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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)今日生きる久万町の伝統的共同生活②

 オ 上畑野川地区の伝統的共同生活の成り立ちと営み

 **さん(久万町上畑野川 大正9年生まれ 73歳)
 **さんは、大字上畑野川の岩川の農家に生まれた。上畑野川尋常高等小学校を卒業後、大阪の宝飾店に務めたが、健康を害したため昭和14年(1939年)、上畑野川に帰郷して農林業に従事してきた。戦後は、炭焼き、酪農、野菜栽培、米作など山村農家として多様な経験を重ねてきた。また、昭和40年(1965年)ころから10年ほど久万町の町有林の営林業務に従事し、昭和51年から「久万高原ふるさと旅行村」における旧民家の移転、建築作業の現場の責任者として務めた。
 地元では、上畑野川地区の部落総代を2期6年務め、現在は久万町の文化財保護委員を務めるかたわら畑野川郷土史会に属してふるさとの地域文化の保存継承に努めている。

 (ア)上畑野川地区の村落生活の成り立ち

 農林業を中心とする大字上畑野川地区の村落構成は、東河之内(かわのうち)組(15世帯、以下数字は世帯数)・西河之内組(6)・東明杖(あかづえ)組(12)・西明杖組(24)・宝作(ほうさく)組(10)・岩川(いわがわ)組(36)・上西之浦(かみにしのうら)組(15)・下(しも)西之浦組(22)の計8組(各町内会)の140世帯から成り立っている(写真3-1-8参照)。
 上畑野川では、村落共同体の末端組織である小組のことを「株」と呼んでいるが、岩川組は5株にわかれている。**さんは岩川組(小部落)(町内会)に属し、さらに上株に属している。
 **さんは、まず、上畑野川における村落の成り立ちと仕組みについて「大字の代表は『部落総代』と呼ばれ、組長を集めて『部落会』を開き部落全体(大字)のことについて協議します。住吉神社の『宮総代(みやそうだい)』と善通寺の『寺総代(てらそうだい)』(神社・寺院共に責任総代4名、各組総代1名)は、組長とは別に選ばれます。組長は各組の世話とまとめをしますが、町内会長を兼ねて町行政の末端機能の役目を果たしています。」と語っている(写真3-1-9参照)。
 従って、部落における組や小組の成り立ちについては、前述したように、上直瀬では組長は町内会長を兼ねてなく、小組(丈)のまとめ役の「伍長」が町内会長をしており、地域によって村落共同体における組や小組の成り立ちと仕組みに違いがあることがわかる。

 (イ)組の付き合いと伝統行事の変化

 「今日では隣近所の『株』の付き合いも冠婚葬祭くらいになりました。戦前では株内に小さい『ほこら』があり、株内のみんなで共に祭って会食などをしていました。また、その『ほこら』には土地も付随しており、その土地で作った物を基にして祭っていたのですが、戦後の農地改革で土地が持てなくなったこともあって最近では行わなくなりました。」「葬儀についても、隣近所の組内の者が料理など手伝いますが、生活改善で弔旗、布の旗など作らなくなりました。今日では葬儀屋に任せますが、しかし、今でも小さい花や花立、花龍、張りものなど葬具の小道具類は組内で作ります。」と戦後の生活改善によって部落や株の伝統的な共同生活が変化してきた様子を語っている。

 (ウ)今日に伝わる「お日待(ひま)ち」と「お般若(はんにゃ)さん」

 組の行事では、「岩川組には『釈迦堂(しゃかどう)』とよばれる公会堂があり、享(きょう)保ころ(18世紀前半)より釈迦如来を祭っていましたが、今は片隅にあるくらいです。また、かつては行っていた『雨乞(あまご)い』とか『山の口明け』や『鬼の金剛』もやらなくなりました。
 今日行っているのは、正月の『お日待ち』と土用祈禱の『お般若さん』の行事です。お日待ちは、昔は当屋(とうや)(当番)が料理を作り夜どおし会食を楽しみましたが、今は生活改善により組費用で料理を取り寄せ昼の会食にしています。お般若さんは、夏の土用にお坊さんと共に般若経を入れた般若箱をかついで各家々を回りお経を唱えていました。各家々では家族が般若箱の下をくぐって魔除けのまじないをしましたが、現在は公会堂でお坊さんが般若心経を唱えるだけになりました。」とここでも組の伝統的な共同行事が、戦後における生活改善の合理化や生活スタイルの変化によって変容した様子を語っている。

 力 萱屋根農家と共同生活の営み

 (ア)「久万高原ふるさと旅行村」の萱葺き民家~久万町の文化遺産

 久万町では、伝統的な萱屋根の家を久万町の指定文化財として保存するため、写真3-1-10のように久万町内の典型的な萱葺き屋根の民家(上畑野川の石丸家、下直瀬の渡辺家など)を解体して「ふるさと旅行村」に移築し一般に公開している。**さんは、これらの解体作業と移築工事の現場責任者を務めた。
 **さんはこの移築工事について、「萱屋根の解体作業は大変危険で、屋根の合掌組みは縄を切ると崩れやすいのでいつもヒヤヒヤしました。もう一つの苦労は材料の萱の不足で、地元では工面できず大部分は美川村の萱に頼り、10tトラックで十数台分のカヤを運び使用しました。」と移築当時の苦労の思い出を語っている。

 (イ)今日に生きる上畑野川の萱葺き農家

 上畑野川地区は、上浮穴郡の中でも萱屋根の家が残っている代表的な地域の一つといえよう。その中のかなりの萱屋根はトタンで覆い、今日、萱屋根そのもので残っているのは数軒となった。写真3-1-11は、明杖組の**さんの萱葺き家であるが、その間取りの特色は縦4間、横10間の40坪の一軒屋の屋内に牛馬駄屋と作業場を取り入れ、住居部分と一体化した代表的な萱葺き農家である。

 (ウ)「萱もやい」の助け合い~部落最大の共同作業

 萱屋根にとって第一に必要なものは材料の萱の確保であった。従って、山村には必ず公有と私有の萱場があり、部落の公有地(入会地)では組の人々が共同で萱場を維持管理して萱の自給に努めてきた(写真3-1-12参照)。
 **さんは、部落最大の共同作業である萱屋根替えの「萱もやい」の作業の準備、手順、苦労について、次のように語った。
 「まず、屋根替えの順序は、年末の『組寄り』(上直瀬では『堂ごもり』という)において翌年の屋根替えの家を決めました。秋には組のみんなで萱場の萱を刈り、一抱えの束(一しめ)に締めて立てて乾かした後、翌春2・3月に屋根替え予定の家へ運びました。この作業は『萱下ろし』といいます。萱を移した後の萱場は3月ころ、組中総出で火入れをして山焼きをしましたが、その後には自然と萱が生えてきました。その後、瓦屋根の普及とともに萱場は植林されて無くなりました。」
 「また屋根替えの時期は、3・4月ころの農閑期に行いました。昔は、屋根替えは25年から30年程度を目安として一度にやったそうですが、私の経験では萱が十分無い場合大きな家は家に合わせて片屋根ずつ葺いたりしました。萱屋根の厚さは裾(すそ)ほど厚いので、屋根職人が3尺とか4尺とか厚さを決め、屋根職人の指揮のもとに長い萱、短い萱により分けて共同作業で行いました。従って萱屋根は相当の重量になります。屋根職人は各部落に数人おりましたが、中島や広島方面からも来ていました。屋根職人にはかなりの手当を支払いましたから屋根替えの費用の準備は大変だったようです。」
 「萱屋根は古萱も使えるものは全部使います。母屋は新萱と古萱を織るように葺いて上ります。古い萱は何回も使われ百年も使われているため真黒で中心が白いくらいです。ですから作業は大変であり、夕方は黒人集団の作業場のようで顔は目と歯が白いだけで作業員も互いに顔を見合って笑ったものです。」
 「特に屋根替えの作業は部落最大の共同行事で、組内の各家から手伝いに出ることを『萱もやい』(『屋根こうろく』とも呼ぶ)といいますが、組内の各家が米1升と50ひろ(100m位)の縄を準備して屋根替えの家へ持ち寄りました。萱屋根は縄で固めているようなものです。次の自分の時には持って来てもらうわけですからお互いの助け合いというところです。また、個人の萱は屋根替えに備えて自分の家の天井裏に蓄えましたが、年をへてススけた萱ほど強いものです。」と部落最大の共同行事である屋根替えは、部落の人々の協力なしでは不可能であったことを強調された。

 (エ)「萱講(かやこう)」の助け合いから「瓦講(かわらこう)」へ

 以上のように「萱葺きの屋根替えは村落生活では大仕事であり、屋根職人の手当など大変な費用がかかったので萱講という頼母子(たのもし)が行われました。組内の10人前後くらいで作りましたが、相互扶助の意味で萱屋根の家以外の人も加入していました。しかし、その後漸次、萱屋根から瓦屋根に変わって来ましたので、萱講も瓦講(かわらこう)に変わりました。瓦講は昭和24・5年ころから始まり、昭和34・5年くらいに終わったようです。」と萱講・瓦講が果たした村落の共同生活における経済的な相互扶助の役割について語っている。

 (オ)萱葺き民家の生活の良さと味わい

 現在、上畑野川地区の東明杖組(**さんの隣りの組)において萱葺き家に住んでいる明杖農家生活改善グループの**さんは、「私の家の草屋根は葺いてから30年くらいたっていますが、なんと言っても草屋根の魅力は夏はヒンヤリと涼しく、冬温かいことです。松山の孫たちも喜んで夏休みなどにやって来ます。そろそろ屋根を葺き替えるころですので、自分の家の萱場で刈った萱を少しずつ束にして屋根裏に蓄えていきよります。」と萱葺き家の生活の良さと味わいをたたえている。

 キ 上畑野川の農民俳句~山村に一大俳句郷を形成

 (ア)江戸時代の俳額奉納

   「入月を招く踊りの手ぶりかな」 尾白(びはく)

 今日、上畑野川の総河内(そうこうち)神社(金刀比羅(ことひら)神社と合祀)の拝殿の正面には、安政3年(1856年)上畑野川の農民たちが奉納した百句にのぼる2面の大きな俳額が掲げられている。この俳額は、松山藩の家老で俳人であった奥平鶯居(おくだいらおうきよ)(*5)が点者となって奉納したもので、農民俳諧の地方的師匠であった河之内の稲田尾白はじめ上畑野川の人々の俳諧が残されている。
 この安政3年の俳額より80年前の安永5年(1776年)には、写真3-1-13のように下畑野川の住吉神社に俳額が奉納されたが、百句中に畑野川の者が9名、29句が奉納されていることからも早くから畑野川地方において俳諧が盛んであったことがうかがえる。
 また、慶応2年(1866年)には、写真3-1-14のように相原如江(あいばらじょこう)選による50句の俳額が掲げられている。更に、奥河之内八社大明神に1面と年号不明の俳額など計4面の奉納俳額があり、畑野川地方は江戸時代から俳諧が盛んであったことを物語っている。

   「蝶々の踏みこぼしけりけしの花」 尾白

 (イ)明治以降の俳句全盛期と伝統
       ~部落こぞって発句(ほっく)を楽しむ

 さらに、明治20年から30年代には農民俳句の全盛期を迎え、明杖の**さん方の25冊はじめ上畑野川の4軒の農家には計35冊の俳句帳が残されている。これらの俳句帳には70人にのぼる農民俳人の名が記されているが、当時、上畑野川で部落費を納めていた戸数が120戸であったことから、部落全体がいかに俳句創作に熱心であったかがわかる。それも組の「寄り合い」の機会に句座を開き発句をみんなで楽しんだようである。更に、師匠の選を受けた句が返ってくると「巻開(まきびら)き」と称して、組の寄り合いなどを利用してお互いに発表したりした。
 今日においても上畑野川では俳句が盛んで「草の花」と「せせらぎ会」という二つの俳句会が活動している。また、平成4年には石丸亨さん、渡辺一夫さん、山内照子さんら上畑野川の21人による21句の新しい俳額が、江戸時代から俳額奉納の由緒深い上畑野川の総河内神社(金刀比羅神社)に奉納された。

   「秋風や三坂越ゆれば瀬戸の海」 宇治原草積(平成4年奉納俳額より)

 **さんは「江戸時代から苦しい農民生活の中で多くの農民が俳句をよんできたことは、当時の土畑野川の人々の心のゆとりと文化水準の高さを示すもので頭が下がります。」と語っている。この畑野川の農民の寄り合いなどを舞台に咲いた発句の花は、山村における地方の生活文化史の上で特筆すべきことであろう。

 ク 農村青年の文化活動の花~上畑野川の「二葉倶楽部(ふたばくらぶ)」と社会教育の土壌

 米作、畑作、林業を中心とした純然たる山村の上畑野川において青年たちが文化に目覚めたのは、社会・経済・政治の変動期である明治の終わりから大正にかけての時代であった。
 前述のように、すでに上畑野川では江戸時代から村あげて俳諧・俳句をたしなむという豊かな文化的土壌の伝統に恵まれていた。
 上畑野川における青年たちは、明治から大正・昭和にかけて、次のような文化グループを結成し、農村文化活動を積極的に展開した。

  (ア)水月会
     明治末から大正元年(1912年)にかけて稲田慶雄を中心に組織し、習字・読書・作文・珠算・俳句・詩吟などを
    自学自習に励んだ。
  (イ)専修倶楽部
     水月会はその後「専修倶楽部」と改称し、演説・討論・娯楽・演劇会・試胆会などを加え活動を盛り上げた。
  (ウ)二葉倶楽部
     青年たちの文化活動は大正5年(1916年)以後一度中止状態であったが、大正9年(1920年)再び活動を開始し
    て「二葉倶楽部」と改名した。この会は月に3回の会合を開き、「二葉の園(その)」という手作りの会誌を発行した。
    大正11年(1922年)から謄写版刷(とうしゃばんず)りの会誌となり、昭和3年(1928年)、第49号まで発行され
    た。しかし、二葉倶楽部の活動も昭和7年(1932年)の演芸会をもって終止符を打った。

 このような上畑野川地区における燃えるような農村青年の文化活動について、上畑野川公民館発行の『開館30周年記念誌上畑野川』は、次のように述べている。
 「この畑野川に生まれた二葉倶楽部は、山村青年の自主活動として、特に時代の経済・思想の大きな転換期において、彼ら青年たちがいかに悩み耐えて来たかその内面の深い苦悩から希望の光を見出そうとしたか、そうした心情から生まれた素朴ではあるが、民主的自由欧化の風潮が脈々として流れており、この時代としては特異な存在ですばらしい事柄であったと思う。(③)」
 **さんも「この二葉倶楽部のすばらしい伝統は、戦後における上畑野川の青年団活動に引き継がれ、青年たちの心のよりどころとなりました。上畑野川青年団による青年会館建設の運動が、やがて上畑野川の公民館建設へ発展しました。」と上畑野川の青年の先輩たちが築いた文化活動の伝統が、第二次世界大戦後の畑野川地区における活発な社会教育活動や意欲的な村づくり活動の母胎となったことを語っている。


*5:文化6年(1809年)生まれ、本名は貞明で松山藩筆頭家老、俳諧の宗匠として活躍し、大原基戎(きじゅう)と共に伊子
  俳諧の双璧といわれた。明治23年(1890年)死去。句集に「梅鶯集」がある。

写真3-1-8 上畑野川地区の景観

写真3-1-8 上畑野川地区の景観

平成5年12月撮影

写真3-1-9 上畑野川地区の氏神、総河内神社金刀比羅神社と合祀

写真3-1-9 上畑野川地区の氏神、総河内神社金刀比羅神社と合祀

明治初期の合祀(ごうし)までの長期間、上・下畑野川村の総鎮守であった(石段は195段)。平成5年12月撮影

写真3-1-10  「久万高原ふるさと旅行村」の萱屋根農家

写真3-1-10  「久万高原ふるさと旅行村」の萱屋根農家

松山藩の山城官が藩有林(現国有林)を巡視する際に宿泊所とした民家で、この地方では最も古い由緒ある萱葺き家である。(上畑野川、石丸家より移転)。平成5年12月撮影

写真3-1-11 上畑野川地区の萱屋根農家

写真3-1-11 上畑野川地区の萱屋根農家

牛馬駄屋、作業場と住居部分が一体となった民家建築面積132m²。平成5年10月撮影

写真3-1-12  萱場で刈った後の萱束(東明神地区)

写真3-1-12  萱場で刈った後の萱束(東明神地区)

平成5年10月撮影

写真3-1-13 下畑野川、住吉神社奉納の俳額(安永5年、1776年)

写真3-1-13 下畑野川、住吉神社奉納の俳額(安永5年、1776年)

奉納百句、中山五嶺選(松山俳壇の指導者)。平成5年12月撮影

写真3-1-14 上畑野川、総河内神社(金刀比羅神社)奉納の俳額(慶応2年、1866年)

写真3-1-14 上畑野川、総河内神社(金刀比羅神社)奉納の俳額(慶応2年、1866年)

奉納五十句、相原如江選(久万俳壇の指導者)。平成5年12月撮影