹿踊りは、三滝城落城以前(伊達入部前の戦国時代)に三滝城守護神蔵王大権現に神前奉納していたと、地元では伝える。何らかの鹿に関わる芸能があったとも考えられ、この口碑は一概に否定できない。しかしながら、現在の窪野八鹿踊りの歌詞は、旧宇和島藩各地のそれとぼぼ同一である。当初は七つ鹿であったものが、文政10年(1827年)に当時の庄屋矢野総左衛門が仙台まで出向き、本場の踊りの師匠を迎え半年かけて手ほどきを受け、現在の形に仕上げたとされる。県下の鹿踊りの中でも古式を伝える優れたものとして、すでに国・県・町の学術的研究や記録が多くなされているが、本項ではその芸能を支える人々の取組みに焦点を当てて、茶堂とも共通する、伝統行事を大切に守り育ててきた地域の特質を考えてみたい。
 **さん(城川町窪野串屋 昭和4年生まれ 64歳)
 「この八鹿踊りは、現在『豊親山八鹿踊り保存会』が伝承しております。4月17日の三滝神社の春の大祭に奉納するための踊りです。祭当日はお宮に集合して、三滝山山頂のお旅所まで祭行列で行って、そこで奉納します。行列の出し物は窪野内の部落ごとに昔から決まっております。八鹿踊りは、この串屋の者だけが、今まで伝えてまいりました。
 八鹿の役付けは、つゆはらい、せんだつ、笛吹きが各1名で袴を着用し、先鹿(先音頭(さきおんど))1名、後鹿(後音頭(あとおんど))1名、牝鹿(めすじか)1名、小鹿(こじか)5名の構成になっております。先音頭が常に最初に発声をしてから踊り始めるので、一番難しく、10年くらいは経験がないと勤まりません。踊りは『まあわれまわれみずぐるま おそくまわりて せきにとまあれな』という小唄を唄って1列で進みながら踊るのが『道行き』です。部落内を練り歩く時もこの踊りです。その後、子鹿が輪を作って音頭が中に入り、2番ある長唄を唄い、続けて『音頭舞(おんどまい)』として牝鹿を2頭の音頭(雄鹿)が奪い合う舞いを、小唄と共にやります。全部踊るには1時間くらいかかるでしょうか。
 昔は、跡取りである長男だけが踊ることになっており、小学校の4年くらいから練習を始めて、私は小学校6年から子鹿に選ばれて、年齢としては非常に早かったので、光栄に思っておりました。他の地域の子供が踊る鹿踊りと違って、窪野の鹿踊りは普通は15・6歳くらいから子鹿となって、20代、30代の者が昔でも大部分でした。神前の奉納で年中第一の行事なので、厳しい稽古で踊り全体に習熟しておらなければ、踊らしてはもらえませんでした。練習は、元の庄屋であったNさんの蚕(かいこ)部屋でやり、3月1日に人選があって稽古を始め、ちょうど農閑期でもありますんで、4月17日の当日までは、必死で練習します。奉納の後は、秋の竜王神社(高知県檮原町)の大祭にも、招待されて2度ほど行きました。川津南の三柱神社にも行っておりました。」
 「土居郷土誌」によると、大正年間までの鹿踊りの編成について、以下のような記述がある。「毎年正月15日には庄屋の屋敷へ役方衆をはじめ踊りの連中が大勢集まり、その年に奉納される鹿の『事始めの会』を開いた。この事始めの会は、鹿踊りの最も上手な者から順に一番組、二番組、三番組と分け、各組の資格者(先音頭、後音頭、子鹿等)を決定する重要な会議であった。この会が終了すれば、広い紙に一番組から三番組までの人名が発表されるので、役方衆以外は一喜一憂してそれを見上げ、氏名の無いものは男泣きに泣いたといわれる。また一番組に昇格したら良い嫁がもらえると、村中でうわさされていた。」また、愛媛県への文化財指定申請書(写し-保存会綴)によると、「神前奉納した八鹿踊りの五色の笹枝を神棚へ供えると夏病みにかからぬと言い、一枝一枝折り取られて最後には1枚も残らぬようだったといい、今にそうしたことが続けられている。また、鹿踊りで1日はいたワラジを家の入り口につり下げていると、厄除けになるとつたえられている。」
 「この伝統ある八鹿踊りも、昭和30年代、40年代は過疎化の進展で若い人がおらず、メンバーの構成に一時は非常に苦労しました。串屋は、かつては商売で非常に繁栄し昔は70戸ほど家があったそうですが、今は20戸近くになっております。昭和30年ころに、郵便局員であった増田嘉平さんが、この地域の誇りである鹿踊りを、どうしても残さんといけんということで、大変な尽力をされ保存会が結成されました。鹿頭や衣装が傷んでどうしても修復せんといけん時に、串屋区だけでは資金が集まらず苦労したんですが、窪野地区全体から寄付をいただくお世話も受けました。鹿笛は、Hさんという方が長老としてずっと吹いてもらっておったのですが、昭和25年ころにHさんが亡くなると誰もよう吹かず、しばらくは笛無しでやっておりました。私は、踊りの方を抜けてから鹿踊りのお世話をしている時に、繰返し練習してようやく音が出るようになり、それから14・5年、笛吹きを勤めました。今は笛吹きも後継ぎができました。
 その後昭和43年に県教育委員会の民俗資料調査を通じて県の指定文化財となり、ここ十数年でも札幌・東京・丸亀等で開催された全国の伝統芸能大会に招待されるなど、八鹿踊りの伝統に地域の者も強い誇りを持つようになり、後継者も何人か地区に残るようになりまして、保存会の将来もようやく明るくなって参りました。祖先が残してくれた伝統ある行事を大切にすることが、また地域の誇りや未来を育てることにもなるのだということを、最近つくづく感じております。」