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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)野菜作り一筋

 **さん(大洲市五郎 昭和6年生まれ 62歳)
 大洲市の野菜栽培面積は、県下各市町村中で首位を占め、昭和62年(1987年)においては普通畑約870haに達する。大洲市の農業粗生産構成を見ると、野菜は約18%に達する。これは県下の農業粗生産額に占める割合からみて、大洲市の農業所得に占める野菜の地位が、他市町に比べて非常に高いことを示している。
 大洲市の野菜栽培の中心地は、東大洲地域と五郎地区が中心であり、現在も余り変化はないが、桑園はほとんど畑になっている。
 生産される主な野菜の品目を示すと、粗生産額13億5,000万円中、キュウリ1億4,600万(10.8%)、ハクサイ1億2,200万円(9.0%)、サトイモ1億2,000万円(8.9%)、イチゴ(6.4%)、スイカ(6.1%)、その他(58.8%)となっている(㉗)。このことから、近年施設園芸の充実整備から果菜類の増加と、伝統の多品種の少量栽培が推測される。
 ここでは、五郎地区で40年近くを、ハクサイづくり一筋に生き抜いてこられた**さんの口述をまとめることにした。

 ア ハクサイ作り40年

 「戦後の昭和30年ころまで養蚕が主体でしたが、農薬公害の発生と共にハクサイに切り替え、40年代からハクサイ中心に栽培しだしました。ハクサイの栽培歴40年になろうとしています。ハクサイはゴボウ作りで深耕した跡地に作れば、水はけがいいので、肥培管理が容易にできるのです。
 家内と二人の労力で当時は約1町(1ha)くらい栽培し、多い年で1.8町(1.8ha)の広さでしたが、最近では、価格の落ち込みで面積的に狭くしています。市場価格のよいときは、ハクサイを1反(10a)作れば、1反の畑が買えるほど好景気の年もありましたが近年は低迷が続いています。全国各地の有名なハクサイの産地を見学しましたが、ここ五郎の土は日本一ということができるほど、ハクサイに適した土です。肱川の洪水が『タル土』を堆積してくれたお陰です。昭和18・20年(1943・1945年)の洪水のときは、水がひいた後前の畑を歩くと長靴の上から『タル土』が入ってくるほどでした。ほかの被害がなければ、数年に1回の割合で洪水があると、野菜畑にとって土壌改良等の必要もないのですが……。
 ハクサイの播種は、収穫時の労力配分としゅんを考えて、大体8月中旬から5日間隔で播きます。作付面積の約2割を早生系統、6割中生、2割を晩生の割合で9月中旬には終了します。出荷調整と収穫時の労力配分を勘案しての作付けです。現在のハクサイは主に東大洲地区で栽培しています。最近は値崩れで、1~2反(20a)は畑で廃棄処分にすることもありますが、腐りにくいのが悩みの種です(写真2-1-26参照)。
 景気の好凶にかかわらず、ハクサイ作りを続けているのは、ハクサイほど作りやすく、手間の掛からない野菜は他にないのです。その上シーズンも長いのです。野菜畑も何も作付けをしないで休閑地にしますと、地力等の点で手がつけられなくなります。他の夏物野菜との輪作体系はとっていますが全てではありません。今後は施設野菜等の組合せも考える必要があります。
 長年ハクサイ作りを続けてきましたが、年によっては日照りの夏も何度かありましたが、灌漑用水の不足を感じたことはありません。畑に手押しポンプのある所が打ち抜きの井戸です。このパイプから動力で汲み上げるのですが、実に水量豊富で尽きることがありません。これも肱川のおかげですね。
 早生のハクサイは11月中旬から収穫しますが、ハクサイの本当のうま味が出るのは霧と霜が下り始めてからです。霧と寒さがハクサイのうま味を育てるのです。霧の時期になると「大洲のハクサイ」は市場においても高く評価されます。」

 イ 境木にみる農家の心情

 「若宮地区と五郎地区の野菜畑には、なつかしい、独得の樹形を見せている境木があります。洪水による『タル土』のたい積がなくなった畑に必要性はないのですが、農家の人々は伐ろうとはしません。むしろ残そうという気の方が強く、ふるさとの姿を感じているようです。しかし野菜畑に連作障害がぼつぼつ出てきています。土地改良工事の計画も浮かんできています。境木をどこかへ集中的に移植も考えられますが、あの野菜畑にある境木の景観は移動できません。なつかしい大洲の代表的景観が、また一つ消えるのでしょうか。(口絵参照)」

 ウ 「花の里」づくり

 「伊予の小京都、水郷大洲の名で知られる肱川は、また鵜(う)飼いやいも炊きなど、自然を生かした観光の町としても有名ですが、当五郎の里は、堤防に隠れてJRの車窓からも見えません。いわば目立たない、肱川によって隔てられて離島のような存在です。
 しかし、ここ五郎地区の大きな特色は『人々のまとまり』、和=輪にあるのです。大洲市歌はありませんが、五郎の歌は以前からあります。今も地域の人々によって愛唱されています。そのほかに、公民館活動も昔から非常に盛んに行われています。
 こういった〝まとまり〟を基にして話し合いの結果、『五郎の里おこし』を!…ということでスタートしたのが、同じ年輩の仲間15人による『花の里』づくり運動です。これは、肱川の堤防の外側の河川敷を、秋のコスモス、春のナタネの花によって、一杯にしようとする花づくり運動なのです。この花づくりを通して、川の自然を愛し、美しい花を育て慈しむ心が、また一人でも多くの人が訪れることによって、地域の人々との和と交流の輪の広がりを願っているのです。マスコミに話したわけでもありませんが、口コミによってか、昨年から多くの人々が訪れるようになり、自然に恵まれた大洲の一景観として認められてきたと思っています。平成6年の今年も力強い15人の仲間の協力で、コスモスの花を咲かすことができました。この小さい花づくりが、大洲市全体のまちおこしにつながることを期待しているのです(写真2-1-27参照)。この15人の仲間の会を『花咲くおやじの会』と呼んでいます。
 第2の特色は、大洲市全体の専業農家のなかで、後継者が最も多いのが、五郎地区だということです。わが家にも後継者が育ち、お嫁さんもきてくれました。一安心しています。
 これからの農業経営は、受け継がれてきた伝承を生かしながら、新しい感覚の農業経営していく必要があります。特に『災害は忘れたころにやってくる』といいます。この事を忘れることなく、水に恵まれ水に育まれた大洲の農業に、また人々に親しまれる農業にしていくことが必要です。
 新しい感覚の農業経営の一方策として、国道56号沿いの十夜ケ橋(四国霊場八十八か所の番外札所)の近くに『朝霧市』を開き、毎日生産された新鮮な野菜、果物を直売し好評を得ています。その朝霧市の向かいに、野菜作り農家の若い後継者のみで『百笑ふぁーむ』という直販所を設け、生産者と消費者がそれぞれの立場で、生の声を聞きながら、交流の輪を広げています(写真2-1-28参照)。
 肱川の流れと、境木のマサキやボケを愛し、コスモスの花を慈しみ育てる心根を、それぞれの人が抱いて、明日の故郷大洲に期待したいものです。」
 洪水と霧のなかで、野菜づくりに生き抜いてきた、農家の人々の根性と、故郷を愛し育てようとする心意気と心情をつくづく感じたのである。

写真2-1-26 ハクサイ畑と神南山

写真2-1-26 ハクサイ畑と神南山

大洲市東大洲。平成6年10月撮影

写真2-1-27 河川敷に咲くコスモス

写真2-1-27 河川敷に咲くコスモス

大洲市五郎にて(竹やぶの背後は肱川)。平成6年10月撮影

写真2-1-28 野菜農家の後継者のみで営む直売所

写真2-1-28 野菜農家の後継者のみで営む直売所

大洲市東大洲。平成7年1月撮影