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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)名医を必要とした山のくらし

 **さん(柳谷村柳井川 昭和4年生まれ 64歳)
 **さん(松山市北井門町 昭和4年生まれ 64歳)
 **さん(柳谷村柳井川 昭和6年生まれ 62歳)

 ア 柳谷村の吉村医院を訪ねて

 松山駅からJRバス「なんごく号」で約1時間30分、高知県境に近い落出(おちで)停留所で下車すると、仁淀(によど)川に沿って急斜面にへばり付くように家々が並んでいる。バス停から少し戻った国道沿いに、吉村医院が建っている。『上浮穴郡に光をかかげた人々(①)』の中に、「予土国道開通によって、落出部落ができ、この地域の中心となった。そこへ、当時としては上浮穴でも1、2軒しかなかったという、鉄筋コンクリート2階建ての病院を建築し…。」と記述されているとおり、どっしりとした風格の構えである(写真3-2-1参照)。現在上浮穴郡医師会会長を務めている院長の**医師から、上浮穴郡の医療全般とその変遷について話を聞いた。
 「上浮穴地域の医療もずいぶん様変わりしました。以前は全体に所得も低く、社会保障制度も充実していなかったので、当時の医者はすべて、いわゆる『赤ヒゲ』的な存在で、地域の医療を支えてきたと思います。当時の苦労を知っておられる医者も何人かは御存命ですが、ほとんどの方は故人になられました。」と語り、地域医療の先駆者として何人かを挙げていただいた。その中に、吉村孫吉医師の名前があった。**さんは吉村孫吉翁の息子さんで、親子2代にわたって上浮穴郡の医療活動に携わってきた。
 『柳谷村誌(②)』によれば、「わが村で開業した医師・歯科医師一覧」として17人が挙げられ、その中に「吉村孫吉、明治43 (1910)年、高知県高岡郡窪川町仁井田から雇い入れられ、落出で開業。仁道篤く人格徳望極めて高く、人々から慈父のように尊敬された。昭和32 (1957) -6 -22、令息とともに謝恩歓迎会を受く。昭和37 (1962) -12- 2、逝去を悼まれ、柳谷村葬を以て敬弔される。」と記載されている。『上浮穴郡に光をかかげた人々(①)』にもその功績は記載されているが、「自分の身内を自慢するようになってはいけないので…」と控えめに語る**さんの口調は、先駆者である父の功績に対する思いと、跡を引き継いだ強い責任感が感じられる。
 そこで、吉村孫吉翁のもとで看護婦として働いていた**さんと、孫吉翁の時代から現在に至るまで吉村医院に運転手として勤務している**さんを紹介してもらい、孫吉翁にまつわる話を聞き取ることにした。

 イ 医師を支えた山の看護婦さん

 **さんは柳谷村柳井川の出身で、**さんと同級の幼なじみでもある。父が吉村医院の車夫をしていた関係で、小さいころから医者の白衣に憧(あこが)れていたそうだ。
 「父は川が好きで、往診のない時でしたら比較的自由に過ごせましたので、夏などはよくアユ掛けに出かけていたんです。ただし、先生が往診に出掛ける時は、夜昼関係なく呼びに来られますから、子供のころ、川原まで父を呼びによく走ったのを覚えています。普通の往診には看護婦さんはついて行かず、人力車に孫古先生を乗せて父が引いていきました。今と違って、当時はずいぶんたいへんな道だったと思います。人力車の入れない所へは、孫吉先生自身が馬に乗って往診に出かけていました。」と、子供のころの思い出を語ってくれた。
 子供のころの生活といえば、戦争中は、お勉強はしやしませんでした。男の子も女の子も学校から山へ出掛けて、焼畑にお大豆まいたり、小豆まいたりしたところを打ったり(=耕す)、炭を出したり、丸太を山から下に降ろしたり、そんな生活でした。夏休みには、五段高原へ行く道筋の草を刈って馬のために干し草も作りました。私たちは「ハド、ハド」言いよりましたけど、コウゾみたいにすごく伸びたのを山の深いところへ行って取って帰り、皮を剥(は)いで川へ漬けておいて、チャンチャン、チャンチャンたたいて皮だけにして、乾燥させたものを1貫目、それが夏休みの宿題で、学校へ持っていったりもしました。
 昭和3年(1928年)~5年生まれくらいの者は、みんな哀れですよ。修学旅行の「シュウ」の字もありませんでした。遠足は履き替えのわら草履を持って、高知県境の方へ行っていました。祭りといっても秋祭りくらいだし、久万まで出ることもめったになかったのですが、岩屋寺の縁日も全部歩いて行ったものです。
 楽しい思い出といったら、お節句にお弁当作ってもらって、よその田んぼに行ってれんげをむしって怒られたことや、陣取り、隠れんぼ、夏は1日落出の川で泳いだり、石を並べて家を作って、石を粉に砕いてままごとしたり、そんな遊びをしていたことですかねえ。

 そんな子供時代を過ごした**さんが、どうして看護婦になったのか、そのきっかけなどについて尋ねてみた。

 私たちが育った戦時中は、皆さん、「一人でも多く、お国のために…」という状況でした。私は、お国のためにといっても軍人になれないので、幼いころから憧れていたこともあり、女性として尽くせる看護婦になろうと思いました。(尋常高等小学校の)高等科2年卒業の時に、担任の先生の妹さんと二人で、見奈良(温泉郡重信町)にある国立療養所の看護学校を受験しました。結核の療養所だったので母は反対しました。近所に結核の人が住んでいたからか、ツ反(ツベルクリン反応)もしょっぱなから陽性でしたので、私自身は抵抗はありませんでした。それまで松山に出たことはなく、初めて三坂を下りました。
 昭和18年(1943年)からの3年間、看護学校6期生として見奈良で過ごしました。午前中は実習、といっても見習いで患者さんの世話をし、午後3時間くらい勉強をする毎日で、解剖実習などもろくにできない時代でした。1期上の先輩は従軍看護婦として出ていきましたが、私たちは終戦を迎えたので柳谷村に戻り、家で2、3か月過ごしたあと、吉村医院に就職しました。数えの18歳の時です。
 就職した当時は内科が主でしたので、「外科の患者が来ると、**がひっくりかえる。」と、孫吉先生によく笑われました。瘭疸(ひょうそ)の爪をのけるだけでも気分が悪くなっていましたから。山仕事でけがをして、足を切ったり、ペローンと骨が見えたりする患者さんが来るたびに、「外科の看護婦にはなれないなあ。」と思っていました。
 就職して2、3年目のことだったと思います。普段静かな柳谷村で警察ざたの事件があって、追いつめられた犯人が草むらへ逃げようとして、高いところから川へ落ちて死んだことがありました。吉村医院の処置室に犯人の遺体が運びこまれ、警察医が来られて、司法解剖したのをよく覚えています。初めて解剖を見せてもらったのはこの時で、それ以後だんだん慣れて外科の患者さんも怖くなくなりました。それでも、林業の関係か山仕事でおすねがバアーッと開いたような人や、柄鎌(えがま)や鉈(なた)が突き刺さったままの人が来るので、びっくりすることはよくありました。
 当時、吉村医院には、孫吉先生のほか、看護婦が3~4人、レントゲン技師、車夫、書生さんがそれぞれ1人ずついました。医院自体の休みがほとんどなく、従業員はもちろん、孫吉先生も休みは月に1回程度でした。肺炎の患者さんが入院されると、夜も3~4時間おきにペニシリンの注射をするんです。翌日はまた普通どおりの勤務でしたが、それでも生きがいを感じていましたねえ。
 当時の生活を思い出しますと、食事は、トウモロコシ入れたり、麦混ぜたりで、サツマイモの配給は仁淀川の川向い(=対岸)まで取りに行ってました。月に一度の休みには母の所へ米をもらいに行きよった。落出にもちょっとした店はあったと思いますが、魚は高知の大崎から魚屋さんが来よいでました。煮炊きはまだ、かまどでしたから、まきも自分でこしらえるんですよ。落出のはずれにあった製材までリヤカー引いてもらいに行ってました。

 食事の話が出たところで、当時のこの地域の食生活や疾病の特徴などをふり返ってもらった。

 戦後間もない当時の栄養状態は、よくありませんでした。配給に頼るものが多く、また田舎でしたから、消化の悪いものや、しょっぱい保存食が多かったと思います。
 一番怖い病気は結核でした。父も、私が看護学校に入った年の12月に結核で脳膜炎になって亡くなりました。このほか、血圧が高いことによる脳卒中なども多かったと思います。当時は「がん」という言葉はなく、「おなかの中に『こり』ができた。」なんて言いよりました。
 健康の基本となる栄養、特にタンパク質の不足を補うため、孫吉先生は、人々に対して山羊(やぎ)の乳を飲むよう奨励していました。先生御自身も山羊を買い入れ、普及に力を入れていました。
 このことについては、『上浮穴郡に光をかかげた人々(①)』にも次のように記されている。「孫吉は村の人々から、よく『山羊の先生』と言われていた。それはかれが、山羊の病気をなおすというのでなく、口ぐせのように、山羊の乳を飲め、山羊を飼え、とすすめ、自らすすんで山羊を買い入れ、多くの人が山羊を飼えるように便宜をはかったからである。山村の栄養源、病人の栄養には何よりも山羊の乳がよく、また山羊ならだれでもが飼うことができると考えたからである。多いときには柳谷で200頭をこす山羊が飼われていたころもあった。」
 しかし、人々の中にはまだまだ迷信を信じる人も多くいて、各部落に一人はいましたが、「祈禱師(きとうし)」に拝んでもらって病気を治すなど、民間療法も根強く残っていました。「おおごふ」(=護符)いうて、炭みたいなもんをもらってきて飲みよいでる人もおられ、医者より信頼していた人もいるようです。孫吉先生は、「『いのれ、くすれ』ということもある。病は気からとも言うし。」と、冷静に見ておられました。
 先生を頼る人は、柳谷だけでなく、上浮穴郡全体のほか、高知県にまで及ぶ広い範囲におられました。西谷の奥の方からでも、急患が出たら部落の人総出で、雨戸を外した戸板に竹で輪をして(*)、みんなで「やっしゃやっしゃ」かいておいでよったんですよ(*注:にわか作りの担架)。

 **さんに、吉村孫吉翁の人となりを、思い出してもらった。

 自分の信念を強く持つ人でした。私は、父親の代からずっとお世話になっていたので、「**、**」言うて大事にしてもらいました。看護婦とはいってもまだ子供みたいな娘ですから、たまにキャラメル買ってくれたり、お肉を買ってくれたりしたのが印象に残っています。
 とてもやさしい先生で、お酒を飲んでお金のない人でも何でも、そういうことは考えずに治療なさる人でしたので、皆さんの人望も厚かったですねえ。治療代を払えない方もございました。また、薬も思うように手に入らなかった時代でしたから、ジキタリスという薬草(ゴマノハグサ科、別名キツネノテブクロ、強心剤、劇毒)を畑へ植えておいて、葉をちぎって、洗って、陰干しにして乾燥し、はさみで小さく切りまして、「浸剤」いうてお茶葉みたいにして量って、患者さんに出していたこともあります。
 そんな**さんも、しばらく看護婦として勤務した後、昭和25年(1950年)に、仁淀川の発電所に技術者として勤めていた**さんと結婚して、吉村医院を退職した。夫の勤務の関係で面河第2発電所を皮切りに山間部の発電所のあるところを転々とした後、松山に住むようになった。結婚後約20年、子育ても一段落したところで、彼女は再び看護婦として市内の小児科に勤務する決心をしている。「ブランクが長くて自信はなかったんですが、新聞の求人広告を見て、こわごわ応募しました。」と語る。何十年か経って復職した医療現場は、本当に進んでいると驚いたそうだ。「当時の医療に対する知識は、田舎の人はもちろん、私たち看護婦もみんな乏しゅうございましたでしょ。それだけに、孫吉先生がとにかくよーく勉強しよいでたという印象が強うございます。復職後は、そんな孫吉先生の姿を思い浮かべながら、新しい医療技術を学ぶ努力をしたものです。」と、なつかしそうに語ってくれた。
 そして、そんな母の姿を見て育った**さんの長女も、日赤病院勤務の後、今は結婚して東予市で看護婦として働いているという。「4年制の大学に行きたい。」という娘さんの進路決定に際して、**さんは「4年制の大学に行って何を身に付けるの?何か資格を取っといたら、いろいろと役に立つよ。」と助言したそうだが、親心としては労働条件のきつい看護婦ではなく、保健婦がいいと考えていたらしい。「私の思うようにはなりませんでした。」と苦笑しながらも、「大変だけれども、大賛成。」だと言う。
 平成元年、**さんはその小児科の婦長職を最後に現役を退いた。しかし、孫吉翁の教えを受けた柳谷生まれの看護婦魂は、確実に次の世代に受け継がれ、今日に至っている。

 ウ 往診に伴って37年

 **さんは、柳谷にあった大きな製材工場でトラックの運転手をしていたが、吉村医院の運転手が齢(とし)を取りやめることになったので、昭和31年6月から吉村医院で勤務するようになった。幸い戦争にも行かずにすみ、ずっと柳谷で生活してきたという。
 そこで、まず、**さんが吉村医院に就職する前後の柳谷のくらしはどうだったかについて、話を聞かせてもらった。

 戦後の国土開発に伴って、道路が付くし、発電所ができるし、落出もにぎわったころでした。大昔には渡し船、その後吊り橋、コンクリートの橋だったのが鉄橋になったのもこのころじゃあないでしょうか。春、花咲くころには山が黄なあなりよったほどミツマタが多く作られ、造幣局から買いに来よったんです。硬貨が増えて和紙の需用が減ったので、今は作りよる人がありませんが。
 当時は、木も売れて売れて、人口も多く、若い人がもっといました。料理屋が4、5軒並んで、昼でもしゃみ(三味線)の音が聞こえていた時代です。
 実は、私たちが今住んでいるこの家は、もとは大先生(=孫吉医師)の家だったんですが、国道の開通で移転することになり、大先生は新しく建てられ、私たちはこれを譲り受けて、元のように組み直してここに建てたんです。大先生が住まれる前は旅館だったそうです。だから、座敷がこんなに広いし、天井も高いでしょう。
 人の往(ゆ)き来も盛んで、特に高知県との交流は今でも盛んですが、こちらから嫁に行ったり向こうから来たりというのがよくありました。柳谷村でも、高知弁はよく耳にしますし、東京へ行ったら、話し言葉から「あなたは高知出身ですか?」と言われるくらいです。

 **さんが就職した当時は、先代の孫吉医師一人で、**医師は松山の脳外科でインターンをしていた。翌昭和32年、**医師も柳谷で一緒に開業し、37年に孫吉医師が亡くなった後も今日まで、吉村孫吉、**との2代の医師に仕えながら柳谷の医療の変遷を見てきたことになる。そこで、以前の病院を取り巻く状況や孫吉医師の医療活動などについて聞いてみた。

 大先生が人力車で往診に出かける姿は、戦時中ころまで見られました。自分で馬に乗って行くこともあり、飼っていた馬のそばを通って川原まで降りていたのが子供のころの思い出です。もちろん、私が吉村医院に入社した時には自動車になっていましたが、まだその人力車が残っていたのを覚えています。それでも、今ほど道路が開けてなくて、患者さんを戸板に乗せて近所の方がかいて来られよりました。
 国道を挟んで病院の向かい側、現在は駐車場になっている所に、入院用の病室がありました。あのころは、煮炊きするものから、ふとん、夜具、もうみな患者さんが持って来て、付き添いの方が一緒に寝泊まりして、炊事して、患者さんに食べさせていた時代です。
 大先生の思い出話は尽きません。柳谷村(「やなだにそん」と**さんは言う。)の60代、70代、80代のほとんどの人は、大先生に手を握ってもろうとると思います。柳谷村以外にも、県境を超えた別枝村(現在の高知県高岡郡仁淀村)に1週間にあげず往診に出掛けたり、小田町の小田深山でも診療所をやっておられ、月に何回かはそちらへ行っておりました。ほかにも久万町、美川村と上浮穴郡全域にわたって活動しておられましたから。
 そんなわけで、山の果てからでも患者さんがここへ見てもらいに来ます。大先生が、「ここでは手に負えないから、松山へ行け。」と言うことが、時々ありよりました。患者さんはそれほどの金の持ち合わせもないので、口ごもりながら「先生ぇー」と言うと、「うん、わかったわかった、金じゃろうが。またいつでも、あるときに払うたらええけんの。」と言って金を持たせる、肝っ玉の大きい先生でした。国道が拡張するときに先生の家が立ち退いたんですが、蔵の中から、厚さ10cm程の未収帳が5冊くらい出てきました。「誰々、○円○銭」と治療代のつけがぎっしりと書き込まれておりましたが、今の価値に直すと莫(ばく)大なものだろうと思います。患者さんの方も、現金はなくても何かの形で、恩義を返したいと思う気持ちから、「お医者代にはならんけど。」と言って、地アメ(アメノウオ)、トウキビなどを持って来ておりました。
 車での往診の時も、病院を出て少し行くと、あとは歩くのがほとんどというところが多くありました。山道になると、体格のいい大先生を後ろから押し上げるようにして、往診に出掛けておりました。患者の家に着くと、この土地のもてなしはまずお茶です。「先生、よう来てもろた。まず、お茶を。」となります。診察が終わると、その家のふところ具合にもよりましたが、高脚膳でね、おごちそうをいっぱい並べて、「私らの気持ちですけん。」と先生はじめ我々ももてなしてくれました。先生も、「うん。お前らみんなごちそうになって帰れよ。ほじゃなかったら、ここの人に怒られるぞ。」と言って、我々にも勧めてくれました。
 往診の苦労は、大先生ばかりではありません。**先生になってからも、車が入れんところは多く、どんどん歩くぎりです。2、3km歩くのはざらだったです。雪が降っても、大雨でも、とにかく体力がいりました。町のお医者さんとはずいぶん差があります。
 往診についていく私の仕事は、車の運転のほかにもいろいろあります。注射器も今のような使い捨てではなくて昔はガラスのでしたが、重病の患者さんで足りなくなり、七輪で火をおこして、その場でくり返し殺菌をしたこともありました。点滴となると柱から柱へひもを通すとか、いっしょに部屋まで上がって手伝います。そばで聞いておると「先生、あんなに言わいでも…。」と思うようなきついことでも、患者さんの体のことを心配して親切に言っているんだと気付くのです。もう30年の付き合いですけん、患者さんいうたって村内のほとんどの顔を知っとるし、いうたら、家族みたいなもんですよ。それだけに、患者さんの方も先生を頼りきっていることが伝わってきます。

 エ 孫吉翁の遺志を継ぐ

 **先生が開業して間もないころは、「わしゃ、大先生じゃなくちゃいかん。」と言うお年寄りの方もおりました。大先生が、独学で新しい知識を吸収されて来られたように、**先生も近代的な治療に積極的で、「この地域の人の生命は自分が面倒見んといかんのだ。」という使命感を持っていますから、村の住民は皆、先生に頼っとると思います。
 もう30年くらい前になりますか、**先生は、柳谷の奥にある西谷診療所の世話もすることになり、初めのうちは日曜と水曜の週2回、朝から出掛けておりましした。流感がはやって、多いときには西谷で100人くらい、本院で150人くらいいた年もありましたが、予防注射の効果もあって患者数も減少してきましたし、患者さんの出足も少なくなってきたので途中からは、週1回になりました。8、9年前あたりからは、昼からの診察になりました。というのも、「行ったら話し相手もおるし」といって、午後のひとときを過ごすお年寄りがほとんどになってきたからです。
 冬場になると、大雪で行けん時があります。もっとも、その時は患者さんも出て来れませんから。そんな時はカルテを見て、薬を取りに来る患者さんの所にだけ電話をして、中止にしていました。今でこそ、家が2軒以上あったら生活道がついて、門(かど)まで舗装されるようになりましたがねえ。
 若先生だった**先生も、3年ほど前にとうとう体調をくずし、30年間にわたって引き受けて来られた西谷診療所の世話はやめられました。それに代えて、今は、月曜と木曜の週2回、山奥の方へ午後から往診に出向いています。呼ばれて行くのではなく、こちらまでなかなか出て来にくいお年寄りのうちを巡回しているんです。
 大先生の時は、それこそ正月もないくらい休みなしの毎日でしたが、今は、当番医の制度ができて、日曜日の往診の呼び出しもほとんどなくなりました。ただし、年中無休でなくなり日祭日休診になったとはいっても、門をたたく人がいれば診ているのは、今でも当然のことです。
 往診といえば、4、5年前までは夜中の往診もちょいちょいありましたが、最近は救急車を呼ぶのか、あまりなくなりました。もとから私は酒を一滴も飲みませんが、私の前の運転手は晩酌が好きで、だいぶ酔うて夜中の往診の時に運転できなかったというエピソードも聞いたことがあります。救急車は、御三戸の分駐所からだと15分、そこにいないときは久万の本部から25分くらいかかってやって来ます。

 オ 最近の柳谷の様子

 吉村医院に来る患者さんの様子を見ても、過疎化・高齢化がよく表れています。若い方、子供さんがあまり来ません。一つには、御三戸に小児科の先生がおられることや、お産の時から松山や久万へ出てしまうことが原因ですが、それ以上に若い人が少ないんです。勤め場所といっても、役場・農協・森林組合・郵便局くらいで、地場産業がないので後継者が生活することができません(図表3-2-2参照)。
 柳谷の気候はスギ、ヒノキに適しているので太りが早いんです。ところが、早く太った木は年輪がつまってない。その上、外材はどんどん入るし。少々の山では、森林組合に頼んで人夫賃払うて、設備じゃ何じゃというと、もうけなしで、木を持っていくこともある状態です。森林組合がやっている製材も、村外の木の加工がほとんどじゃと聞いとります。
 3年ほど前には村内にも薬局がありましたが、資格を持っていた主人が亡くなって廃業し、今は1軒もありません。ほとんどの買い物は落出で間に合いますが、市販薬は久万や松山へ出掛けたついでに買って来るしかありません。
 こんな状況ですから、本当は子供は近くにおって欲しいけど、産業もないし、孫の教育のことを思たら、仕方がないです。ここらの学校は複式、複々式なんですから。私の場合は、次男が郵便局に勤務でき、地元の方と結婚して村営住宅に住んでいますが、長男は東京に20年暮らし、去年砥部までは戻ってきました。住んでみたら、住み良いとこなんですけどねえ、生まれて育ったこの土地。川はあるし、山はあるし…。
 最近耳にする話題と言えば、「これから5年先、10年先はどうなっているのだろう。」ということです。定年になって、帰って来る方には住みやすいところとは言っても、それで増える人口は年寄りが増えるだけ。一人でおられんなったら、また、町の子供に引き取られて行く。今のままでは、そんなくり返しのような気がします。高齢化が進むにつれて、村も健康管理をよくしてくれるようになり、健康診断も盛んです。人々の「自分の体の管理は自分自身で」という意識も高くなってきました。でも、もっと老人福祉医療に力を入れてもらえたらと思います。

 交通不便な上浮穴の山間地域にあって、献身的に活動した吉村孫吉翁の生き方には学ぶべきことが多い。時代は変わり交通不便は解消されても、過疎化・高齢化という新たな課題を背負っているが、「苦しい中でも努力を怠らず、すべての人の生命も尊重した」孫吉翁の生き方を手がかりにして、解決の方策を見つけ出して欲しいとの思いを強くした。

写真3-2-1 二淀川対岸から見た落出の集落

写真3-2-1 二淀川対岸から見た落出の集落

左端がバス停、右から2軒目が吉村医院(裏側)。平成5年12月撮影

図表3-2-2 上浮穴郡5町村と伊予郡広田村の65歳以上の構成比

図表3-2-2 上浮穴郡5町村と伊予郡広田村の65歳以上の構成比

平成2年国勢調査により作図。