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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)大洲盆地農業の特色

 大洲市は、愛媛県の中西部に位置し、北は伊予郡双海町と喜多郡長浜町、東は同郡内子町、五十崎町、肱川町、南は東宇和郡野村町、宇和町、西は八幡浜市に接している。周囲を50~600mの肱川山系の山並に囲まれて大洲盆地を形成し、中央を肱川が大きく蛇行しながら流下している。市域の大部分が丘陵山岳地であり、標高200m以上の山地が総面積の73%を占め、林野71%、耕地13%強(田6%、畑7%)となっている。 
 盆地を南北に流れる肱川は、河口の長浜町まで約12km、海抜は10m前後しかなく、河口部の川幅は狭く先行性峡谷となり、河水の停滞と満潮時の滞水がはなはだしい。この自然条件が毎年のように大小の洪水を繰り返し、盆地床に土砂をたい積して肥沃な農地を造成してきた。大洲は古来大津とも呼ばれ、流域最大の都市であり、喜多郡の中心部であり、農業、特に野菜園芸の盛んな地域でもある。また、自然堤防上に開けた桑畑によって養蚕も全国的に有名であった。さらに自然現象として名高いものに、朝霧がある。近世、6万石の城下町として栄え、現在も商業経済の中心地であり、盆地を取り巻く山並みと、肱川の清流の美しさは、伊予の小京都とも、水郷とも呼ばれ観光の街としても発展してきている(㉘)。
 大洲地域の気象は「愛媛県蚕業試験場」の気象観測(1979年~1988年)によると、平均気温15.5℃、最高気温20.9℃で、最低気温11.0℃となっている。
 日照時間は、年間合計で1,750時間。水量豊かに市の中央を流れる肱川の影響で、隣接する町村の快晴の日ほど濃く発生する「大洲の朝霧」のため日照時間が少ない。降水量の1,807mmは、少雨量の瀬戸内海沿岸(1,300mm)と、多雨の山間地域(2,100mm)のほぼ中間である(㉗)。この気象条件が、大川(おおかわ)(肱川)の流れとともに、大洲盆地の農業、特に果樹園芸や野菜園芸に与えた影響は大きいものがある。

 ア 洪水と霧と農家のくらし

 **さん(大洲市若宮    大正11年生まれ 72歳)
 **さん(大洲市菅田町宇津 大正12年生まれ 71歳)
 「水郷大洲」の名で知られる大洲は肱川流域最大の都市であり河港の一つでもあった。豊かな流れは水上交通の大動脈として、流域の人々に大きな恩恵を与えた。しかし一方で、この川は洪水によって、しばしば流域の住民に大きな被害を与えた(写真2-1-23参照)。被害の最も大きかったのは、多くの支流を集めて流れる大洲盆地であった。この流域は、昭和34年(1959年)の鹿野川ダム完成までは、年間3~4回の冠水が常であり、5~10年に1度の周期で盆地全体が湖沼のようになる大洪水をこうむっている。その水害をさけるため、盆地の集落は低地をさけて、山麓の洪積台地上に立地している。低地をさけることのできない若宮の集落では、家屋は2階建てであり、水防のため特に高く石積みや盛土を施した屋敷が一般的であった。この水防用石積みは、現在も五郎地区や盆地の上流域、宇津においても見られる(写真2-1-24参照)。
 **さんの住む若宮地区は、大洲盆地のいわば下手(しもて)(下流地域)に属し、洪水の里、野菜作りの中心地として知られている。
 しかし、今は国道56号が走り、市街地化が進行し、農耕地が少なくなりつつある。
 **さんの住む、菅田町の宇津は、盆地の上手(かみて)に位置し、対岸が菅田地区で、その背後には山が近くに迫ってきているが、たびたび大小の洪水に見舞われている。この両地区における洪水と農家の人々のくらしについての口述をまとめた。
 **さん、「当若宮と南接する中村地区は、大洲で最も早く野菜作りが成立したところで、明治の初期から盛んだったといいます。先進的な冷床育苗による果菜類(キュウリ・ナス・カボチャ等)の半促成栽培が始められ、収穫された野菜は川舟で長浜に集積されて、県内外の都市に出荷されていたと聞いています。
 また、明治以降根菜類(ゴボウ・サトイモ・ダイコン・ニンジン等)の生産も盛んになり、特に、ゴボウは『若宮ゴボウ』として有名だったのです。
 洪水という自然災害は、人々のくらしに大被害を与えますが、その一方で恵みも与えます。肱川の洪水は、そのたびに泥砂を川沿いにたい積して野菜作りに最適の土ができ、その上にさらに『タル土』という肥沃土をたい積して、洪水ごとに更新をしてくれます。これが野菜の連作障害を防止するとともに、少量の施肥で間に合うのです。『大洲の野菜は洪水が作る。』といわれるゆえんです。ダムの竣工が昭和34年(1959年)ですが、それ以後大きな洪水はありません。野菜栽培の中心地は、やはり『タル土』のたい積があった地域です。しかし現在の野菜畑は、都市化の進行とともに東大洲の田ノロ、市木地区へ移動しています。
 洪水は野菜作りに恵みを与えるとともに、消すことのできない被害も与えます。農家の人々は、洪水の贈りものより、安全な野菜作りを望んでいました。朝霧は天気の前触れで、余り気にしませんが、一度の洪水はすべてを水に流し去ります。
 洪水の被害をできるだけ最小限度に抑えるため、先人はいろいろな方策を今に残してくれています。いわばくらしの知恵ともいえます。その主なものをあげてみます。」

 -高石垣-
  低地に家を建てる場合、法高(のりだか)(高さ)5尺(1尺30.3cm)土盛りか高石積みをしてその上に建てる。また、緊
 急の避難場所として人々の「こうろく」(奉仕作業)によって築設し、若宮地区にも数力所あったという。家は2階建てが普
 通であった。

 -境木(さかいぎ)-
  畑の境界に植えられたボケやマサキの立木、洪水ごとに「タル土」が堆積し境界が埋没するので、境界明示用に植えられ
 た。大洲の野菜畑景観の代表的な存在となっている。

 -「百姓は百品作れ……」-
  野菜作り農家の洪水対応上から生まれた暮らしの智恵ともいえる。多種類多品目の野菜を少量生産し、市場価格に応じて出
 荷するという。特に水害の多い若宮地区では、「……百品作れば何かで助かる」と言い伝えられ、この傾向は現在も受け継が
 れている。多種類栽培の野菜のなかで、若宮地区の特徴は、根菜類の多さである。昭和40年(1965年)には県下の野菜栽培
 面積の比率で、ゴボウとサトイモが県下一の産地になっている。このなかで、サトイモは堪水に強く、ゴボウは弱いという性
 質をもち、根菜類は、葉菜類より強い特性を利用して条植えされた桑の間に栽培されていた。

 イ 日照りと朝霧

 若宮・中村地区の野菜畑は主に自然堤防上に立地している。その堤防上は少し高めであるとともに、水はけのよい土壌のため導水路による灌漑(かんがい)は困難である。そのため野菜畑への灌漑用水はハネツルベに頼った。汲み上げられた水は「ボラシ」と呼ばれる水桶で担って運搬し、竹棒で止めた水桶の底の栓を両手で抜きながら散水したという。当地区で夏場におけるきびしい仕事であったという。豊かな水量を誇る肱川は目の前をゆうゆうと流れていたのである。
 有名な朝霧については、上天気の前兆として余り気に留めず、当然の自然現象といった感じが強い。霧に育まれたものとして、第1に桑園をあげることができる。ハクサイ等の軟弱野菜は、霧と霜によって甘味を増すともいわれているが、霧による湿気と日照時間の不足は、農作物が成熟するためには余り効果的ということはできない。
 **さん、「宇津地区は大洲盆地の上手(かみて)の山がかったところですが、たびたび洪水に会い、苦い思い出が数多くあります。当地区でも、家や土蔵は石積みの上に建てます。山が近いので緊急避難場所は多いのです。鹿野川ダムができてからは、大水にはなりませんが床下浸水はときどきあります。養蚕主体の農業も野菜作りに変わりつつあり、特にビニールハウスによる施設園芸が増加してきています。もともと桑畑の条植えの間にサトイモ等の水に強い野菜を作り、カキなどの果樹も作っていました。
 秋口から冬場にかけての霧は、桑の成育には良いのですが、カキには良くなく、病気が多いようです。クリには余り支障がなく川沿いでも多く栽培されています。
 対岸の山が有名な「神南山(かんなんざん)」ですが、大川沿いがどのように霧が深くても、200~300mも昇れば全く嘘のような上天気なのです。冬場は山からクヌギを伐って木馬で搬出し、炭に焼いて川舟で出荷し、養蚕にも使っていました。真夏には川遊びが何よりの楽しみで、筏(いかだ)に乗せてもらったり、豊富な川魚を獲ったり、自然の遊び場がいくらでもあったのです。
 今は子供達の泳ぐ場所もなくなりました。護岸工事や築堤の計画もあるようですが、できれば自然を生かした工事にしてもらいたいものです。」

写真2-1-23 蛇行する肱川と両岸の野菜畑

写真2-1-23 蛇行する肱川と両岸の野菜畑

左岸:五郎、右岸:若宮地区。平成6年10月撮影

写真2-1-24 高石垣上の住宅

写真2-1-24 高石垣上の住宅

大洲市菅田宇津にて(背後は肱川)。平成6年10月撮影