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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)川漁からウナギ養殖へ

 **さん(大洲市八多喜 昭和7年生まれ 62歳)

 ア 昔の川漁

 (ア)アユ漁のこと

 **さんは、現在はウナギ養殖業の経営者である。今でも暇をみて川漁を楽しんでいるが、昔は肱川の川漁師として活躍した人である。研究心のおう盛な人で、漁具の改良も手がけ、いつも人より一歩先をいく漁師であった。養殖を始めてからも、技術や魚の病気などで不明な点が出てくると、試験場や大学の研究室に足を運び、徹底的に解明しようとする人である。そんな人柄から全国に知己も多く、今では大学や試験場の研究者が、**さんの養殖場を訪ねるほどである。とくに、『四万十川漁師ものがたり』の著者、山崎武さんとは親交が厚かった。
 **さんは大洲市八多喜の生まれで、高等科2年の時に終戦となり、学制改革で新制中学校の3年に編入学し、新制中学校卒業第1期生となった。学校を卒業すると、父親が川漁師であったので父親を手伝うことになった。そんな**さんに、昔の肱川の川漁について話してもらった。
 「昭和20年代は僕の家はアユ漁が主体で、友掛け、なげあみ、投網(とあみ)の他に、夜漁として狩刺(かりさし)網(現在は禁止漁法である。高知では火ぶり漁という。)もやっていた。その当時は狩刺網の許可は県の許可であったので、八多喜では狩刺網は2軒でやっていた。この漁業は、長さ25尋(ひろ)(35m)、高さ1mから1.8m位の網を使用する。当時網は自家製で生糸を使用して、僕も網をすいていた。船首にたいまつをたき、水上をたたいてアユを脅し、網に追い込むやり方である。これは二人ないし三人が一組でやっていた。
 また2そうの船を使用して、船尾でたいまつをたき、船上から投網を打ってアユを取っていた。アユは両側の船のかがり火におじで、寄ってきたアユを取る寄せ打ちという漁法もあった。
 これらの漁法は8月1日から12月1日まで許可されていたが、肱川では漁協が自主規制して今は禁止されている。
 学校を卒業してから毎日のように昼も夜も川漁に従事した。菅田に川漁の名人といわれた方がいたが、川下ではうぬぼれかも知れないが、僕が一番よく取っていた。当時普通の人は1日に1.5kgから2kg取るのが関の山であったが、僕は、1日に5kgを切るということはなかった。
 家でも子供に話すことがあるんだが、その当時5kgのアユを取れば生活ができる時代であった。今アユがキロ3,000円にしても15,000円にしかならない。網の消耗費など計算すると、川漁だけでは生活できない今日である。八多喜は肱川でも川漁の盛んなところで、当時8軒の川漁師がおった。
 昭和40年(1965年)には、生糸の網からナイロン網が使用されるようになった。機械すきの網も初めは生糸であった。三重県の桑名市で開発された機械すきを僕らも買った。狩刺網であれば機械すきでも良いが、なげあみ、投網は1段1段、目の大きさを変えなくてはならない。投網は傘を開いた状態にすれば良いので、テグスを自分で裁断し、網目を計算して自分ですいたものです。
 川漁に行く履物も当時はわらじだった。長靴などを持っている人はいなかった。軍隊で毒ガス工場で兵隊が使用していたという長靴が闇(やみ)で流れてきた。金額は覚えていないが、ものすごく高くだれでも買えるような金額ではなかった。昔の川漁師はわらじばきで、冬に霜が降りている日でも、素足で水中に入っていくのだから体に良いことはなかった。
 昭和25年(1950年)に母親が49歳で亡くなった。父親が50歳、わたしが18歳の時である。そんなことで結婚は早かった。昭和26年、19歳の時である。結婚後も父親と一緒の生活が続くが、兄弟も就職して家から出ていったし、昭和30年(1955年)ころに父親から独立した。そのころ父親は川魚の販売をしていたので、わたしが取った魚は父親に渡していた。
 アユの友掛けの道具も、全部自分で作っていた。テグスも人造とか本テグスとかいろいろあって、昔はテグスも1.5号から2号を使って、竹ざおもさおの継ぎ目は鋳屋(いかけや)さんで作ってもらい、あとは自家製であった。今とちがって道具が貧弱であったから、友掛けで1日に取る量は50匹が最高だと覚えている。そういう意味では、今の方が道具も良いし、1日に150匹とか170匹も取る人がいる。」と話す。

 (イ)カニ漁のこと

 「9月になリカニが下がり始めるようになると力二漁もやった。その当時の力二は肱川のどこでも取れた。入口をじょうろ状にした力二網の中に餌(えさ)を入れ、川にくいを打って沈めて置く。引き上げる時は、網に入った力二は出られないので地獄網とも呼んでいた。今はこのカニ漁も一人5張り以内という規制がある。当時は規制がなかったので年に35張りの力二網を作ったことがあった。
 カ二網は手作りで、当時人は5張りの力二網を作るのが精一杯であった。出石(いずし)駅のところの大和川(やまとがわ)から上須戒(かみすがい)にかけて10張り、上流では小田川の大瀬の下の上和田にも張った。肱川では支流の川に大きな力二が生息していた。ひどい時は4日間一睡もしないで、軽四輪車で力二網をあげに走り回ったこともあった。
 今でもこの人とは文通があるが、大阪の力二を扱う人から依頼を受け、大阪に力二を送る契約を結んだからである。その人が大阪の正月の市で取り扱う力二の量が50tほどであるとのことであった。僕のところから送ったのは3tほどであるが、12月27日にトラックで送った。
 春力二は蓄養する必要はないが、秋カニは身が締っていないので、出荷日の12月27日まで、取ったカニを蓄養しておく必要がある。そのためカニ専用の30坪(99m²)の池を作った。蓄養すれば餌を与えなくてはならない。餌を与えるとカニが死ぬ。与えなければカニの共食いが始まる。栄養分の少ないカボチャとか野菜類を与えれば落ち(死ぬもの)が少なくなった。
 一番多く取った時は一晩にドンゴロス(玄米を入れる麻袋)に四十何杯取ったこともあった。大阪からもっと量が欲しいとの注文で、四万十川の力二を取り扱うこともやった。江川崎(高知県西土佐村)に行き、そこの魚屋に頼んでカニを集めてもらうことにした。交渉で100万円分の力二を買うと約束した。当時カニだけで100万円分というので驚いたようであった。最初リンゴ箱に25杯分買って帰った。肱川で取ったカニと一緒に蓄養池に入れた。四万十川の力二が死に始めた。それでも受け取りに行かねばならない。100万円分は買いますと約束した以上、大損をしても後々この土地へ行かれんようなことはしたくなかった。100万円になるまで受け取った。それでもカニは死んでしまう。死んだ力二を処分するのに困り果てた。ものすごい死がいのにおいがする。長浜で船を借りて沖に持って行って捨てたこともあった。
 肱川の力二は蓄養池に入れても死なないのに、四万十川のカニは死ぬ。ほっておくと肱川産のカニまで死んでいく。宇和島にある水産試験場にも相談したが分からない。水質の違いではないかと考え、pH測定器を買って、pHを調べたりもした。肱川は10か所から、県内の河川も加茂川、小田川、広見川など、高知県の四万十川や物部川などの水を取り比較したりした。やっぱり肱川(pH6.8)と四万十川(pH8.5~9)ではかなりちがっていた。
 家内は僕のことを「調べ好き人間」といって笑っているが、その時は真剣であった。今でも養殖の片手間で力二漁もやるが、昔はそれほど多く力二を取った時代もあった。」と話された。

 イ ウナギの養殖

 (ア)養殖を始めたころ

 「16歳から川漁に従事してきたが、川漁は夜漁が多く、いつまでも体が続く職業ではない。またアユ漁は6月に始まって10月いっぱいである。アユ漁の収入は1年のうち5か月にすぎない。父親からの独立を契機に、アユ漁をはじめとする川漁をやりながら、将来のことを模索するようになっていた。周年出荷で年間を通して取り引きのできるようなことをしてみたかった。そのころ内水面漁業でも、養殖が花形みたいに言われるようになってきた。僕もやろうと。とは言っても養殖を始める資金はなかった。県の水産課に行き、養殖をするための資金調達の方法を教えてもらったりした。個人の事業で、しかも資産がないというので、銀行はなかなか融資してくれない。家内の家から150万円を借金した。昭和46年(1971年)に現在地(八多喜米津)に約600坪(1,983.5m²)を117万円で購入し、翌年移転してきた。養殖場は深さ13mからの地下水を利用している。保健所の検査では無菌で飲料水としても最適とのことである(写真1-2-7参照)。
 ウナギの養殖は全く初めてのことである。いろいろ勉強もした。講習会があると知れば、四国中どこへでも出掛けていった。ウナギの稚魚であるシラスは、肱川と八幡浜の新川、川之石の喜木川で採取した。12月を過ぎてシラスを取り始める。肱川は潮の干満の差が大きい。他の河川のように下流から上流までシラスはあがらない。肱川では最適期になると白滝あたりまであがってくるので、白滝付近を中心に採取していた。僕がウナギ養殖を始めると、あと5人ほどが養殖を始めたが、この人たちは長続きしなかった。僕は金無しで借金でやったんだから、甘いことではできないと言いました。
 養殖は年にシラスを10kgずつ入れ、順に養殖規模を拡大することにした。昭和54年(1979年)には35kgを入れた。シラスは肱川を中心とする近くの河川で採取していたが、不足分はシラス採取業者からも買っていた。当時はキロ当たり4万円であった。今は松山の養鰻(まん)組合に集められたシラスを入れている。昨年(平成5年)はキロ当たり84万円というシラスであった。
 養殖を始めて最初に困ったことは、ウナギの病気のことである。病気に対して無知であり、どうしてよいか分からない。病気に関する本も大分あさって買うて読んでみたが分からん。淡水魚の研究の盛んな高知大学の楠田理一先生の研究室を訪ね教えを請うた。その後も『これから行きます。』と電話を掛けて大学へ足を運ぶことが度々であった。当時研究室には10人ほどの学生がいたが、学生と一緒に寝泊まりして、菌の培養試験や顕微鏡検査をして帰りよりました。」と養殖を始めたころの状況を話された。

 (イ)ウナギの販売

 **さんのウナギの養殖経営は**さんと、奥さん、次男の3人である。
 養殖が軌道に乗ると、次に販売の問題が出てきた。販売について、「最初のころは静岡の業者に送っていた。輸送費など中間で抜ける経費が多い。量的にも多くなかったから、町の料理店との直接取り引きでやろうと、料理店に当たって出荷した。これも生産と需要とのバランスがとれない。そんな時、県農協経済連から声がかかった。当時は経済連にウナギを入れる業者はなかった。現在長浜から南の南予一円の出荷を担当している。さらに県漁連からも話があり、漁連の宇和島支部を担当している。この二つの大口と一般の店への販売を含めて年間出荷量は50tで、今では比較的安定した販路と出荷体制がとれるようになった。
 Aコープには料理したウナギを配送している。初めの間は生きたままのウナギを送っていた。Aコープにウナギを入れ始めて3年後に、半分は生きたもの、半分は料理したものとなり、今では全部料理したものとなった。ウナギの出荷は、ウナギを裂き焼いて出荷するものと、すぐに食膳であがれるようにパック詰めして出荷する二通りでやっている。パック詰めにするということは、全責任がこちらにかかってくるので大変である。
 普通の時は良いのだが、土用の丑(うし)の日ともなると、一般の店の注文も多く、少なくとも6tから7tのウナギを料理しなくてはならない。その時は臨時に20人を雇ってやっている。昨年(平成5年)4月には、ウナギを裂く機械やウナギ焼き機械も導入した。ウナギ裂き機械は1時間に45kgから50kgを裂く能力があり、焼き機械は1時間に100kgを焼くことができる。
 ウナギを何トンも出荷すると一度に大金が入る。15t出荷すれば3,000万円ほど入る計算になる。そのため、養殖業者の中には、原価計算もせずに一獲千金で、やれ競輪・競馬じゃいうて倒産し夜逃げした人もある。僕は1匹のウナギは1匹という考えで、堅実な販売ということをモットーにしている。料理店や一般の店ではウナギは夏だけが多いが、経済連や漁連は年間を通した取り引きができる。川漁師時代から考えていた周年出荷ということが可能になった。」と堅実な経営ぶりを話してくれた。
 **さんのところは、養殖の後継者として次男がおり、頼もしい限りである。また、もう一つ養殖に厚みを持ったのは、長男が静岡でウナギ料理を修業して帰り、大洲でウナギ料理専門店を開いたことである。
 **さんは16歳から川漁師として苦労してきたが、現在があるのは奥さんの内助の功のたまものであることを力説された。川漁師時代から養殖経営をする今日まで、人より一歩先を行く持ち前の探究心と、必要とあれば損を覚悟で投資もするが、経営は堅実に、対外的には誠実に歩いてきた人である。**さんの話の中から、その人柄をかいま見る思いであった。

写真1-2-7 大洲市八多喜の**さんのウナギ養殖場

写真1-2-7 大洲市八多喜の**さんのウナギ養殖場

上:ウナギ養殖場全景、左下:養殖場内部。平成6年12月撮影