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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)林業から養殖へ

 ア 焼畑耕作、ミツマタ栽培・炭焼きから出稼ぎの時代

  **さん(喜多郡河辺村北平長崎 大正14年生まれ 69歳)
  **さん(喜多郡河辺村北平長崎 大正15年生まれ 68歳)
 **さんは現在の住居より10km下流の熊の坂で生まれた。家の経営規模は、畑が1.5ha、水田0.35ha、山林20haで河辺村では比較的規模の大きい農家であった。20歳になると小田町で徴兵検査を受け、昭和20年(1945年)2月10日に召集され高知に入隊し、満州(現在の中国東北区)に3か月出動、再び高知に帰隊し終戦となった。召集解除で河辺に帰り、**さんと結婚する。
 長男である**さんは結婚後も35歳まで、熊の坂で父親と共に農林業に従事していた。わが国の経済の高度成長期を迎えて昭和40年ころまでは、焼畑農業が行われていた。森林を伐採し、そのあとにソバをまき収穫したあと、ミツマタを植える。ミツマタは収穫するのに3年かかる。6年で2回収穫し、再びスギを植林していく。毎年このサイクルを繰り返していた。当時はまだシイタケ栽培は多くなかった。
 昭和34年(1959年)父親から独立を機に、5人の子供を連れて、現在地に居を移した。当時はミツマタと木炭の値が良かったので炭焼きを始めた。ミツマタはこの地に来る前から苗を育てていた。山林地主である友人の森林を伐採し、焼畑にしてミツマタを植える。雑木を切って炭を焼く。ミツマタを収穫したあと、スギを植林して地主に返すという請負契約である。この地に移って7haほどの山林を開いて行った。
 ミツマタは換金するまでに3年かかる。その間は炭焼きによる木炭が唯一の現金収入の道であった。昭和35年(1960年)ころは木炭の需要も多かった。当時木炭は1俵300円であり、女の人の日当が300円であった。炭1俵で女の人を雇うことができた時代であった。
 炭焼きは1日平均にして3俵を生産するのが普通であったが、**さんは5俵を目標にした。そのために炭窯(すみがま)も人より大きいものを作った。**さんの木炭は特級品が多く、検査員も感嘆するほどの腕前であった。同業者から窯を築くことを頼られることも多かった。当時炭焼きの指導員の資格を持っていた。
 昭和39年(1964年)ころから木炭の需要が落ち込んできた。わが国の高度経済成長期で、出稼ぎに行けば金になるという話が河辺村にも聞こえてくるようになった。**さんは炭焼きの傍ら、山林を預って管理していたが、当時の日役賃金が450円くらいであった。山主からは日当を500円にするからと、出稼ぎに行くことを慰留されたが、出稼ぎに行けば日当が1,350円になるというので試しに大阪に行った。土木見習いということで、片枠大工の仕事であった。40歳になってからの仕事で、初めのころは人から笑われたりしたが、そのうち一人前に仕事ができるようになった。出稼ぎをしたのは5年間である。1年のうち7か月働いて、あとは河辺に帰り、3か月は失業保険をもらうという生活である。
 留守を預かる**さんは、**さんの出稼ぎ中、預かっていた山林の管理を引き継いだ。当時のころを**さんは、「60町歩(ha)の山を私が責任者で、人を雇って下刈りをやった。女の人の日当が350円で、おしまいころは400円にしてもらった。7人から8人が一つの組をつくり下刈りをする。今はきれいなスギ山になっているが、当時は下刈りをしなければならない樹齢のスギであった。そのころはお金が入るし、若かったし、楽しかった。私の下刈りの収入で子供も育っていたと思う。」と回想された。

 イ アマゴ(アメノウオ)の養殖

 大阪に出稼ぎ中に、アマゴの養殖がええという話を人から聞いた。大阪から岐阜に出稼ぎ先が変わった時、その村でマスの養殖をしていた。河辺は水が冷たいから養殖ができると考えた。失業保険の期間、河辺に帰ってアマゴの養殖をしようと計画し、その段取りを始めることになる。昭和43年(1968年)に現在地(河辺村北平長崎)に養殖のための水漕を作った。
 養殖の第一歩として上浮穴郡柳谷村の養殖業者に頼み、アマゴの親1,000匹を注文したが、それほどないということで500匹をもらい受けた。2年したら卵が取れるというので、2年後の昭和45年(1970年)に採卵に成功した。
 当時愛媛県内でアマゴの養殖をしたいという人が50人ほどいた。その人たちのために、久万町で採卵の講習会があり参加した。講習といっても話だけであった。講習で習ったとおり採卵したが、どれが死卵でどれが生きているのか自信がない。そこで柳谷村に行き、養殖場で実際に識別の方法を教わったりした。採卵したアマゴの卵に精子をかけて、積算温度350度になればふ化する(摂氏10度の水温の場合、ふ化するのに35日かかる)。心配で夜も眠れぬほどであったが、成功した時のうれしさは今も忘れることができない。
 翌年にはイワナの採卵にも成功した。イワナは岐阜へ注文した。これは成卵になっているもので、木綿の袋に成卵を入れ、スポンジで卵に傷が付かないよう氷を詰めて休眠状態にして、発泡スチロールの箱で飛行便で送られてきた。
 次にマスの養殖も始めた。ここの養殖場は条件として恵まれている。この奥には集落もなく、谷間から湧(わ)き出す水で、年間を通して水温の変化もなく、水温は14.5℃で水量も豊かである。直接その水を養殖場に導水している(写真1-2-11参照)。
 養殖を始めて失敗したことは、せっかく育てた魚を一夜のうちに死亡させたことである。
 その時のことを**さんは、「台風の時は寝ておれません。いつもカッパを着て水漕に行き様子を見ているわけです。それでも失敗した。今夜は雨も少なく、降り方がひたひたになったきんと言うて寝ていたら、朝方ざあっと柴が流れてきて、水漕に入る水がぴしゃと止まっている。朝行って見たら真っ白うなっている。ああ、しもうたな。その時はなんとも言えん。自分のそれこそ油断でこうなったと思うたら、その時は一番つらいです。」と話す。**さんも、「1時間水が止まったらおしまいです。渓流から水を引いて、水漕の上から順に下の水漕に水が流れる様にしています。あの時は導水口が上流から流れてきた木の枝や葉でふさがれ水が止まったのです。」と話す。この失敗に懲りて、水量が減れば家に通報する鈴を設置した。台風時などは電源のスイッチを入れて置けば安心しておられるようになった。

 ウ オイルショックで加工品をつくる

 養殖を始めて最初の試練は、やっと成魚にして販売できるという時にオイルショックに見舞われたことである。購買力が落ちる。魚は太り過ぎるというのであの時は苦労した。その時考えついたのが、くん製の真空パック詰めと甘露煮のパックであった。養殖は成功したが加工は初めてである。
 生きた魚を使えば、きれいな製品ができると考え、串(くし)を削ってアマゴを差して、炭火でくん製にする。串を抜く時に首がもげ落ちる。これでは商品にはならない。どうすれば首がもげなくなるのか。大洲のアユの加工専門店に行き、アユのくん製を一箱買って帰った。なぜアユの首がもげていないのか。アユは川で取ってからお店に入るまでに死んでいる。そのことに気が付いた。自分のところの生きたアマゴでは駄目である。池からあげてアマゴを休めておく。それでやってみると首がもげないことが分かった。
 **さんはその時のことをこう話した。「明朝までに300本の注文があって、それを夜にくん製にするため炭をたくのですが、翌朝出してみると150本しか製品にならない。これは困ったなあ、これではお土産にならんから、首のもげたものは近所の人にあげていた。それではもうけにならない。どがいしたら首がもげんじゃろか。魚を休めたらええんぞよというので、半役(半日)休めてやったら首がもげない。生きたのは『ああん』と口をあけて、えらが開き串を抜く時、首がもげてしまう。」
 加工品はアマゴとイワナのくん製品と甘露煮である。マスは加工はしていない。製品は肱川町開発センターと保養センターへ卸している。ほかは「あまごの里」に来た客が買って帰るのと、注文があれば発送もしている。

写真1-2-11 河辺村北平長崎の**さんの養殖場の水源

写真1-2-11 河辺村北平長崎の**さんの養殖場の水源

平成6年7月撮影