データベース『えひめの記憶』
河川流域の生活文化(平成6年度)
(4)五十崎町の大洲和紙作り
ア 大洲和紙の先覚者の歩み
(ア) 岡崎治郎左衛門(おかざきじろうざえもん)と宗昌禅定門(しゅうしょうぜんじょうもん)
国東(くにさき)治兵衛の『紙漉重寶記(かみすきちょうほうき)』(紙漉き技術書、寛政10年〔1798年〕発行)には、「…然るを慶雲和銅(けいうんわどう)(704年~714年)の頃、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が石見(いわみ)(島根県)の守護たりし時、民をして此の製を教え漉かしむるより、此職をこの地に伝ふ事久し。(中略)隣郡浜田御領・土州・予州大洲等、各々彼地(おのおのかのち)より伝ふ。(⑤)」と記されており、江戸時代には伊予大洲の紙が他国に知られていたことがわかる。
『積塵邦語(せきじんほうご)』(喜多郡長浜の佐々本源三兵衛編述、文政4年〔1821年〕(⑥))によると、大洲藩の二代藩主加藤泰興(やすおき)(元和(げんな)5年~延宝(えんぽう)5年〔1619年~1677年〕)は、宇和島藩で紙を漉いている土佐の浪人市川平七を通して、古田(ふるた)村(現五十崎町)に住む平七の一族の岡崎治郎左衛門(永禄11年~寛文(かんぶん)5年〔1568年~1665年〕)を召し抱え、紙漉きを始めさせたという(写真2-2-10参照)。
今日、五十崎町の人々に親しまれている大洲和紙の先覚者は、香林寺(こうりんじ)(曹洞宗)に眠る「宗昌禅定門」(俗称善之進(ぜんのしん))である(写真2-2-11参照)。平岡の香林寺にある墓碑には「宗昌禅定門」、「大洲領紙漉師越前国人」、「元禄十五壬午(みずのえうま)年五月十八日」(1702年)と刻まれている。五十崎町の人々は越前奉書や土佐和紙の技術を移入した先覚者の墓前に香華(こうげ)を絶やすことなく祭っている。
天神産紙社長の**さんによれば、宗昌禅定門の墓は、元々**家の墓の隣にあったが、昭和52年(1977年)、大洲和紙が通産大臣より伝統工芸品に認定された際、**さんらが現在の位置に移転、整備したという。**さんは、「身近にある、これらの墓所は、大洲和紙の先覚者に関する貴重な文化財ですから、わたしたちは心して、いつまでも大切にしなければなりません。」と、墓所の意義を強調している。
江戸時代の大洲和紙は、元禄時代以後、大洲藩の保護奨励によって発展してきた。延享(えんきょう)3年(1746年)には、18名の紙商人が特権的な紙方(かみかた)仲買連中(座)を結成し、莫大な利益を独占した。寛延(かんえん)3年(1750年)に起こった「内ノ子騒動(*1)」は、農民たちが暴利をむさぼる特権商人や村役人・豪農などに対して激しい抵抗を示したものであった。宝暦(ほうれき)7年(1757年)からは、藩が紙の生産販売を統制するようになり、宝暦10年には、楮役所を五十崎村、北平村(河辺村)、寺村(小田町)、紙役所を大洲、内ノ子町、中山村に設置した。
藩政時代における大洲和紙の品質の良さは、佐藤信淵(のぶひろ)(江戸時代後期の思想家・経済学者)が『経済要録』(文政10年〔1827年〕刊)において、「今の世に当て伊予の大洲半紙は厚く且(かつ)其幅も優也、故に大洲半紙の勢ひ天下に独歩せり、凡(およ)そ物産を興(おこ)すの法は、世人の愛さぜる物を出すときは、必ず国益に為(な)さざるものなり、大洲の国政を執(と)る人は、経済道の要を知れりと謂(いう)べし。(⑦)」と、述べていることからも大洲和紙の評判ぶりがうかがえる。
(イ)明治以降の大洲和紙
このように日本一とうたわれた大洲和紙は、明治時代になると、いったん声価を失うが、改良半紙でもって再び勢いを盛り返した。『愛媛県誌稿下巻』は、その間の様子について、「・‥然るに廃藩置県と共に此制度自然に廃せられ資金の融通、原料の供給止まりしかば、狡猾(こうかつ)なる商人此間に乗し金力を以て製造業者を誘惑し、粗悪の原料混入の弊を生じ、製品は次第に劣悪となり、藩政時代日本一の称を博したる大洲和紙は忽(たちま)ち声価を失うに至れり。其衰運の極まれる明治19年(1886年)のころ、内子町の紙商吉岡平衛(よしおかへいえ)等、当時好評を博せし改良半紙を以って大洲半紙に代用せんと志し、高知県より職工を雇来たり、天神村大字平岡において、嘗(かつ)て大洲半紙に従事せし者十数人に改良半紙の抄製法を練習せしむること二箇月余、技術の習得終わりて、茲(ここ)に始めて三椏製の改良半紙を抄出(しょうしゅつ)せり。(⑧)」と記している。
イ 井口製紙から天神産紙へ
**さん(喜多郡五十崎町平岡 大正11年生まれ 72歳)
大洲手抄和紙協同組合長の**さんは、大洲和紙が生き残ってきたことについて、「自然環境条件では肱川と小田川の豊かな水、人為的政策では大洲藩の保護統制と奨励、人為的効果では内子町の吉岡平衛と五十崎町の井口重衛(いのくちじゅうえ)の努力があげられる。この二人がいなかったら、おそらく大洲和紙は滅んでいたのではなかろうか。」と、三つの要因をあげている(天神産紙では、1日、約200tの小田川の伏流水を使用する。)。
大洲和紙を代表する手漉き和紙工場は、五十崎町の天神産紙であるが、その前身は、井口重衛が大正6年(1917年)に設立した井口製紙である。井口製紙は、好景気の一時期には50槽、200人の従業員を雇用するまでに発展したが、昭和初年の経済不況によって昭和5年(1930年)に倒産し、大洲銀行の所有となった。
「伊豫紙見本帖」は、井口重衛について「抑々(そもそも)喜多郡二於ケル改良紙ノ製造ハ前述ノ如ク内子町吉岡平衛氏ノ創意ニアリシト雖(いえど)モ爾来(じらい)今日ノ盛況二至ラシメタルハ天神村井口製紙工場主井口重衛氏ナリト云フモ過言ニアラズ(④)」と述べている。
その後、大洲銀行五十崎支店長の大野象三郎が井口製紙の経営を引受け、天神産紙と改称し、**氏が専務として伊予鉄道から迎えられた。現社長の**さんは、**氏の長男にあたる。
**さんは、五十崎町で育ち、旧制大洲中学校(現大洲高校)をへて広島高等工業学校機械科(現広島大学工学部)に進学した。昭和19年(1944年)、学徒動員により陸軍に入隊、金沢航空工廠(しょう)において零戦(ぜろせん)の製造に従事し、陸軍中尉で終戦を迎えた。
終戦直後の昭和21年(1946年)1月、**さんは、父親が、戦時中の天神産紙における気球用紙製造の過労により急逝したため、五十崎町に帰って天神産紙に勤めるようになった。
**さんは「終戦直後の昭和21年、わたしが天神産紙に勤めはじめたころ、大洲和紙改良組合の会合には、78人の紙漉き業者が集まりましたが、今は五十崎町の3軒に減ってしまったのですよ。また、全国600か所あった紙漉業者も、今では250軒ほどに減ったのですからね。」と、大洲和紙の衰退ぶりを残念がっている。
現在、大洲手抄和紙協同組合は、野村町の方を含めて4業者で構成されている。
ウ 天神産紙の特色~日本一の手漉き和紙工場
天神産紙は、日本一の手漉き和紙工場である。天神産紙の特色は、**さんによってまとめると、次の五つになる(写真2-2-12参照)。
(ア)伝統工芸の技(わざ)を誇る
現在、天神産紙は、漉槽6槽を備えており、経営規模と生産額(売上高年間約1億円)は日本一である。このことについて、**さんは「手漉き和紙工場で日本一というのは、父の代から間違いありませんが、適切な表現ではありません。この程度の工場が他にないからです。それだけ手漉き和紙業者は零細な家内企業だということでしょう。」と、衰退した手漉き和紙業界の実情を残念がっている。
天神産紙の従業員15名のうち、男性は、社長、専務(長男)、仕上げ1名、裁断・選別1名、原料処理1名(通産省認定の国伝統工芸士)の5名である。女性は紙漉き6名(国伝統工芸士5名)、乾燥3名(愛媛県認定のえひめ伝統工芸士3名)、販売1名の10名である。そのうち、職人13名は五十崎町の無形文化財に指定されている。
したがって、天神産紙の二つ目の特色は、紙漉きや原料作り職人の技が日本一に類するということである。職人の平均年齢は、男性66.7歳、女性67.6歳であり、7名が大正生まれである。最高年齢者は74歳(国伝統工芸士)であるが、昭和16年(1941年)に入社してから、紙漉き53年の勤続を誇っている。また、天神産紙では、共働きの夫婦が3組あり工場の支えとなっている。
**さんは、「こんな紙を漉いてほしいと注文があれば、ベテランの職人さんたちによって、どんな紙でも漉くことができます。天神産紙で漉けない紙はありません。そのお陰で天神産紙の紙は良い紙として全国的に知られるようになり、市場における価格も高くなりました。だから今日までやってこれたのですよ。」と、天神産紙の匠たちの技をたたえている。
(イ)叙勲に輝く紙漉き女性-55年の技
**さん(喜多郡五十崎町平岡 大正10年生まれ 73歳)国伝統工芸士
**さんは、昭和14年(1939年)から今日まで55年間にわたり、天神産紙に勤めている紙漉き女性である。母親も天神産紙の前身である井口製紙で紙を漉いていた。
**さんは、平成2年5月、勲七等宝冠章を受賞する栄誉に浴した。紙漉き女性の受賞は、全国において初めてのことであり、ひたむきに紙を漉いてきた**さんの、半世紀を越えるキャリアをたたえたものである(昭和54年〔1979年〕、通産省の伝統工芸士に認定される。)。
**さんは、紙漉きを始めた若いころを振り返って、「わたしが紙漉きを始めた娘ころの天神産紙には、紙漉きだけで40人(40槽)ぐらい、紙張りも40人ぐらいおりました。また、原料作りが5、6人、その他手伝いが2、3人ぐらい、合わせて約100人ぐらいおったでしょうか。」と、かつての盛んな様子を語ってくれた。
紙漉きの技については、「紙の作り方自体、昔とあまり変わっていません。原料の叩解(こうかい)が機械化したくらいです。紙漉きの技術の基本は、3年くらいで一応身に付きますが、紙漉きのコツは、やはり経験、年季です。原料とノリ(トロロアオイの根汁)を混ぜた水をすくって、一定の厚さに漉くのがコツですが、1枚1枚の出来具合には微妙な違いがあります。1枚12gなら12gと、すべてを同じ厚さに漉くのが一番むつかしく、何年やっても苦労するところです。商品価値のある良いものを心がけるのですが、なかなか思うようには漉けません。わたしの場合も自己採点すれば100点とはいかず、70点から80点くらいでしょうか。やはり、この仕事に打ち込んできたことが、一番自分に合っていたのでしょう。」と、控えめに語っているが、一筋に紙漉き55年の道を歩んできた女性の重みを感じさせられた。
(ウ)販路の開拓~「美濃と経済競争をした天神産紙」
三つ目の特色は、天神産紙の製品が多種多様にわたることである。主として書道用紙・障子紙・表装用紙・色和紙・美術紙などを漉いているが、紙の寸法(サイズ)は10種類ほどあり、それ以外でも全国からの注文に応じて各種の寸法の紙を作っている(天神産紙には、各種の寸法の簀桁が揃っている。)(写真2-2-13参照)。
四つ目の特色は、紙製品の販路開拓に成功したことである。**さんは、昭和25、6年(1950、51年)から30年ころ美濃地方(岐阜県)に売り込みをはかった。販路開拓に成功した要因について、「美濃では原料(コウゾ・ミツマタなど)を内地物に頼り、輸入物は使わない。天神産紙では直接農家から原料を買い、また輸入物も使って原料のコスト・ダウンをはかったのです。美濃地方は天神産紙の倍の値段の原料を使ったわけですから、技術のみならず原料でも差がついたのですよ。」と、当時の進出の様子を振り返っている。
**さんによると、「ただし、天神産紙の製品は、天神産紙のレッテルで販売しているものは少なく、美濃紙のレッテルで売られている紙の大半は天神産紙の製品です。ちょうど灘の酒が地方の地酒を基に作られるようなものですよ。一般の消費者は、美濃紙が天神産紙で作られていることを知らないでしょう。美濃の同業者が『美濃は**に滅ぼされた』とよく冗談を言いますが、ある意味で真理を突いていますよ。それだけ日本の手漉き和紙が衰退したことを意味します。大きく言えば、日本の手漉き和紙は安価な中国製品に負け、さらに韓国製品に負けたと言っても過言ではないでしょう。」と、国際競争にさらされた手漉き和紙業のきびしい現状と前途を憂えている。
天神産紙の主な取引先は、岐阜市(深和紙店・ニシコウKK)、鳥取市(因州和紙KK・山名紙業)、京都(津久馬紙店・鳩居堂・森田和紙)などである。
(エ)技術改良の苦労~ミツマタからマニラ麻へ
五つ目の特色としては、原料生産の改良について大変苦労を重ねたことである(写真2-2-14参照)。もともと、かな書道用の薄い半紙や複写用紙(カーボン紙を敷いて一度に数枚複写できる薄い用紙)の原料はガンピ(雁皮)を使っていたが、それに代わるものとしてミツマタが使われるようになった。
しかし、ミツマタは、昭和24、5年ころから紙幣の原料として政府(内閣印刷局)が買い上げるようになった。政府買上げ価格が上昇したため、民間の和紙業者にとっては、原料購入の上で採算がとれなくなったのである(現在、ミツマタの生産は高知県が中心であるが、10貫(約37.5kg)が約9万円である。和紙業者の採算範囲は3万円という。)。
そのためミツマタに代わるものとして、昭和34、5年(1959、60年)ころからマニラ麻を原料に使うようになった。ところがマニラ麻の原料で漉くと、紙床から一枚一枚がうまくはげてくれない。しかも複写紙などの紙質が弱くなって破れやすくなったのである。そこで紙質を強くするため、ワラの芯(穂先の第一節の芯でスベという。)を入れて紙質を強めることに取り組んだ。**さんは、ミツマタからマニラ麻に転換したころの技術開発について、「ワラスベの加工技術には大変苦労し、試行錯誤の連続で、血の出るような思いをしました。この技術開発によりマニラ麻の複写紙製造に成功し、ミツマタにくらべて3分の1くらいのコスト・ダウンができました。当時の手漉き和紙の生産費では、原料代が6、7割を占めていたから大きい成功でしたよ。」と、当時の苦労と成果を振り返っている(現在は、人件費が8割で、原料代は1割ぐらいと逆になったという。)。
(オ)天神産紙、今後の方向と課題
昭和10年代から30年代にかけて、天神産紙の主要製品は複写用紙であった。天神産紙の複写用紙は、カーボンを敷いて5、6枚複写できると評判になり、良く売れたという。しかし、技術革新と経済の高度成長の過程で、複写機の出現と普及により手漉き複写紙は売れなくなって、斜陽産業の坂道を下る典型となったのである。**さんは「複写機普及の先を見越して、複写用紙をいち早く多種多様な紙製品(版画・書道・表装用紙など)に切り替えました。この切り替えが早かったので、天神産紙は生き残ることができたのですよ。」と、当時の情勢判断と見通しの確かさについて語っている。
今後、大洲和紙が生き残る道について、「これからは、観光面で手漉き和紙を生かしていかねばならないでしょう。現在は漉いた紙を売っているが、今後は、紙を漉く様子を観光客に見せるようにして活用を図りたいですね。津和野(島根県)など、紙漉き場を観光資源に活用している全国各地の例を参考にして、今後の対策を進めるよう専務と話しているところですわ。」と、今後の進むべき方向と姿を描く**さんである。
ちょうど今、五十崎町では、天神産紙のすぐそばを新しい県道が、小田川東岸に沿って内子町まで建設されている。いずれ天神産紙に観光バスが直接横付けされるようになるだろう。さらに、伊予市から大洲市まで高速道路が開通する日も遠いことではない。
清流豊かな小田川のほとりで、伝統的工芸品として名高い大洲和紙の技を守る天神産紙に、新たな期待が寄せられている。
エ 地域とともに歩む長野製紙
**さん(喜多郡五十崎町平岡 昭和3年生まれ 66歳)えひめ伝統工芸士
**さんの父は、川之江市上分町で紙を漉いていたが、大正5年(1916年)ころ、五十崎町に転居し、井口製紙で働いた。昭和15年(1940年)、父親は1槽でもって独立し、製紙業を始めた。
昭和18年(1943年)、**さんは、天神尋常高等小学校を卒業した後、姉とともに紙漉きに従事し、父を助けて家業を支えてきた。
昭和31年(1956年)、**さんは結婚し、夫婦二人三脚で紙漉きを営んできた。昭和63年(1988年)、紙漉きの腕を上げた妻は、「えひめ伝統工芸士」に選ばれ、**さんも平成4年に「えひめ伝統工芸士」に選ばれた。
現在、長野製紙は、従業員4名(紙漉き女性2名、男性1名、乾燥の女性1名)、3槽で紙を漉いている。紙の種類と割合は、障子紙40%、半紙40%、凧(たこ)用紙20%で、生産額は、約3千万円弱である。**さんは、「やはり、ミツマタやガンピも水質が第一です。小田川の豊かな伏流水のお陰ですが、最近は生活排水の影響でやや悪くなってきましたが。」と、五十崎町における紙漉きの立地条件の良さをあげている(長野製紙では、1口約20tの水を使用している。)。
(ア)設備と技術改良に取り組む~販路の拡大
**さんは、これまでの紙漉きの歩みにおいて技術改良と販路拡大に大変苦労した。
紙漉きを始めたころは、原料製造の過程において、ミツマタの繊維とゴミとの選別は手で一つ一つやっていた。まず、原料選別を能率化するため、高価な設備であったが、チリ取り用スクリーンを設置して大量のミツマタが処理できるようになった。五十崎町では、一番早くスクリーン設備を導入したが、この技術改良によって、漉槽を3槽に増やすことができるようになった。
昭和30年(1955年)ころは不況に苦しんだが、スクリーン改良により昭和31年には4槽に増加し、東京に販路を広めた。日本橋の「滝石」や神田の「大橋」などの紙問屋と取り引き(半紙)を始め、念願の東京進出を果たすことができたのである。
2回目の技術改良は、昭和39、40年 (1964、65年)ころに試みた。これまでコウゾをさらす場合、カルキが過ぎたら繊維を痛める傾向があったが、化学薬品のネオシロックスを使ってコウゾのガスさらしに成功した。**さんによれば、「技術的には、これが一番うまくやれました。このお陰で今日まで紙漉きがやれてきたのですよ。さらに、五十崎町の手漉き業者のみなさんとともに、販路(障子紙)を岐阜へ拡大することができました。」と、設備と技術改良の成果を振り返っている。
また、この時期には、手作業でやっていた紙の裁断を自動裁断機、オガクズや薪(まき)を使っていたボイラーも完全自動化に切り替えた(写真2-2-16参照)。
現在の主な取引先は、岐阜市(ニシコウKK)、美濃市(深和紙店)、鳥取市(井上紙店)、東京(KK大橋)、川之江市(KK石富商店)などである。
(イ)和紙の手刷り印刷を始める
**さんは、昭和60年から愛媛県の中間技術開発事業の指導をうけ、手摺り印刷の技法をマスターして和紙印刷を始めた。この和紙印刷技法は、シルク・スクリーン機(タオル印刷用)を使うことによってコウゾ紙を6色に印刷することができた。その結果、凧用紙・ポスター用紙・団扇(うちわ)用紙などが多量に色刷りできるようになった。**さんは、紙漉き生産に加え、和紙の手刷り印刷技法を生かして、地域との連携を一層深めるようになった。
(ウ)地域と一体となって
**さんは、地域を大切にし、地域と密着した紙漉き業の営みをモットーにしている。**さんの取り組みは、次のとおりである。
a 全国から凧用紙の注文
**さんは、地元五十崎町の凧用紙をはじめ、全国各地から凧用紙の注文に応じて漉いている。「平成元年、五十崎町に凧博物館が開設されてから、凧博物館を通して北海道から九州まで、全国から注文が増えてきました。それまでに昭和40年代から全国各地に出向いて、凧博物館展示用の凧を集めているうちに各地との交流が深まりましたのですよ。青森の『ねぶた祭り』のねぶた用紙の注文もあります。今年(平成6年)は、浜松の凧合戦用紙(来年5月実施)1万枚(100cmx60cm)の注文があり、目下漉いています。凧用紙は、コウゾに松ヤニを少し入れて絵が書きやすいように、また薄くて丈夫な紙が要求されますが、やり甲斐がありますよ。」と、全国的に広がった凧の取引と交流の意義を語っている(凧用紙は、天神産紙など地元業者が一年交代で漉いている。(写真2-2-17参照))。
b 手漉き和紙の卒業証書~手刷り印刷の技法を生かす
次に、地元五十崎町の小学校3校、中学校1校の学校、PTAと連携して和紙の卒業証書を漉き、証書の枠と本文も手刷りで印刷している。温かい感じの和紙の証書は、児童・生徒たちに大変喜ばれている。
平成6年12月には、五十崎小学校6年生29名全員が、長野製紙所で卒業証書を漉き、貴重な体験学習となった。
また、五十崎町の一大イベントである凧合戦(5月)、凧あげ大会(10月)のPR用ポスター、大洲高等学校の藤樹祭(文化祭)や五十崎町踊り大会(7月)に使う団扇用紙を引受けるなど、地域の様々な教育活動、生活文化行事と積極的にかかわって、大洲和紙作りの本領を発揮している。
(エ)後継者養成中
伝統産業の大きな悩みである後継者の問題は、**さんも例外ではない。**さんの長男、次男は県外(東京・大阪)で就職しているため、直接の後継者はいない。しかし、**さんは、目下後継者を養成中である。五十崎町で木器製作業を営んでいた**さん(48歳)は、紙漉きを志して今秋から**さんの紙漉き場で修業を始めたのである。
「**さんは、原料処理の基本工程から始めて、目下、先輩の女性紙漉きさんとともに紙漉き修業に熱中しています。さらに将来は、営業活動も身に付けてもらって長野製紙の後継者となるように願っています。」と、大きな期待を寄せている。
やがて、長野製紙には、たのもしい男性紙漉きが誕生して長野製紙を支えるとともに、凧用紙はじめ伝統ある大洲和紙作りの担い手となることであろう。
*1:江戸中期の伊予国における代表的な百姓一揆で、大洲藩領の3分の1以上の地域にわたる浮穴郡・喜多郡14か村の農民
18,000人が、過重な年貢負担と村役人に対する反感から蜂起し、村々の庄屋・豪農・富商を襲撃した。大洲藩は農民の要
求をほとんど承認し、農民側の犠牲者を出すことなく収束した。
写真2-2-10 岡崎治郎左衛門の墓(五十崎町指定史跡) 五十崎町上村墓地。平成6年9月撮影 |
写真2-2-11 宗昌禅定門の墓(五十崎町指定史跡) 五十崎町平岡 香林寺境内。平成6年9月撮影 |
写真2-2-12 天神産紙工場(左:大洲和紙会館、右:紙漉き工場) 五十崎町平岡。平成6年10月撮影 |
写真2-2-13 天神産紙の主な製品(通産省認定伝統的工芸品の書道用半紙、障子紙など) 大洲市和紙会館。平成6年11月撮影 |
写真2-2-14 天神産紙のさらし場(約50m²が3か所) 煮熟したコウゾ、ミツマタを小田川の伏流水でさらす。平成6年6月撮影 |
写真2-2-16 長野製紙所の自動裁断機 平成6年6月撮影 |
写真2-2-17 **さん作製・印刷の凧用紙 平成6年10月撮影(縦62cm×横48cm) |