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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)小田町の「山の神の火祭り」と町づくり

 ア 小田町の伝統的共同生活の成り立ちと営み

 (ア)小田郷の歩みと小田町の成立

 小田郷と呼ばれた小田地方は、古くは浮穴郡広奴田郷太田山(ひろぬたごうおおたやま)(小田山(おだやま))とも呼ばれた。
 近世時代にはいると小田郷は、戸田勝隆・池田高祐・脇坂安治の支配を経て、元和3年(1617年)加藤貞泰の大洲領となった。その後、大洲2代藩主加藤泰興(やすおき)は弟直泰(なおやす)に1万石を分知して新谷(にいや)藩を作り、小田郷のうち上川(かみがわ)村・町村(まちむら)・立石(たていし)村(いずれも現小田町)が新谷藩領となり明治に及んだ。
 江戸時代の大洲藩・新谷藩領の小田郷は「小田を見るなら、八ッ松ござれ、小田の五千石、みな見える…」と歌われ、今日の小田町・広田村・河辺(かわべ)村合わせて19か村であった(実際の石高は4,700余石(⑦))。
 その後、明治時代になり、明治22年(1889年)の町村制の実施により参川(さんがわ)村・小田町村・石山村・田渡(たど)村・浮穴(うけな)村が誕生した。
 昭和18年(1943年)4月には、石山村と小田町村が合併して小田町村となるとともに、浮穴村は廃止となり、その中の北平(きたひら)と川上は河辺村に編入されて喜多郡へ、小屋(こや)は東宇和郡惣川(そうがわ)村へ編入された。
 昭和28年(1953年)の町村合併促進法により、昭和30年3月、参川村・小田町村・田渡村が合併し、今日の小田町が誕生した(図表3-1-14参照)。

 (イ)小田町の村落の成り立ち

 小田町の村落共同体は、図表3-1-14のように旧村にあたる13の大字と各組(部落・集落)から成り立っている。
 小田町の基本的な村落の構成は、大字の集落⇒各組(小組)⇒近隣組となる。近隣組は、伍長組・五人組・十人組と各集落によって呼び方が異なっている。大字の代表は大字総代または地区総代と呼ばれ、小組の組長はほとんどが嘱託員(一部は常会長)と呼ばれている。

 イ 山の神の火祭りの営み-寺村(てらむら)地区あげての共同行事

 (ア)山の神の火祭りの起源~百八灯の伝統行事を基に

 今日、上浮穴地方の代表的な夏の風物詩として有名な行事となっている「山の神の火祭り」は、小田町大字寺村地区における伝統的共同行事である(写真3-1-20参照)。
 **さん(小田町教育委員長)の話によれば、山の神の火祭りの起源は文政6年(1823年)に始まり、今年で170年目を迎えるという県下でも大変珍しい伝統行事である。
 古くから寺村の六角山(ろつかくさん)(標高約325m)の頂上に山の神の祠(ほこら)があり、寺村の人々は毎年、旧7月20日に百八灯の「おひかり」を灯して山の神を迎え、山の幸と秋の豊作を祈願した。山の神には、大山祇(おおやまずみ)神の娘である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)をあてて祭っている。山の神は、春先には村里に降りて田の神となり、秋に収穫が終わると山へ帰って山の神となるという山村の人々の信仰である。
 また、寺村では山の神とともに火防(ひぶせ)、火よけの神である「愛宕さん」を同時に祭っている。愛宕さんの信仰行事は、先に柳谷村立野の項で述べたように山村の各地において盛んに行われている伝統行事である。
 これらの行事を準備し運営する当番(とうばん)の代表を「宿(やど)」というが、「宿」の人は火祭りに関する主なこと(当番者の名前や火祭行事の費用など)を記録した書類を「当番帳箱」に入れ次の宿に引き継いだ。この「当番帳箱」は、文政6年(1823年)から170年にわたり保存され、連綿と引き継がれてきた。

 (イ)山の神の火祭りの当番と運営

 山の神の火祭りの行事は、小田町寺村の林慶(りんけ)(18世帯)、新田(にいだ)(22世帯)、堂村(どうむら)(14世帯)、中通(なかどお)り(52世帯)の4部落が輪番に準備と運営を担当してきた。現在は中通りが3班に分かれ、6年で一巡している。当番は各部落全世帯で構成し、代表は「宿」、連絡係を「ふれかた」といわれている(世帯数は行事参加の実世帯数を示す)。
 平成5年度の当番は新田組の担当であったので、次のような「宿」と当番の主な方々から山の神の火祭り行事の準備と運営について話を伺った。
 以下、聞き取った事柄を中心としてまとめてみた。
 **さん(山の神火祭り保存会初代会長 大正11年生まれ 71歳)
 **さん(火祭り当番の宿 大正12年生まれ 70歳)
 **さん(火祭り当番 昭和23年生まれ 45歳)
 **さん(火祭り当番 昭和24年生まれ 44歳)
 **さん(火祭り当番 昭和32年生まれ 36歳)

 (ウ)火祭りの思い出と行事の活性化

 「宿」の**さんは、今から55・6 年前ころの思い出として「私が高等小学校の2年生ごろでしたが、父の代理として初めて火祭りに参加しました。その日(旧暦7月20日)の午後、柄鎌を持って山に登り、山の上のほこらを掃除して念仏を唱えた後、オコモリ(会食)をしました。日暮れ前にみんなで1間くらいの木を108本切って帰り、山の下で結んで肥え松(松の木の古い切り株の根っこを小さく割って燃料としたもの)に火を灯して解散しました。」と昭和初期における素朴な山の神の火祭りの営みを語っている。
 このように火祭りは、伝統的に毎年、旧暦の7月20日に寺村の部落の行事として行われてきたが、昭和51年(1976年)から小田出身の帰省客でにぎわう8月15日に盛大に行うようになった。すなわち、これまでの寺村の部落行事から小田町の観光行事の目玉へ発展し、「町おこし」の役割を担うようになってきた。
 火祭りの当日に六角山の斜面に描く火文字は、最初は「山」の一字であり、高さ2mほどの木の棒や竹を立てて、ジュースなどの空きの缶に灯油を入れて火を灯して吊るすようになった。やがて火文字は「山」から「山ノ神」となり、昭和58年ころから火文字の字型が現在のように大きくなった。更に、「山ノ神」の火文字の下に火模様のサブタイトルを描くようになり、平成4年度は、170年の火祭りの歴史を記念して「170年」という火文字のサブタイトルを10mの横幅で描いた。

 (エ)火祭りの計画と準備~組の人々の特技、持ち技を発揮して

 平成5年度の運営にあたっては、火文字と火模様が火祭り行事のメインであり、その出来不出来が行事を左右するので、まず、デザインと準備に当番の全力を投人した。
 当番の**さん、**さん、**さんは、計画と準備について次のように語った。
 「今年の計画は、平成5年2月からスタートし、その後の役員会で繰返し検討を重ねました。火祭りのメインである火文字は『山ノ神』、火模様の図案は『瀬戸大橋』とし、火祭りとしては過去最大のデザインにしました。まず、『瀬戸大橋』の図案の基本設計図を作りましたが、幅70m、高さ5mと思い切って大きいスケールで構成しました。
 オヒカリは、缶に灯油をいれ、更にシンをいれて作りますが、今回は、『山ノ神』の火文字用に600灯、『瀬戸大橋』や船の火模様用に1,300灯、周辺の道路や橋に2,000灯、予備をふくめて合計4,000灯あまりを準備しました。灯油はドラム缶で4本ほど使いました。」
 「火文字用の缶をつるすための足場組みは、7月にはいって日曜日ごとに行い7月25日に終わりました。更に、ワイヤーを8月1日に張って準備を完了し、その日に点火のリハーサルをしました。火文字や図案用のポイントのすべてに実際に火を灯して、火にムラがないように修正しましたが、シンを作り直すのに2晩ほどかかりました。やはり、本番に備えたリハーサルを行って良かったと思いました。」と火文字や火模様の設計に始まり足場の組み立てや灯油缶を吊るす作業、更に、本番に備えたリハーサルと念入りに計画と準備を重ねた苦労を語っている。
 このような若い当番の人たちの取り組みについて、「宿」の**さんは、「新田組には30代、40代の若い人が多いので、若さのセンスとパワーを発揮してしっかりした計画を立て準備を組織的にやってくれました。若い人たちは、自主的に仕事を分担して責任を持って黙々とやってくれましたが、本当に若い人たちのひたむきな態度に感心しました。中に足をひっぱる者がおれば、これほどまでにはやれません。世間には一般的に、近頃の若い者は…などと非難する人もいますが、なかなか立派なもので大したものです。」と3・40代の世代の活動ぶりをたたえている。更に、**さんは、「火祭りの当日は、朝から準備や灯油缶の火付けなどに組の人々が総出で取り組んでくれます。また、お盆で寺村に帰省した人々も参加して応援してくれました。」と地域を挙げて火祭りに取り組む積極的な姿勢を語っている。
 山の神火祭り保存会初代会長の**さんも「このように組の人たちみんなが組織的に協力してやれるのは、『地域の人々が安全に生活できるには、山の神にオヒカリをあげて豊作をお願いしたお陰である』という信仰心と山の神の火祭りを保存継承しようとする熱意、更に、地域の伝統的な相互扶助の心が皆さんを支えているからでしょう。」とふるさとに伝わる伝統行事に対して、地域の人々が共同生活の助け合いの精神に基づいて取り組んでいることを強調している。

 ウ 火祭りの本番~オヒカリのショーと花火の祭典

 (ア)愛宕さんのお祭り

 まず、8月15日の火祭りの前の8月11日には、愛宕さん(標高約300m、小田高校の東南)のお祭りをする。
 このお祭りについて**・**・**さんは、「組の人々が、朝6時ごろ山に登って愛宕さんの祠(ほこら)の前にお神酒(みき)・さかなをお供えし、鉦と太鼓に合わせて『ナムマイダブツ、ナムマイダッポー』とお念仏を21回(10回と11回)唱えます。昔は108回唱えたそうですが、今は大分簡略化されました。その後、みんなでお神酒を汲み交わして下山します。」と愛宕山のお祭りを語っている。
 なお、愛宕さんの信仰は小田町においても盛んであり、寺村はじめ町村・田渡・立石・上川・中川など小田町内各地に愛宕さんがまつられている。

 (イ)山の神を迎える-火祭りのスタート

 8月15日の当日は、山の神を迎える儀式を行う。引き続いて前記の皆さんに話をうかがうと「当番の者は全員で寺村の南にある六角山の頂上に登り、山の神の石碑の周辺を掃除し祭壇を設けてお神酒やさかなをお供えします。ろうそくに火をつけ、みんなが車座になって鉦や太鼓をたたきながら念仏を唱え、山の神の下山を請うのです。この後、太陽が沈むと灯油の缶に点火していきます。
 昨年から点火式には寺村公民館が関わりをもち、小学生(4・5・6年生)が20人ほど参加し、火を持って山を下るようになりました。これも地域の大事な行事に児童も参加するという意味から行うようになりました」と文字どおり地域が一体となって山の神の火祭りに打ち込んでいる様子を語っている。
 このようにして太陽が沈むころになると、六角山の真下の山の斜面を中心として、まず、「山…ノ…神」と順番に600灯の火がともり、あざやかに火文字が浮かび上かってくる。続いて、今年の火祭りの目玉である「瀬戸大橋」のスケールの大きい火模様のブリッジや船が1,300灯によって順番に浮かび上がり、大勢の参観者から一斉に「うわあーきれい」、「まあーすてき」の歓声がわき上がる。
 同時に、山の下の周辺のたんぼのあぜ道や道路の両端、橋の上など縦横に点火され、山里全体がイルミネーションのショーの祭典となる。
 やがて、午後8時ごろから恒例の花火大会となって豪華な花火が打ち上げられ、けんらんとした光のシャワーが小田盆地に降り注ぎ、花火の音が山々の峰にこだましていく。まさしく幻想的な真夏の夜の夢の世界に誘われた気分に浸った。

 (ウ)火祭りのイベント~歌って踊って盛り上げる

 火祭り当日、寺村のJA小田町本所横の広場では、今年創設された喜鼓里(きこり)太鼓の力強い響きを若者が披露し、演芸大会と盆踊り大会がはなやかに行われ、にぎやかに夜市も開かれて火祭りを大いに盛り上げた(写真3-1-26参照)。
 それぞれのイベントも、「夜市」は寺村夜市の会、「盆踊り」は青年団、「カラオケ大会」は公民館、「花火」は山の神火祭り保存会、「接待」は婦人会というように各種団体が行事を分担し協力しあって運営している。ここにも伝統的な共同生活の助け合いが今日の各種イベントに受け継がれ生かされていることがわかる。
 なお、数年前から伊予鉄バスが「小田の山の神の火祭り」の団体観光客を募集し、バスツアーを組んで火祭りの観光を楽しんでいる。
 今年も8月15日の夕方、バス1台の観光客が小田町寺村を訪れたが、観光客は異口同音に「想像以上にすばらしい山の神の火祭りの光景」と光の祭典を満喫して帰ったようである。
 以上述べたように、小田町寺村地区においては、170年にわたり伝統的な共同行事を営々と継承し、更に創意工夫を加えて活性化の努力を積み重ねて上浮穴郡における代表的な行事となっている。

 (エ)火祭り行事の今後の課題

 **さんと**さんは、山の神の火祭り行事の今後の基本的な課題として「山の神の火祭りをますます発展させるためには、小田町役場をはじめとして小田町商工会・森林組合・一般有志の方々の後押しがこれまで以上に必要です。寺村地区中心の火祭りのイベントではなく、小田町全体の火祭りとして盛り上げてほしいと願っています。」と語っている。
 今日、小田町は町の活性化のために様々なイベントや施策に取り組み、意欲的に展開しているが、「山の神の火祭り」についても町当局と全町民が一丸となり、地域全体の一大イベントとなるよう小田町の地域挙げての一層の支援と寺村地区の連帯感にあふれた皆さんの更なる活躍を期待したい。

図表3-1-14 小田町の集落(組)一覧表

図表3-1-14 小田町の集落(組)一覧表

小田町役場資料より作成。( )の数字は世帯数を示す。(平成5年10月現在)

写真3-1-20 小田町寺村地区の景観

写真3-1-20 小田町寺村地区の景観

平成5年12月撮影

写真3-1-26 火祭りと共に盛り上がる演芸大会

写真3-1-26 火祭りと共に盛り上がる演芸大会

JA小田町本所横広場。平成5年8月撮影