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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)恐ろしい結核を克服した保健婦活動

 **さん(久万町久万曙 大正元年生まれ 81歳)
 知らない町を旅する者にとって、駅はその町の顔であり、これから始まるドラマの感動を演出する重要な役割を果たしてくれる。「夏は伊予の軽井沢、冬は伊予の北海道」と言われる久万町には、鉄道はないが、なぜか町の中心部には「JR久万駅」が存在する(写真3-2-9参照)。昭和9年(1934年)3月24日、国鉄バスの開通によってできたこの「駅」も(⑥)、昭和62年4月の国鉄・分割民営化の影響でやがて「無人駅」になり、今では町から委託された老人クラブなどの民間ボランティアの管理人によって維持されている。
 愛媛県西条市出身の**さんが、保健婦の辞令を手に生まれて初めて「久万駅」に降り立ったのは、「久万駅」ができて10年目(1944年)の春のことだった。

 ア 保健婦制度の成立とともに

 **さんは、学校卒業と同時に周桑郡三芳(現在の東予市)にある産婦人科に見習看護婦として就職し、「2、3年お世話になった」後、松山の看護婦学校に進学し、看護婦と助産婦の資格を取った。昭和12年の保健所法成立によって各地に保健所が開設されることになり、県内でも保健婦を養成するための講習が始まり、**さんも県の検定試験を受けて保健婦の資格を取得した。
 県内には15か所の保健所があるが、久万保健所は、宇和島保健所に次ぐ広い地域を担当する保健所として、昭和18年(1943年)11月に県内で3番目に開所している。そして、**さんが「久万保健所勤務を命ず」の辞令をもらったのは、その翌年の春3月のことである。
 慣れない土地のこと、右も左もわからないうちに戦争が激しくなり、事態は急展開していった。その時の様子を**さんは次のように語る。

 あまり保健婦の活動するじゃのいうことなしにね、松山が空襲になったんですね。この上から見ていたら、もうねえ、松山の空がまっ赤になってね。翌日、夜が明けたら、婦人会の人なんかが、おむすびをたくさん作ってもろぶたに並べて、トラックに積んで、そして、私らは救援の救護隊として準備して、そのトラックに一緒に乗って松山へ出たんです。
 松山の立花橋を境に、あそこまでは道があったのですけど。そこから向こうは、電柱も倒れる、もうねえ、一望に見渡せるようになっとるんですよねえ。そして、まだ煙が出るような、炎が熱いんですがねえ、濡(ぬ)れタオルをこう、口を覆うようにしてしのぎました。
 国鉄駅の裏の方にお寺がありましたがね、そこへ空襲を受けてけがをした人や火傷(やけど)した人なんかをたくさん収容しとる。そこへ入って1週間ほど、その患者さんのお世話さしてもろた。お寺いっぱいに患者さんを寝かしとるんですけんね。その近くに、私たちがちょっと休息するところのお部屋を借りとりましたんじゃがねえ。夜でも患者さんを見るためにその部屋から外へ出ようとしたら、焼夷弾(しょういだん)が落ちてくるんですよ。急いで壕(ごう)へ飛び込んだりしてねっ。
 食事も、3度3度食べるわけではないし、県庁の方から手配してくださるんでしょう、たまにおむすびを運んできてくれるんです。そのおむすびでは、やっと空腹を満たすほどもないような状態でした。
 私らも着のみ着のままで行っとるんですけんねえ。そのうち、交代が来てくれましてねえ、「久万へ帰ってええ。」ゆうんで、帰らしてもらったんです。たしかその時には、県庁と日本銀行だけがありました。県庁へ御挨拶に行ったら、煮干しを少しくれましてね、袋へ入れた煮干しだけを食べながら、久万まで歩いて帰ったんですよ。

 イ 戦後の保健婦活動

 戦後、焼け野原の松山を眼下に見ながらも、県庁からどんな指示があるかわからないまま、自分ではどうすることもできず、敗戦国のみじめさを胸に、何の希望もなくむなしい日々を送ったそうだ。松山へ出るにもバスはなく、トラックの荷台に乗せてもらい、そこにむしろを敷いて座って行くしかなかった。このように混沌(こんとん)とした状態が続き、保健婦としての活動をするようになったのは、しばらくしてからのことだったという。
 占領軍の進駐によって、GHQ看護課の指導で、東京の公衆衛生院に全国の各保健所から代表が1名ずつ呼ばれて、私も、6か月くらい教育されました。厳しいこと言われて、「面会謝絶」なんかいう札かけられて、勉強させられました。東京の貧民窟(ひんみんくつ)の家庭訪問なんかもさせられて、それはもう勉強ですよね。
 当時は「日本の公衆衛生はアメリカに比べて50年は遅れている。」と言われました。伝染病は多いし、マラリヤを媒介する蚊(か)がおる、蠅(はえ)がおる、蚤(のみ)がおる、虱(しらみ)がおる…。学校の生徒には虱がおって、後の生徒に「虱がここはいよる。」いうて言われたくらい頭にたくさんいました。今考えると、上司の許可を得てしたこととはいえ、DDTを頭にふりかけていたなんてねえ…。蚊が多いのも、「墓地の花立てに水があるからボウフラが湧(わ)くんだ、砂を入れなさい。」というて言われ、そんなことを市町村の衛生係かなんかに保健婦が指導するんですよ。とても想像できんことでしょうが、GHQの指導でするんですけん、せなんだらおおごとですよ。
 確かに、アメリカ式の公衆衛生の技術は進んでいましたが、地元の人々との隔たりが大きすぎます。「流水での手洗い」なんてことは、いちいち言わないと知らない。言ってもわからないので、「流水で手を洗って、石鹸(けん)をつけてゴリゴリゴリゴリ洗い流して、その後でクレゾール液とか消毒液につけてでないと、消毒にならない。」なんて噛(か)んで含めるように言いました。もっとも、当時は水道なんてなかったので大きい水瓶が家々にあって、井戸水をつるべで汲んで水瓶にためておき、ひしゃくで洗面器へ汲みだすんです。みんなそれで手洗いや茶碗を洗うんですが、ただ細菌が移動するだけじゃから、洗った価値がないんですね。水道のない山では、流水がないので、やかんやひしゃくで流しながら洗うように、きびしゅうに、やかましゅうに言いました。

 ウ 「結核オンリー」との戦い

 今はもう使われていないが、町立病院の裏に隔離病棟があったそうだ。はじめのうちは衛生状態がよくなかったので赤痢、コレラ等の消化器伝染病が多かったが、徹底的な手洗い指導などのおかげで、消化器伝染病は激減した。その後は、性病も少しはあったが、なんといっても結核が一番多く恐ろしい病気であった。人口およそ4万人の上浮穴保健所管内で、千何百という数の患者がいたという。
 保健所は久万町曙にありました。当初は専任の先生(所長)もいない、検査技師もいない、レントゲンが入っても専門の技師がいない、そんな状態でした。レントゲンは、私が松山保健所へ習いに行って使っていました。
 保健婦としての活動の中心は家庭訪問でした。各町村の保健婦がおるところはいいんですけど、面河、柳谷と保健婦を置いてないような所(結核の患者が出たときには小田も)を担当するんです。もう私たちが行くときは、いつも遠方ばかりでした。地域が広くて散在しとるでしょ。保健婦の活動は本当に苦労じゃったんですよ。自転車の後ろに、黒い「家庭訪問鞄」積んで、ちょっと奥へ入ると、そこから道がないんで道路端へ自転車置いといて、山へ登らないかんでしょ。自転車置いた所へもんてくるのは、なかなか遠回りせないかんようになったりしてね。自転車で家庭訪問できるのは良い方で、山から山へよく歩いた。よう辛抱したと思います。
 定期的に郡内を回って集団検診をして、自覚症状のない人を呼び出してレントゲン検査して、影を見つけたらすぐ菌が出よるか出よらんか調べて治療するんです。いい治療薬ができて、それも外国からの援助でストレプトマイシンとかね、薬が入るようになってから、早期発見・早期治療で簡単に治るということを言って回りました。
 とにかく「結核オンリー」言うくらい結核患者が多かったんで、家庭で療養するのには、家族感染したらいかんので、きびしゅうに指導せないかんのです。肺に空洞ができて菌がウヨウヨするようになったら、もうはびこる一方で、自分の肺もなくなってしまうような状態になり、菌をまき散らすから人にも感染さすんです。今だったら、コンコン咳(せき)でもしよったら「その人結核菌でも出よらせんかな。」と思って心配する人もありますけどねえ。当時はそんな知識はなかったですねえ。
 訪問しても、歓迎してくれる家は少ないんです。病人だけがいて、家族のいない家が多かったですねえ。普通の家ではいろりを囲むような生活でしたが、食生活の指導には深く立ち入れないし、栄養が大切とは言うても、「栄養を取りなさい。」なんて言うのが野暮な時代でした。
 早期発見・早期治療が肝心なので、結核の集団検診をやかましく呼び集めても、出て来る人がないんです。「仕事の方が大事。」じゃの言うてね。
 柳谷の「菅行(すぎょう)」とか、面河の「相(あい)の峰(みね)」なんていう28世帯ほどのね、山の上の部落、そこの人は「自分ところの屋根の上を見ることがない。」と言うんです。昔の人は「朝は朝星、夜は夜星。」いうて言いますがねえ、朝、暗がりでお星さんのあるうちから弁当がけで家を出て、暗がりになって戻って来る。山で1日中働いているから、わざわざ山から降りてきてね、平地のレントゲン車のおる所へ、レントゲン撮りに来たりする人はいないんです。
 「どこどこへ、いつ来なさい。」いうていくら呼び掛けても、それには応じてくれないのでねえ、ひとっつも来やせんのですよ。もう困って、困って。
 ほだからねっ、こっちから出掛けて行くよりほかしようがない。出掛けて行く言うたってね、今のように山へ自動車が上がったりせんのですよ。今考えたら、まあ何ということじゃろうかと思いますけどね、レントゲンのトランスを馬の背中に積んで、アリの行列みたいに、山の小道を山へ登って行ったんです。みんなが仕事終わって、ごはんでも食べて、出てきてくれる時間まで、上の集会所でじっと待たないかんのです。夜業(よなべ)の仕事です。「ナイター」ですよねっ。
 仕事熱心だったし、それだけ働かないと、山での生活が楽でなかったということなんでしょうが、結核に対する関心も低かったし、結核とわかるのがイヤじゃったり、恥ずかしかったり、という気持ちもあったと思います。それでも、発見されてしまったら、治療は素直に受けていました。「日本は、戦争せいでも、結核と梅毒で国が滅びるだろう。」と言われていた時代でしたから。
 「結核オンリー」の時代からだいぶ落ち着いてくると、今度は性病との戦いでした。これもやっぱり、なかなか自分からお医者さん行って治療しようとはせんので、保健所で治療したりしよりました。だいたい保健所は、病気発見のための健康相談はするが、治療したりする所じゃないんですがねえ。

 エ 生涯、結婚どころじゃなかった

 久万に着任したときは、母を松山に置いて、土曜日、日曜日に帰りよったんですが、空襲空襲いうようになりまして母を一人置いとけんようになりましたので、久万の方へ連れてきたんです。最初は家がないので、保健所の宿直室に置いてもらっていました。戦争が激しいときは、夜でも、もんぺも履物も履いたまま、縁に足を降ろして寝よりました。自分とこの必要なものは、土を掘って埋めてね、そんなようなことをしよりましたよ。よいよ、恐ろしい不自由な生活をしましたわ。
 母は、「私は自分自身の娘に世話になって、いっしょにおれていいけど、私が死んだらあなたが一人になると思たら、死んでも死にきれんから、どこへでもお嫁に行って…。」言よりました。だけど、戦争が終わって戦地から復員した人で、結婚のお相手になってもらおじゃのいう人には出会いませんでした。
 母は、33年前に死にましたが、その時借家を出んといけんなりました。松山に県庁職員の宿舎があったんですが、知事さんの家を建てないかんので取り壊すことになり、その壊した材を買うて、久万のここまで持ってきて、このうちを建てたんです。「久万の材木の多い所へ古材買うて持ってきて…」いうて笑われましたが、自分もお金があって家を建てるわけじゃないのでねえ。でも結局、柱や天井の部分は新しく買わないと使えませんでした。
 テレビで、東京なんかじゃ歳(とし)取ってから借家から「出ていけ。」言われるのを見ると、「お金はなくても、こうして住む家があってよかった。」と思います。それにしても、都会ではよう住みません。この緑に囲まれた空気のええところで静かに暮らすのが、寂しゅうても、一番幸せじゃと思いよります。

 オ 町長さんに褒(ほ)められたのがとても嬉(うれ)しかった

 老人会に招かれた時の話です。町長さんがみんなにお酒ついで回ってきたときに、「**さん、私は天皇陛下から表彰されましたよ。**さんらが活動してもろたおかげで、結核が少なくなったというて、それで表彰されたんですよ。」と言われました。そう言われたときは、自分が表彰してもろたよりも嬉しかったです。思えば、①衛生教育の徹底、②集団検診、③早期発見・早期治療、④患者が治れば感染防止につながる、その結果結核患者の数が減少したのですから。活動した当時の苦しかったことを思えば、町長さんの一言は、本当に嬉しかったです。

 **さんは、昭和45年に退職後、しばらくしてから心臓を患い、松山の循環器科に月に3回、バスで通っている。通い始めたころは、医者に「ペースメーカーを入れますか?」と言われたそうだが、幸いそうしないまま今日に至っており、最近は医者も「普通は歳(とし)取るほど弱っていくんじゃけど、**さん、わりあいようなったね。」と言われるそうで、「ペースメーカーを入れなくてよかった。」と思っているそうだ。それでも、最近足が弱くなったと感じるという。足が動く間はバスで通院できるが、動かなくなったら、寝たきりになるのではと心配らしい。何度も何度も息を飲み込むようにしながら、「81歳になって、歳(とし)は取りたくないなあと感じるんですよ。」と言って目を細めた表情は、笑顔なのだがもう一つ深い感情が感じられた。
 もうすっかり久万の人間になってしまったという**さんは、先祖の菩提寺(ぼだいじ)がある西条に行く年4回の墓参と、月3回の通院の時だけ、「駅」からバスに乗って久万を離れる。
 久万町では、「JR久万駅」を、物産コーナーやインフォメーションの機能を備えた新しい久万の玄関「久万高原駅」として、今年度内の完成を目指して建て替え工事中である。

 山間地域の人々の公衆衛生を担って生きてきた**さんの生涯は、脚光を浴びるでもなく、ただただひたむきに努力を重ねた、本当に地道な毎日のくり返しである。しかし、この働きなくして今日の暮らしが成り立たないことは、とかく忘れがちである。それにもまして気がかりなのは、**さんが健康に不安を感じながら、一人ぽつんと生活していることである。
 地域の保健活動に献身的に生涯をささげ、「結核オンリー」の困難な状況を克服してきた**さんを、現在の「高齢者を取り巻く医療・福祉の課題」の渦の中に、一人取り残さずに済む手立てはないものか。

写真3-2-9 「JR久万駅」となんごく号

写真3-2-9 「JR久万駅」となんごく号

来年春の「久万高原駅」完成をめざして工事中。平成5年12月撮影