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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)今日生きる久万町の伝統的共同生活①

 ア お久万の里~久万郷の弘法(こうぼう)伝説

 愛媛県における県境山間部の代表である上浮穴郡は、「上浮穴は一つ」の合言葉のもとに山村地域の活性化のため特色ある様々な取り組みを積み重ねている。
 農林業を基幹産業とする久万町は、上浮穴郡における産業・経済・交通・文化の中心的役割を担っている。
 今日、久万町には、「お久万大師堂」が建てられ、久万町古町の町内会(組)の人々によって祭られている(写真3-1-1参照)。
 「お久万」の伝説は、「気立てのやさしい娘の『おくま』が熱心に機(はた)を織っていると通りかかった遍路が汗をふく織り布を所望したので、『おくま』は惜し気もなく布をはさみで切って遍路に差し出した。
 その遍路より『何か望みがあれば一つだけかなえよう』と言われた『おくま』は、このように淋しい村を立派でにぎやかな町にしてほしいと願った。やがて、その村は『おくま』の願いのとおり次第に栄えて立派な町となった。その時の遍路は弘法大師であり、弘法大師は『おくま』の名前を取って久万町と名付けた。」という弘法伝説にまつわる地名の由来である(①)。

 イ 久万町の町内会(組)と共同生活の成り立ち

 上浮穴郡の中心地である久万町の町行政を支える機能的な単位は町内会であるが、町内会は、江戸時代からの伝統的な村落共同体を基盤としている(*1)。すなわち、久万町における13の大字は藩政時代からの13か村の旧村に相当し、大字の下には伝統的な小部落や小組を基礎として124組の町内会(組)が編成されている。それらの一つ一つが久万町における町中や村落の共同生活の舞台となっている(図表3-1-1参照)。
 久万町の124組の町内会には、それぞれ町内会長(組長または小組長)が選ばれて(選挙または互選)町内会の共同生活や行事の世話やまとめをしている。また、町内会長は嘱託員(昭和20年代以降)として町役場の依嘱を受けて役場からの要請や諸連絡の役目を担い、町行政の末端機構の役割を果たしてきた。
 更に、旧村に当たる大字には、年中行事や共同生活をつかさどる総代(部落総代、区長と呼ぶ地域もある)が選ばれて村落生活のかなめの役割を果たしている。
 大字の下には旧村の時代から伝統的に組(小部落)があり、組にはそれぞれ5・6軒から10軒くらいの戸数で小組が作られてきた。小組は、藩政時代からの五人組(*2)、戦時中の隣組に当たり、村落生活におけるコミュニティの最小の単位で、いわゆる「向こう三軒両隣り」的な共同生活の営みの舞台である。小組の呼び方は、畑野川(はたのかわ)地区では「株(かぶ)」、直瀬地区では「株または丈(じょう)」、父二峰(ふじみね)では「伍組(ごくみ)」(または「伍長(ごちょう)組」)などと様々である。小組の世話役は伍長とか伍長頭(ごちょうがしら)と呼ばれる所が多く、輪番制であった。
 以上のような村落共同体の基本的な仕組みを図示すると、下記のようになる(図表【村落共同体の基本的なしくみ】参照。)。

 ウ 上直瀬地区の伝統的共同生活の成り立ちと営み

 **さん(久万町上直瀬 明治42年生まれ 84歳)
 **さんは、大正13年(1924年)、直瀬尋常高等小学校を卒業し、更に2年間農業補習学校で学んだ後、川瀬村役場の職員に採用され18年間勤めた。途中の3年間は川瀬村農業信用組合に出向した。昭和19年(1944年)、**さんは徳島連隊に召集された後、南中国に派遣され金門島で終戦を迎えた。昭和21年、復員してふるさとに帰った後、川瀬村農業信用組合に復職、昭和21年直瀬郵便局に転職して18年間勤め、昭和39年(1964年)63歳で退職した。
 上直瀬に生まれ育った**さんは、今日まで地域の人々とともに歩み、直瀬(大字)の区長、上直瀬公民館の館長や直瀬小学校PTA会長など地区の各要職を務めてきた。また、今日は久万町文化財保護委員として地域の文化財の調査や保護に尽くしている。
 農林業を中心とする大字直瀬(旧直瀬村)は、明治22年(1889年)、町村制施行にともない上畑野川村、下畑野川村と合併して川瀬(かわせ)村となり、昭和34年(1959年)には久万町に合併して今日に至っている。
 直瀬地区は、大きく上直瀬地区と下直瀬地区に分かれるが、上直瀬地区は永子(えいし)組・段(だん)組・仲(なか)組・下(しも)組の四つの『組』からなる。各組の下の『株』または『丈』(直瀬独特の呼び方)と呼ばれる向こう三軒両隣り的な小組が村落共同体の末端組織となっている(写真3-1-2参照)。
 **さんは上直瀬の村落生活について「私は、『仲組』(45軒)のうちの『庵(あん)丈』(7軒)に属しておりますが、組には『組長』、丈には『伍長』と呼ばれるまとめ役がおります。組長は大体年齢順に、伍長は輪番でやっています。
 今日、久万町の行政区としては『町内会』(直瀬では丈にあたる)がありますが、町内会長は丈の中から推薦された者が役場の依嘱によってなり、町役場からの回覧板などの伝達、行政上の連絡役を果たしています。かつては『嘱託員』といわれました。直瀬では各町内会長と各組長とはほとんどダブリません。」
 「大字の直瀬の部落全体をまとめる役目として『区長』かおりますが、部落全体にかかわる事項などについては区長が部落会を招集して相談します。区長というのは久万町内でも直瀬だけの呼び方です。さらに、上直瀬には『総代』、下直瀬には『大組長』がおり、それぞれ上直瀬と下直瀬の部落会を統括しています。」と直瀬地区における伝統的な村落生活の成り立ちと仕組みについて語っているが、上直瀬地区独特の伝統的な組織と名称が見られる。
 以上のような直瀬地区の村落共同体の特色ある仕組みを図示すると、次のようになる(図表【直瀬地区の村落共同体の特色ある仕組み】参照。)。
 このうち、仲組を中心とした組の伝統的な共同行事の内容と地域に果たす役割について**さんは次のように語った。

 エ 地域に生きる伝統行事~お堂を舞台としたコミュニケーション

 (ア)「お日待ち」と「堂ごもり」

 「各丈(小組)の寄り合い(会合)は『株寄(かぶよ)り』といい、庵丈では、年2回定期的に行う代表的な共同行事があります。
 まず、正月の『お日待ち』(おこもりをして日の出をおがむ)は、庵丈の代表者が秋葉講(あきばこう)(*3)でお札を請けて来た後、丈(株)の人々が各家(輪番)に集まってお日待ちの寄り合いをします。金比羅(こんぴら)講は10月10日、秋の取り入れの後、庵丈の上の金比羅さんのお祭をして丈(株)の者が集まって寄り合いをします。これらの寄り合いは、小組の人々の信仰と懇親を兼ねた共同行事です。
 また、年末の12月には『堂ごもり』という寄り合いを各組の公会堂で行いました。組内の戸主が集まって念仏を唱えたり、翌年の新組長や役員の選出を行ったり、草屋根替(くさやねが)えの順番を決めたりしました。その日は米3合を持ち寄って酒を汲み交わし組員の懇親の機会でもありました。今日では萱の屋根替えの必要がなくなったこともあって『堂ごもり』は行わなくなりましたが、上直瀬では段組のみ今日もやっています。」と組や丈における様々な寄り合いの様子と役割、さらに、漸次減少してきた民間信仰を中心とする伝統行事の変化について語っている(写真3-1-3参照)。

 (イ)「念仏の口明(くちあ)け」~仲組に続く新春の楽しい行事

 上浮穴地方に限らず農山村の伝統的な信仰行事の一つとして「念仏の口明け」がある。しかし、今日まで「念仏の口明け」の行事が行われているのは数少なく、直瀬地区でもここ仲組のみとなっている。
 **さんは「念仏の口明け」について「この行事は、旧の正月16日、現在は正月3日に仲組の全員が組の公会堂(集会所)に集まり、鉦(かね)・太鼓を鳴らして『ナンマイダ』と念仏を唱えながら組中の安全、五穀豊じょうと無病息災を祈願します。昔は大きな数珠(じゅず)を回しながら念仏を百万遍唱えていましたが、今は簡略化して念仏を唱えています。その後、大きな数珠は傷(いた)んでしまったので現在は使っていません(口絵参照)。仲組の公会堂は『観音堂(かんのんどう)』として組の人々に敬われ親しまれています(写真3-1-3、4、5参照)。
 昔は組中みんなで『うどん』を打って盛んに会食を楽しみましたが、今日は簡単にいりこ・かまぼこなどで酒を飲み交わす程度です。この『初寄(はつよ)り』を兼ねた『念仏の口明け』の行事は、仲組にとっては大事な共同行事で組の人々の慰安と娯楽の機会となっています。」と今日に伝わる「念仏の口明け」などの伝統行事が組や村の人々の心のよりどころとなっていることについて語っている。
 また、「上直瀬には公会堂(集会所)を兼ねている観音堂のような『お堂』は4か所ありますが、仲組のお堂は千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)像を祭っていますので4か所の中でも一番格が高いとされています。他の3か所は阿弥陀(あみだ)さんを祭っているので『あみだ堂』と呼ばれています。また、『お堂』の前の広い空き地のコートでは、老人会の皆さんが張りきってゲートボールを楽しんでいます。」と「お堂」は、組における信仰行事や部落の共同生活の拠点となり、組や部落の人々のコミュニケーションとレクリエーションの舞台として大きな役割を果たしてきた意義について強調している。

 (ウ)「鬼(おに)の金剛(こんごう)」~大わらじで悪魔退散の新年行事

 鬼の金剛は、正月3日の「念仏の口明け」の際、ワラを持ち寄って大きなわらじを作り、それに弁当や箸をそえて仲組の中心地にある公会堂の入り口に吊るす行事である。
 **さんは「鬼の金剛」について「昔は病気や災難は悪魔(鬼)が持って来ると信じていたところから悪魔払いのために、この行事が行われたのでしょう。部落へ入ろうとした悪魔は大きな履物を見て、この部落には自分より大きな履物を履く者がいると恐れをなして部落へ入ることをあきらめ弁当を持って帰っていくであろう、と信じたようです。各地で行われていた鬼の金剛の行事は今日、直瀬では仲組のみとなりましたが、隣村の面河村の渋草あたりでは、川の上に大草履を吊るして鬼の金剛の伝統行事を続けています。」と特色ある山間部の共同的な信仰行事の営みを語っている。

 (エ)「百八灯(ひゃくはちとう)」~長慶(ちょうけい)天皇の供養を続ける

 百八灯は毎年、8月14日の旧盆に松明(たいまつ)(肥松(こえまつ)や麻殻(あさがら)を束にする)を持ち寄り、鉦と太鼓で念仏を唱えながら一斉に燃やして祖先の霊を迎える組の行事である。
 **さんは百八灯について、「直瀬の百八灯は、小田町の山の火祭りのように山の神を祭るのではなく、近くにある長慶天皇(*4)の伝承上のお墓(明神駄場(みょうじんだば)の丘にある)に松明を持っていって供養する祭りでもあります。今日は松明をやめて缶に灯油を入れて灯し吊るしています。直瀬でもこの行事を現在行っているのは仲組だけですが、直瀬の夏の風物詩となっています。仲組としてはこのような地域の伝統行事をできるだけ残し続けていきたいと願っています。」と上直瀬地区特有の長慶天皇の歴史伝承にかかわる伝統行事を保存、継承する意義を語っている。

 (オ)「虫送り」の行事の移り変わり

 虫送りの行事は、毎年6月、害虫を駆除し五穀豊じょうを祈るため田植えが終わった後の田休みに合わせて行うもので、五社(ごしゃ)神社(上直瀬の氏神)の神輿(しんよ)をかつぎ各組が継ぎ持ちで回った。「まず永子組が宮出しを行い、段組、仲組と引継ぎ、最後に下組が宮入りを行いました。また、神符が各家に配られ部落の入り口や田の畦に立て、その後で酒を汲み交わし懇親の場としました。戦後は生活改善により経費節減のため神輿の巡回をやめ、五社神社に上直瀬の各組長や神社代表が集まって祈願しお札を頂いてきます。」とこの場合も、戦後における農村の生活改善や過疎・高齢化などによる伝統行事の変容の姿を語っている。

 (力)なつかしい「地鎮祭(じちんさい)」と人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)~部落最大のレクリエーション行事

 この行事は、天災地変による災いのないことや村の人々の無病息災、五穀豊じょうを祈って毎年3月の節句前後に行われていたもので、秋の例祭と並んで上直瀬最大の信仰と娯楽の祭りであった。
 上浮穴郡一帯には、江戸時代後期の文化年間(19世紀初期)ころから浄瑠璃や歌舞伎が遊芸人や四国遍路によって伝えられた。特に、阿波の人形芝居の巡業による影響が大きかった。久万地方でも盛んとなり、とりわけ直瀬地区と畑野川地区において盛んに行われた(写真3-1-6参照)。
 **さんは「地鎮祭の人形浄瑠璃の芝居は、上直瀬にとって戦前における地域最大の信仰的な娯楽行事でした。地鎮祭の時期は、春が来て農繁期に入る前の3月の節句前後、農家が一息ついたころです。各地から浄瑠璃の師匠を招いて村のノド自慢の有志が盛んに稽古をしましたが、本当に好きな者が多く自称大夫(だゆう)と得意がっていました。特に、阿波より人形遣い(デコ回し)の3、4人の一座が村にやってきて2、3日間、興業を打ちました。興業の場所は、部落の人々が集まりやすいように仲組の観音堂と天皇越え(段組と永子組の境)の2か所において一年交代でやりました。2か所とも掛け小屋で観覧席は覆いもなく四方は筵(むしろ)張りでした。
 人形芝居の照明は、はじめころ松明やろうそくでやり、やがて石油ランプとなりましたが、野外でしたので風で石油ランプの火が消えやすく弱りました。
 私の子供ころの思い出ですが、この時にはアメ玉やニッケ水などを買うのが楽しみでした。大人は弁当や酒を持ち寄り一日中、夜が更けるのも忘れて楽しんでいました。村の人々はみんな、毎年この催しを待ち兼ねて楽しんでいましたが、太平洋戦争勃発とともに中止されてしまいました。」と明治、大正、昭和と長く続いてきたこの山村の最大の娯楽行事について、心からなつかしそうに往時を振り返っている(写真3-1-7参照)。
 今日まで一貫して上直瀬とともに歩んできた**さんは、上直瀬地区における人々の付き合いと助け合いなど様々の伝統的な共同生活、部落の生活習慣や村落共同体の特色について克明にまとめている。**さんは「上直瀬において長く続いてきた部落の付き合いや助け合いの良き伝統や習慣も、やはり生活の変化と時代の流れに従って残念ながら消えていくものも少なくありません。今のうちに子孫のために残しておきたいと願って記録しております。」と村の長老の責任として伝統の継承に対する思いと願いを込めて語っている。
 さらに、**さんは、過疎と高齢化が進む地域の中で、ふるさとの生活文化における伝統行事や生活習慣を子孫をはじめ後世の人々に伝えようと努力されており、その熱意と姿勢には大いに学ぶべきところがあった。**さんがまとめた貴重な村落の共同生活に関する記録は、次のような項目から成り立っており、歴史民俗資料としても貴重である。

   ① 生活(農作業を含む)にかかわる行事
     ちあい(牛馬の針治療)、草競馬(くさけいば)、玉蜀黍(とうもろこし)はぎ(共同作業)、
     亡馬区所(ぼうばくしょ)(死牛馬を埋める場所)、えびす講、こうろく(無料奉仕作業)、住居様式、
     牛馬の使用、上牛(あげうし)(預かり牛)、萱屋根(かややね)の葺き替え、子守とアラシコ、
     薪・クイゼ・オロ(燃料)、ムタカ(入会地(いりあいち))、炭焼き、肥(こ)え松(まつ)(灯火)、
     石油ランプ
   ② 信仰にかかわる行事
     念仏の口明け、鬼の金剛、麦祈祷、地鎮祭、人形浄瑠璃、虫送り、百八灯、亥(い)の子
   ③ わが家の四季~年中行事(正月から大晦日(おおみそか)まで)
   ④ 村落の各行事の用語説明

 以上の記録の内容は紙数の関係で、その一部の内容を紹介する。
 ○草競馬
 「大正初期ころから大寄駄場で草競馬が行われていた。時期は旧3月節句前後が多かった。当日は畑野川、面河村などの馬主も参加し盛大に行われたが、戦争に馬が徴発された関係で中止となった。戦後一時期、畑野川で復旧されていたようであるが、昭和30年前後ころから全く途絶えてしまった。」
 ○玉蜀黍はぎ
 「毎年、9月下旬から10月の上旬にかけて各農家のトウキビ取りが始まった。近所の農家と共同して行っていたようである。早い夕食をすませた近所の人が集い、庭や納屋に山積みされた『トウキビはぎ』に取りかかった。
 昔はトウキビは主食であり、また、牛馬の飼料としても欠かせないものであったから、多く作るひとは40俵位(1俵60kg)作っていた。深夜までかかって連(れん)(束)にしばり、稲木にかけた。作業が終わると当家の心づくしの煮込み飯などを御馳走になり四方山(よもやま)話などしてから帰っていった。」


*1:松山藩の久万郷の支配組織は、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)-郡(こおり)奉行-代官(久万に常駐せず)-元締(もと
  じめ)-大庄屋(おおじょうや)-庄屋(しょうや)(各村)-組頭(くみがしら)・作見・筆方・使番・小走(こばしり)・斗差
  (とさし)(各村役人)-五人組-本百姓(本門百姓)-無縁家来(水呑百姓)を基本としていた。
*2:江戸時代の村では本百姓(検地帳に登録、貢租を負担)5戸1組を基準に五人組を組織し、五人組帳に記載して年貢納入
  の連帯責任・犯罪相互防止を図るとともに村落の相互扶助の役割も果たした。
*3:防火(ひぶせ)の神である秋葉山信仰(静岡県周智郡秋葉山中心に全国に分社)の講、この地方では高知県高岡郡仁淀(に
  よど)村の秋葉神社に2人の代表が参拝して護符を受けて帰り講中に頒布した。
*4:後村上天皇の皇子で南朝第3代天皇(在位1368~83年)。この地方の伝承では北朝に敗れた長慶天皇が上直瀬に落ち延
  びて病没したといわれ、今でも上直瀬には天皇越という伝承上の地名や天皇の墓(長慶明神陵)を祭る習慣がある。

写真3-1-1 久万町のお久万大師堂(柱に「久万郷由来之遺跡」の標識)

写真3-1-1 久万町のお久万大師堂(柱に「久万郷由来之遺跡」の標識)

お久万大師堂は久万町古町に建てられていたが、昭和43年(1968年)、この地に移転改築した。久万町住安町 伊予鉄久万バス営業所東側。平成5年12月撮影

図表3-1-1 久万町の町内会(組)一覧表

図表3-1-1 久万町の町内会(組)一覧表

久万町役場資料より作成。

図表 村落共同体の基本的な仕組み・直瀬地区の村落共同体の特色ある仕組み

図表 村落共同体の基本的な仕組み・直瀬地区の村落共同体の特色ある仕組み


写真3-1-2 上直瀬地区の景観

写真3-1-2 上直瀬地区の景観

平成5年11月撮影

写真3-1-3 上直瀬地区仲組の公会堂(観音堂)

写真3-1-3 上直瀬地区仲組の公会堂(観音堂)

昭和25年改築。平成5年11月撮影

写真3-1-4 仲組観音堂の千手観音(せんじゅかんのん)像の祭壇

写真3-1-4 仲組観音堂の千手観音(せんじゅかんのん)像の祭壇

仲組公会堂内。平成5年11月撮影

写真3-1-5 仲組観音堂の念仏用の太鼓と鉦(かね)

写真3-1-5 仲組観音堂の念仏用の太鼓と鉦(かね)

鉦には「宝永8年卯年2月(1711年)作室町住出羽大掾宗味作」の銘が刻まれている。仲組公会堂内。平成5年11月撮影

写真3-1-6 上浮穴郡浄曲(人形浄瑠璃)大会の番付奉納額

写真3-1-6 上浮穴郡浄曲(人形浄瑠璃)大会の番付奉納額

住吉神社(下畑野川)昭和7年奉納。平成5年11月撮影

写真3-1-7 人形浄瑠璃が度々上演された仲組公会堂内(観音堂)

写真3-1-7 人形浄瑠璃が度々上演された仲組公会堂内(観音堂)

平成5年11月撮影