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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)全国でもまれな医療・保健・福祉の複合施設

 ア 「緑風荘」施設長が明かす、院長の情熱と先見性

 「緑風荘」施設長の**さんは剣道が得意だというがっしりとした体格である。父は小田町出身だが、本人は神戸生まれの神戸育ち、戦後になって小田町に住むようになった。長く小田町役場に奉職し、収入役を最後に退職したあと、現在はこの特別養護老人ホーム「緑風荘」施設長として、小田町の保健医療福祉活動の第一線で活躍している。
 **さんの横に座った**さんが、「今日、この施設がここにあるのは、**院長の強い情熱と先見性のおかげなんです。」と、話を始めてくれた。

 **院長は、この小田病院に着任したころから、「小田町は高齢化の先進地域だから高齢者重視の医療が必要だ。」と言っておられました。特に7年前には、よく役場に来て、「病院を退院後、家庭生活に復帰するための訓練をする老人保健施設(=中間施設)が、どうしてもいるんだ!」と言って、その必要性を強く訴えておられました。過疎化の進む地域では、なるほど、病院からいきなり家庭に戻ってもだれも介護してくれる人がいないんです。また、特別養護老人ホームについても、「こういう過疎地域にあっては、在宅介護に代わる次善のサービスとしてどうしても必要なんだ。」と言っておられました。
 そのころ私は役場に勤めておりましたが、先生の迫力ある説得に加え、町長はじめ行政サイドとしても高齢者の福祉政策は最重要課題だという認識だったので、前向きに取り組むことができたと思います。それで、施設を町が建設するつもりで、とりあえず小田病院の横に用地を確保しようということになったんです。小田病院は「済生会」と名がつきますが、小田町民の意識としては、丸井千年先生の尽力によって誘致された町民の病院、いわば「町立病院」という感覚があるんです。
 そして2年後に造成を終えたところで、ちょっとつまづいたんです。「松山広域福祉圏」というのがあって、松山市、伊予市、北条市、伊予郡、温泉郡、上浮穴郡の各市町村が協力して事業を実施しているので、このような施設は小田町単独では建てられないことになってたんです。社会福祉法人か日赤しか建設できない。そこで**先生に助けてもらい、町の補助で済生会が主体となって建設にこぎつけたんです。
 実は、小田町は昭和53年(1978年)に債権団体に入ったんですが、10年計画で立て直しを図っており、昭和61年(1986年)ころは明るいきざしが見えかけていたんです。それで、財政的にはそれほど心配をしなくてもすみましたし、しばらくすると(平成元年)、国のゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十か年計画)も策定され、その波にも乗るということで、タイミングがよかったということもあります。
 しかし、病院・老人保健施設・福祉施設(特別養護老人ホーム)が併設されるというのは全国でもごくまれな例となり、対応する行政セクションがそれぞれ異なることから、ゴーサインにこぎつけるまでが大変だったんです。

 イ 若者がいない地域の「妥協の産物」

 困難を乗り越え、そこまで情熱を注いだ背景について、**院長は次のように語る。
 常にこの地にあって望ましい医療とは何かを考えていました。小田に来たときには6,000人だった人口は4,500人に減少し、果たしてターニングポイントは?という状況で、しかも独居老人が増え、子供が出た後の夫婦二人だけの世帯が増え、高齢化と過疎化が、同時進行でどんどん進んでいるんです。
 本来、家族を形成するのは若い者と年寄りの両方なのに、今は非常にアンバランスなんです。若い者は都市に出る、残されたおじいさん、おばあさんを世話する人たちがいなくなってきているということなんです。
 お年寄りにすれば、「この土地に住みたい。」と思って田舎に残っているのだけど、ちょっとからだが悪くなると、田舎の世間の目は厳しいんですよ。親戚(せき)とかの不用意な発言などで「長男は、親を放(ほう)っとって。」と言われるので、いたたまれず「身近に引き取ります。」といって都会へ連れて行くんです。つまり、ここの人口は、また減る。これはまさに、「過疎化の再生産」ですよ。
 一方、連れていかれた方はというと、都会へ行っても住宅事情などの都合ですぐ病院へということになります。お年寄りにとっては、他人ぎりで、精神的に非常に酷なんです。毎日見ていた風景や知り合いがいなくなるうえ、ゼロから新しい人間関係を作っていくなんて大変な努力がいります。非常にアクティブな方なら別でしょうが、確実に「ボケ」にまっしぐらの要素ですよ。実際の例として、町へ行ってぼけちゃった人が、再び戻ってきて、知り合いと接することで、ボケがよくなることも、我々は経験しました。
 一生懸命患者さんをみていて、おじいちゃん自身も「わしゃ、ここにおりたい。ここで死にたい。」という人は、一人や二人じゃないんですよ。それが、自分の意志に反して、連れて行かれることになるんで、看護婦なんかも「まあ、じいちゃんな、帰って来とうなったら、帰ってきたらええからなっ。」と言って送り、「すぐ帰って来るけんの。」と言って出ていくが、出て行きっ放しになるのが、本人もわれわれもつらいんです。もうそんなんばっかりです。風の便りに、「結局、ぼけちゃった。」と聞くと、一生懸命やってきた我々にしても悲しいし、寂しい。
 若者が残れないのは、日本の構造からは当たり前かもしれないけど、年寄りまでもが残れない過疎とは一体何なんだろうか。過疎化が進めば、結局若者の流出だけでなく、当然老人も流出していかなければならない。本人にとっても、だれにとっても喜べることではない。ここのお年寄りたちは、生まれた所で住みたいんです。少しでもその満足を得られるようにするためには、妥協の産物だけども、こういう形の施設がいるんです。少なくとも、これでお年寄りが町外に出なくて済むし、新たな雇用の場としてここに若者が就職することで、逆にわずかとはいえ生産人口が増えるんですから。