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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)大洲のう飼い事始め

 **さん(大洲市中村 明治37年生まれ 90歳)
 **さん(大洲市中村 昭和8年生まれ 61歳)
 大洲市観光協会の発表した、『平成6年度うかい状況(⑦)』によると、平成5年度は、長雨による冷夏、再三にわたる台風の来襲により、う飼い中止日が31日を数える異常気象であった。今年(平成6年)は梅雨季から夏季に至る高温と少雨による渇水で、昨年とは反対に異常渇水が続き、とくに松山・伊予市を中心とする中予地域は深刻な水不足に見舞われた。そのような状況の中でも肱川は、県下第一の河川として十分な水の恩恵を受けている。そのため、う飼いの期間112日(6月1日~9月20日)のうち、う飼いを中止したのは1日だけであった。う飼い観光船も延1,806隻が出船し、稼働日平均16.3隻で、推定客数は21,284人に達し、日本の三大う飼い(岐阜県の長良(ながら)川、広島県の三次(みよし)、愛媛県の大洲)の一つに数えられるまでになった。しかしながら、現在の盛況は一朝一タに達成されたものではない。それは幾多の先人の血のにじむ努力と苦労のたまものである(写真1-2-16参照)。

 ア 大洲における初代う匠の誕生

 **さんは、明治37年(1904年)10月17日、大洲市八尾(やお)に生まれた。第二次世界大戦の時、三井物産に入って中国のハンコウ(漢口)で繊維の技師として働いた。**さんの技師としてのエピソードとして、竹の繊維を混紡した洋服を考案したり、戦争中で日本の兵隊が栄養失調になるのを防ぐため、繊維工場で働いている中国人が生糸をとりながら、蚕(かいこ)のサナギを食べていることにヒントを得て、サナギのにおいを消して粉末にし、それに鶏卵の粉末を混ぜて兵隊にはねさせた(粉末をスプーンですくい口中に入れること)。この食物が兵隊たちの栄養失調の克服に大きく寄与したという。
 戦争の激化とともに中国から引き揚げ、郷里の大洲に帰ってきた。戦後、会社からは上京してくるようにとの誘いがあったが、家族が大洲にいるので復職するのを断った。
 さりとて大洲では、これという仕事もなかった。もともと**さんは、川漁としてのアユ釣りやコイなどの魚を取るヤス漁も達者であった。大洲の基幹産業である製糸業も不景気であった。世間は不景気でも大洲には、肱川という立派な川かがある。**さんは毎日のように川漁を楽しんでいた。
 ある時、沼田恒夫市長(初代・2代市長、在職昭和29年10月1日~昭和37年9月30日)から、今でいう大洲の活性化の道はなかろうかと相談を受けた。そこで**さんは、「肱川という立派な川がある。これを活用して、う飼いをすればどうだろう。ただし、3年間はもうけるということを考えないこと。」と答えた。早速、沼田市長は、市会議員の桧垣吉太郎氏、芳我忠正氏らと相談して、う飼いを始めることとなった。それは昭和32年(1957年)、大洲市の観光う飼い事業の事始めであった。
 まず、う飼いを始める資金として、35万円を市から借り入れた。これで船を造る資金やウの購入費に充当した。最初のウは、高知から5羽を購入した。これは漁労用で、当時、高知の仁淀川には4~5名のウの漁師がおり、事情を話して分けてもらったものである。同時にう飼いの方法も学び、**さんのう匠としての生活が始まる。52歳の時であった。

 イ アイデアと創意工夫による大洲式う飼い

 **さんはウを扱うのは初めての経験である。しかしながら、中国に滞在していた時、中国式のう飼いを見ていた。**さんがいた長江(揚子江)中下流域には、クリーク(低湿地につくられた主に排水用の水路)があり、その中にハスが生い茂っている。このハスの葉の上にウは巣を作り、そこでひなをかえしている。それをひよこのうちに捕獲して、家でかごに入れて飼っている。餌はフナやナマズをすりつぶして粉にし、それにワンドフン(エンドウ)の粉を混ぜ合わせ、人間の小指大の団子にしてひなに与える。中国のウはひなから飼っているから、う綱は付けていない。ウは魚を一杯とると船に上がってくる。それを人間がはかしてやり、ウに団子を与える。そのためウは魚を食べない。う綱を使わないのが中国式である。
 市会議員と一緒に岐阜の長良川のう飼いも見学に行ったが、長良川では見物の船は岸に付けていて、う飼いの様子は分からない。最初の間は心細くて夜も寝られなかったが、それでも各地のう飼いの仕方なども研究して、技術の習得に努めた。

 (ア)かがり火の研究

 昔からう飼いのかがり火にはたいまつをたいている。う飼いを始めて**さんが最初に考えたことは、なぜたいまつを使うのかということであった。「長浜町の出海(いずみ)の漁師に頼んでコエマツを掘ってもらって、夜釣りに出掛けた。その夜は海がちょっとしけていたが、出海の沖のホボロ瀬でイサギを釣ることにした。一本釣り漁師はあのころは夜釣りにカーバイトや電気の明かりを使っていた。わたしが乗った船はたいまつを明かりとして釣った。港に帰ってきた他の漁師の魚を見せてもらったが、皆専門の漁師であるのに、わたしの方が漁師の倍も釣っていた。なるほど、たいまつの明かりは水中でよく通るということが分かった。カーバイトや電気の明かりは青く見えるが、たいまつの明かりは赤い。川でたいまつをたいて、船端をたたくと魚は右往左往して逃げる性質がある。反対に海の魚は火をたいたら全部寄ってくる。ウという鳥は逃げる魚を追う性質がある。とくにアユは逃げる速度が早い。船端をたたくことは、ウが逃げるアユを取るためでもある。」
 う飼い船にたいまつ以外にバッテリーを付けたのは、う飼い見物に来るお客にすこしでも楽しんでもらいたい。より一層う飼いを面白くしたいという考えからである。
 船のみよし(船首)にバッテリーの前照灯を付ければ、ウの動きがよく分かり、アユを追いかけて取る様子がよく見える。明かりの研究から、う飼い船にたいまつのかがり火と前照灯としてバッテリーを付けた。このやり方は大洲の特色となっている。

 (イ)取ったアユを屋形船に投げるサービス

 う飼い観光を始めたころは、肱川でう飼いをするといっても、人々はウが魚を取ることに興味を示さない。大洲の人々は肱川に慣れているから、なおのこと来てくれない。なんとかお客が来てくれるようにしなければならないということで、市会議員の桧垣さんらが仲間を誘って、5日に1回ぐらい、屋形船に酒を積んで、芸者さんを乗せて、肱川橋の下の方で、「大洲のう飼いはええわい。こりゃこりゃ。」と芸者と共に声をあげて景気付けをしてくれたりもした。一種のサクラを演じた時もあったのである。
 沼田市長からは、「**君、銭もないから給料をあげられん。取ったアユを売って煙草銭(たばこせん)にでもしたらどうか。」と言われたこともあった。「そんなことをしたらお客は来ない。田舎でやるんじゃから、他所(よそ)でやらないう飼いをする。それは、取ったアユをお客に投げてあげればええ、そうするとまた大洲へ行こうということになる。」と答えた。う飼いの遊覧船が20隻そこにおれば、それぞれの船に投げるだけのアユを取っておいて、船に投げお客から喜んでもらった。

 (ウ)ウに愛称をつける

 う飼いを楽しむお客に対するサービスとして考えついたのが、当時、人気テレビ番組に登場する人名をウにつけることであった。大洲はNHKの「おはなはん」のロケ地であり、「健太郎」や「おはなはん」は皆に知られ親しまれている。また、民放の「子連れ狼」の「拝(おがみ)一刀」や「大五郎」の名もつけた。最初は、「おはなはん、おはなはん」と言っても、ウは知らん顔をしている。名前を覚えさすために、ウと**さんとの根気比べが続いた。夜も寝ない特訓のおかげで、名前を呼べばウが反応するようになった。「健太郎」といって綱を引っぱると、ちょっと頭を人に向けるようになった。
 1隻のう船は、う匠と船頭の2人で6羽のウを使う。全部のウに名前を付けて、松山や宇和島から来た人に、ええかげんなことを言うと思われてはいけないので、お客が河原で遊覧船に乗る前に、ウの背中に赤や青のしるしをつけて、それぞれの名前を紹介しておく。
 「おはなはんをあげてくれ。」というお客の注文に、「ハイ、おはなはん。」と言って手綱を引っ張ると、ぱあとあがってくる。これがお客に大変うけて、拍手喝さいで追い追いと大洲のう飼いも知られるようになってきた。最初は、う船1隻、遊覧船5隻でスタートしたが、現在はう船3隻、遊覧船66隻にまでなった。大洲市観光協会も全国に向けキャラバン隊を出してPRに努め、今では年間2万人を超す観光客を迎える日本の三大う飼い地の一つに発展した。
 **さんは84歳まで初代う匠として活躍された。52歳から84歳までの32年間、小さなう船の上で足をふん張ってバランスをとりながらの手綱さばきは、**さんの足や腰に相当な負担を掛けたであろう。そのためか座るのが困難の御様子であるが、そのことを除くと90歳の今もなお御元気である。

写真1-2-16 ウの感謝祭

写真1-2-16 ウの感謝祭

う飼い終了で関係者が集まってウの労をねぎらう感謝祭。平成6年9月20日撮影