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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

16 えひめの子どもの遊び-川や山で遊ぶ-

 テレビやコンピュータゲームのない時代、子どもたちは、遊ぶ道具を自分で作り、地域の自然環境を活(い)かして創意工夫をしながら遊んだ。ここでは、北宇和(きたうわ)郡松野(まつの)町の子どもたちの遊びについて紹介する。
 北宇和郡松野町は西南部に鬼ケ城(おにがじょう)山系、東北部に戸祇御前山(とぎごぜんざん)の支脈が連(つら)なり、その間を広見川(ひろみがわ)が流れている。『えひめ、子どもたちの生活誌』の中で、松野町の**さん(昭和8年生まれ)は、広見川での遊びについて次のように語っている。
 「川ではエビとり・ハヤとりなどもよくしました。ハヤ瓶(びん)には長い瓶と丸い瓶があり、どちらもうまく浸(つ)けるとたくさんとれました。小学生もウナギは地獄(ウナギをとる仕掛けのこと)でよくとりました。ミミズをとって浸けるとよく入りました。カニは蚕(かいこ)のさなぎでよく釣りました。釣り上げても離せば落ちるのですが、離さないものですから、子どもの獲物になったのです。田ウナギもよくとりました。田植えが終わると川からウナギが田へ上がってきたものです。それを手でつかんでとりました。また『濁りすくい』といって、大水が出たときの魚すくいも痛快でした。大水のときは魚が急流から水のよどんだところに避難するので、そこに柄(え)の長い大きな網を入れると一網打尽にとれるのです。ただ水かさが増していて危険なので、必ず大人に連れて行ってもらいました。吉野(よしの)の沈下橋(ちんかばし)の辺りではよくとれたものです。
 子どもだけで筏(いかだ)を作ったのもよい思い出です。子ども5~6人で鋸(のこぎり)、柄鎌(えがま)、荒縄などを用意します。柄鎌が使えないような者は、役に立ちません。まずモウソウチクを20本くらい4~5mの長さに切って二段に重ねます。幅は1.5mくらいで縄や葛(かずら)でしっかり締め付けて縛(しば)りました。縄より葛の方が締め付けも良く丈夫(じょうぶ)でした。学校では禁止されていましたが、作り上げて進水させ、流れに乗り出したときの爽快(そうかい)な気持ちは今でも忘れられません。そして筏を隠すのもいろいろ工夫がいりました。うまく隠し繋(つな)いでないと、水が出たときに流されて、下流の奴(やつ)に取られたらそれまでなのです。水遊びは様々で、また一日中でした。朝起きて川へ行って、昼食べに帰って、また川へ行って晩まで、唇が紫色になるまで遊んでいました。今でも目黒では子どもの川遊びの姿が見かけられます。
 釣り竿(ざお)なども自分で作っていました。釣り針とテグスは買いましたが、これなら、というよい竹を探し、それをあぶって調整し、仕掛けも自分でいろいろ考えて、一番よい竿を作り出そうと真剣でした。また根ぶち(鞭(むち)などに使う竹の根)というのを取って、磨いて学校へ持って行って、見つかっては先生によくしかられたものです。なんでも遊ぶ道具は自分で作っていました。」
 松野町役場の南背後には、戦国期の山城の遺跡である河後森(かごもり)城跡があり、子どもたちの絶好の遊び場であった。『愛媛の景観』の中で、城山のふもとの松丸(まつまる)で生まれ育った**さん(大正6年生まれ)は、城山での少年時代の遊びについて、次のように語っている。
 「わたしが小さいころは、子どもが6、7人いる家が普通で、わたしの隣家は12人の子だくさんでした。狭い家の中では親に『やかましい。』とおこられるので、子どもらも、『城へ行こう、城へ行こう。』と言っては、近くの城山(河後森城跡)に遊びにあがっていました。城山はいい遊び場でしたが、昔、首塚があったとか戦の跡だったとか聞かされていたので、子供心に、なにか寂しさ、恐ろしさというものがありました。
 城(じょう)の山を舞台としたわれわれの遊びに、陣屋作りがありました。がき大将が、グループの中心になってそれぞれの根拠地を作るわけです。城の山やその近辺に拠点を作って、防御の工夫とか、擬装工作とか、落とし穴を作って騙(だま)すとかの戦争ごっこをやるわけです。
 遊びをしていて、腹をすかした時のおやつは、山でとれるイタドリ、ノイチゴ、アケビなどでした。」
 当時の子どもたちは、自然を利用した遊びの中で想像力や協調性を身に付け、家の仕事を分担したり、村の行事に参加したりしながら地域の中での自らの役割を自覚し成長した。