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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

(1)写真から読み解く地域のすがた③

 エ 宇和島市遊子水荷浦

 (ア)耕して天に至る

 水荷浦(みずがうら)は宇和島(うわじま)市の南西部、蒋淵(こもぶち)半島の遊子(ゆす)地区にある半農半漁の集落で、清国(しんこく)の李鴻章(りこうしょう)が「耕(たがや)して天に至る。以(も)って貧なるを知るべし。」と評したと伝えられる段畑の風景が眼の前に広がる地域である(写真2-4-8参照)。
 昭和30年代まで段畑は、北は佐田岬(さだみさき)半島から南は宿毛(すくも)湾の沿岸まで宇和海(うわかい)沿岸を中心に広がって、段畑の中には傾斜が40~45度、高度が300mに達するものもあった。水荷浦の段畑は傾斜が30~40度で高度は約100mであるが、稜線(りょうせん)付近まで開かれ石積みされた段畑が保存され、平成19年に文化庁の重要文化的景観に選定されている。
 美しい景観とは対照的に、段畑での労働は過酷なものであった。段畑での主要作物は、旱魃(かんばつ)に強い甘藷(かんしょ)栽培が幕末に普及して以降は甘藷であった。甘藷栽培では、除草、施肥(せひ)、収穫が主な仕事である。夏の炎天下に畑の草一本に至るまで取り除き、兎道(とどう)程度の急勾配(こうばい)の道を下肥(しもごえ)を桶(おけ)に入れて、天秤棒(てんびんぼう)で荷なって運び上げたり、収穫の時期には、掘った甘藷をホゴに入れて天秤棒で荷ない下ろした。1回に運ぶ量は30kg~40kgで収穫の時期には400~500回往復しなければならなかった。重労働のため肩に荷こぶができる者やがに股(また)になる者も少なくなかったという。
 水荷浦の段畑の起源は、江戸時代初期にまでさかのぼる。当時、イワシ網漁業を重視する宇和島藩の保護のもと新浦が形成され、その漁民の食糧自給のため集落背後の傾斜地に段畑が開かれた。その後、幕末から明治年間にかけて漁業の発達により漁村の人口が増加、その食糧確保のため段畑の開発が急増した。戦後の食糧不足の時代にも段畑の開発が進んだが一時的な現象であった。

 (イ)段畑とイワシ漁

 段畑を見る人が圧倒される石垣が造られるのは、明治末期からである。明治に入り、イワシ漁が不漁になった。そのため、段畑での農業に重点を置くようになり、石垣を造ることで耕地面積を広げ、表土の流出を防ぎ生産力の向上を目指した。
 明治時代は甘藷を栽培していたが、明治末から大正時代に養蚕が盛んになり、桑が栽培されるようになった。よい桑園にするために石垣も普及した。しかし、段畑での桑の栽培は、昭和恐慌での繭価(けんか)の暴落とともに急速に衰退した。養蚕の衰退後、生活を支えたのはイワシ漁であった。昭和10年代はイワシの豊漁が続き、カタクチイワシをイリコ(ニボシ)にして出荷していた。イワシを煮(に)て干(ほ)す作業を家族総出で行っていた。昭和30年代に入ると、イワシの不漁期に入ったことや食生活の変化によってイリコの需要が激減したことなどにより、遊子(ゆす)からイワシ漁は姿を消した。
 一方、段畑では養蚕の衰退後、夏作(なつさく)の甘藷と冬作(ふゆさく)の麦が栽培の主体となった。甘藷の栽培は、戦中、戦後は食糧難を補う国策として奨励され、昭和20年代には切り干し(甘藷を薄く切って乾燥させたもの)がアルコールやデンプンの原料として高値で取引されたため、農家は収穫量を増加させるために石垣を造っていった。ところが、ほとんどの段畑で石垣が完成した昭和30年頃には、糖蜜の自由化により切り干しの需要はなくなった。
 昭和30年代後半になると、条件のよい多くの段畑は柑橘園(かんきつえん)に変わった。しかし、水荷浦は季節風が強いため柑橘園には不向きであった。そこで、無霜(むそう)地帯である温暖な気候を利用して早掘り馬鈴薯(ばれいしょ)が植えられ、その有名な産地となり、現在まで段畑は利用されている。その間、ハマチと真珠の養殖が盛んになると蒋淵半島では養殖に重点が置かれるようになり、段畑の多くが耕作放棄された。しかし、水荷浦の人々は、山の頂まで切り開き、額に汗をして耕作した祖先の苦労を後世に伝えたいという思いで段畑を残した。

写真2-4-8 水荷浦の段畑

写真2-4-8 水荷浦の段畑

宇和島市遊子。平成22年撮影