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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)肱川往来

 ア 「水の道」肱川

 川は文明を映す鏡であり、歴史を語る流れだ(大内尚樹著「多磨川水流紀行」)といわれるように県下最大の河川肱川は、水面に映る花や緑、盆地を覆う川霧、そして夏には鵜(う)飼いのかがり火等四季折々の自然や風物、それに人々の生活の様をずっと昔から映し続けてきた。
 肱川本流(河系のなかで、長さや、流量、流域面積のいずれかに優れている河川を本流または幹川という。)の水源は、標高460mの東宇和郡宇和町正信に発し、流路を南から北東に迂回して40km流れ、黒瀬川を合流し、北西に方向を転じて約15km流下し鹿野川ダムに貯水しながら河辺川、次いで小田川を鳥首(とりくび)で合わせて、肱川本流となる。流路は約50km、その間小支川を合わせて流下し、根太(ねぶと)山、冨士(とみす)山を迂回し、大洲盆地を貫流してJR予讃線五郎駅の近くで矢落(やおち)川を合流して北西に先行陛流路(*1)をとり、長浜で伊予灘に注いでいる。
 幹川流路延長89.1km、流域面積1,210km²県総面積の5分の1に当たり、山地が91%を占める。地形的に複雑な河川で大小の支流が放射線状をなし、その数は311、全国でも淀川・旭川・江(ごう)ノ川に次いで4番目に支流が多い。
 さらに肱川には全国的にも珍しい特徴がある。それは、河口部が狭く、川の上流・中流に大洲などの盆地が開けるという自然条件が他の河川とは全く逆になっていること。また、四国内の河川で吉野川・四万十(しまんと)川・仁淀(によど)川に次ぐ流域面積を有し、河床勾配(かしようこうばい)はきわめて緩やかで水量が豊かな河川であることなどである。このように肱川は四国の瀬戸内海側ではただひとつの可航河川としての条件を備えていたので、明治末期から大正にかけての道路開通までは、上流奥地から河口の長浜を結ぶ唯一の交通路として、農林産物および生活必需品等を川舟や筏(いかだ)で運んでいた。
 このため昔は、この肱川を「水の道」といって、材木などを筏にして流す「筏流し」や物資を運ぶ「帆かけ舟」の姿が肱川のそこかしこに毎日のように往来していたようである。しかし、その後昭和に入っての道路・鉄道の開通にともなって、バス・トラック・鉄道の輸送能力がようやく本格的に伸びてくると輸送の中心は次第に陸上へと移っていった。
 肱川が四国の瀬戸内海側の唯一の可航河川として条件を備えていた理由について芳我幸正さんは『肱川の舟運(②)』のなかで次のように記している。
 それは、山地多雨帯に属する集水面積が広いこと、深いV字谷の底を穿入蛇行(せんにゅうだこう)(河川が山地にくいこんで両岸が非対称的な谷を造る蛇行。)する川で平地の川のように水量が外部に透散しないから天井川にも網流河川(勾配が急なために水はたまらず河床は砂礫(れき)が堆(たい)積して水路が網の目のように小さくなる川)にもなり得ないこと、そしてさらに大きな理由には四国島の一般的な地殼運動が逆傾斜(川の流れと反対に傾くこと。)的な動きを持つこと等である。また、曲率が高く河道(*2)の実長がより長くなっている(河床勾配が極度に緩やかで、細く曲がった谷底の水が瀞(とろ)状に停滞して流れることも考えられる。)。

 イ 肱川の風物詩

 **さん(大洲市大洲 大正7年生まれ 76歳)
 「昔肱川は『水の道』といわれていて、『筏』や『帆かけ舟』が毎日のように往来していました。それが肱川の風物でもあった。」と肱川の思い出を懐かしみながら**さんは語る。
 「わたしの記憶によると、わたしの家は割烹(かっぽう)旅館を経営するかたわら、運送業というか川舟を数隻所有し、船頭衆を雇って大洲を中心に産物を長浜の河口へ、また、下流から上流へと肱川を往来する舟運を仕事の一つとしてやっておりました。そのほかに材木商と、5月から11月の期間は大洲を中心として周囲のお百姓さんが飼います蚕でできる繭(まゆ)を乾燥する仕事もしていました。当時は浮亀(うきき)橋(明治30年〔1897年〕ころ船を橋脚として、その間に桁(けた)を掛けて横板を並べて荷車や人力車が通れるようにした船橋。)を渡ったところの近くに繭の商いをする売買所があり、その隣に大洲商業銀行の本館(現在平成3年5月おおず赤煉瓦(れんが)館として再生。)がありました。
 筏流しが盛んになったのは、明治になって近代産業振興のために木材の需要が急増してからのことで、わたしの家の材木の商いも、わたしが物心ついたころには、ばりばりやっていました。
 山で切った木を3~4mの長さに切り、末口(すえくち)(丸太材の細い方の切り口のこと)を前にして数本組んで幅2mくらいに結(ゆ)わえる。これが一棚で、これを8~12棚ほどに連結させて『一流(ひとなが)れ』または、『一先(ひとさき)』と呼び、これに普通二人の筏師が乗り込んで川を下り、長浜の伊予木材や松田木材が平均して月に1回ずつ行う材木の市売りに出していました。
 一番先頭の筏は、動物が首を振るように筏の首も右にも左にも振れるようにし、方向転換ができるようにしていた。先頭棚と二番棚の係留は真ん中だけをしっかり係留していて、両端の係留はカズラを使用してゆとりをこしらえ自由に動きがとれるようにしていた。
 川の瀬に乗って
     下へ下へと枯木を流す    流す枯木に花が咲く
     歌の出どこは加屋より下よ  歌い流せや長浜へ
と小唄をくちずさみながら乗っていました。そして3~5流れを団体にして流していたので、その眺めは実に壮観だった。」と**さんは当時を振り返る。
 しかし、筏師家業は楽あれば苦ありで、迫る山肌の曲流を巧みにさばきながら下ればよいが、ときに操縦を誤って岩に激突したり、筏が分解したりして思わぬけがをする危険もあったとか。
 「この筏流しは、肱川の河口長浜の町を三重県の新宮や秋田県の能代のように木材の一大集散地にしましたが、各地の林道が開発され流通事情が一変したため昭和28年(1953年)を最後に肱川の風物詩『筏流し』も全く姿を消してしまった。
 大洲は製糸工場が多く(大洲の生糸生産工場は明治の末期から大正の創業が多く、約30工場が肱川の伏流水に依存して分布していた。)、朝5時には工場の蒸気機関のボイラーから蒸気をぬいてピーと鳴らす。それが工場の寄宿舎におる女工さんたちの起床ラッパがわりでした。この音によって、工場周辺の住民も大体5時には目を覚ましたものです。5時に起床して身支度をして6時30分には仕事にかかっていた。木を切る人も、山の草を刈りにいく人も、商人たちも女工さんに負けてはいけないと働いたものです。女工さんが多いときには2,500人くらいおりました。夕方になりますと女工さんたちは、洗面器に化粧道具を入れて河原に出て、膝(ひざ)くらいまで川の流れに入って長い髪を洗っていた。その姿はなかなかちょっと見られない光景でした。また、その時川上から筏流しがやってくると河原からヤンヤと手を振ってはやしていました。
 また、当時の肱川といえば『帆かけ舟』も風物詩として有名でした。肱川の『帆かけ舟』は豊かな水量と緩やかな流れを利用して、道路の開通までは交通の動脈として重要な役割を果たしていました。川舟で上流の野村町坂石や肱川町の鹿野川からは、カシ・シイの用木や木炭などの林産物が運ばれ肱川町から大洲までまる一日でした。中流の菅田(すげた)・五郎・八多喜(はたき)方面からは、穀物・野菜・繭等の農産物が積み出され、河口の長浜方面へ、大洲から長浜へ一日でした。上りは大阪方面から仕入れてきた肥料・塩・酒・しょうゆ・砂糖等生活雑貨が川上の村々まで届けられ、坂石までは4日だった。
 朝早く長浜から上げ潮と追い風で一気に五郎あたりまで上り、その先は急瀬のため数隻の川舟がモヤイ(共同)で上っていました。舵(かじ)取役が一人だけ舟に乗り、2~3隻の川舟を連結してうまく誘導し、他の者が50mくらいの綱で引っ張っていました。
 肱川を長さ8~10mの川舟が、長さ7mくらいの帆柱を立て、真っ白い帆にいっぱいの風を受け威勢よく列をなして肱川をさか上っている眺めは何ともいえない光景でした。また、清流そのものの肱川の河原で、丸まげの髪を結い、着物や帯姿だった女性のいも炊き風景も、素朴でしかも家庭的な雰囲気が感じられました。
 わたしの家にも常時4隻の川舟がおりましたが、昔の『帆かけ舟』には屋根がありません。大体全体の長さが現在鵜飼いの鵜匠が乗っている舟と同じくらい。舟のミヨシ(先端)がもち上がっていた舟を船頭たちはカッコイイと言っていました。わたしの家では、鹿野川の船大工さんを半年くらい泊まり込みで雇いまして、繭のオフシーズンに舟を造らせていました。大体造るときは3隻くらい造って船頭を雇い、観光割烹旅館のお客さんの川遊びに使っていました。その舟も3年たつと色があせてくるので、その船頭に無償でやっていました。そうしますと船頭は3年たてば自分の舟になるものですから、その舟の手入れは怠りなくやってくれますし、よろこんで大事に扱ってくれました。この後、船頭は自分の持ち舟として荷を運んでいました。わたしが小学校4年生の時の誕生日だったと思いますが、誕生祝いとして祖父からお前の遊び用じゃと言って新造船をもらいました。」と**さんは語っていたが、当時の舟運の興隆が推し量られるようである。
 「この『帆かけ舟』も大正13年(1924年)に大洲~鹿野川間に道路が開通し客馬車などが走るようになってから次第に衰微の一途をたどるようになりましたが、でも、わたしの記憶では昭和10年(1935年)ごろまでは残っていたと思います。
 肱川に『帆かけ舟』や『筏流し』がみられたのどかな時代、全くその風物詩はみられなくなってきたが、しかし、現代の若者たちは、かがり火を川面に映しながら華やかに繰り広げられる夏の夜の鵜飼い、赤提灯をともした遊覧船と、ざわめく歌声などいつまでも肱川の思い出として残ることと思う。」と**さんは語る。

 ウ 小田川筋を行き交った船頭・筏師

 (ア)川舟船頭が語るふるさとの昔

 現在は「帆かけ舟」、「筏流し」の姿はみられない。その上に昔船頭や筏流しをした経験者も少なく調査も容易でない。幸いに五十崎(いかざき)町中央公民館に、「古老に聞くふるさとの昔」というテーマで、昭和52年7月五十崎町下宿間(しもしゅくま)の**さんに聴取したテープがあり、それよりまとめる。
 **さんは旧宇和川村萩の尾出身で、昭和10年に移住された。「大正10年(1921年)ころから10数年間川舟の船頭をしたことが昔のことでは一番の思い出である。」と語っている。
 「わたしは18歳くらいから船頭の仕事をやりましたが、当時は鳥首の橋もなく、生活物資や肥料、セメント等すべて川舟で運ばれてた。小田川と肱川が合流する坊屋敷(ぼやしき)に舟着き場があって、主に鹿野川に上るコースが仕事場であった。下りだと長浜までは一日でいけたが、上りは大変な仕事で大抵2隻の舟をつないで荷を積み、140貫(約525kg)くらいもある黒牛に引かせて上るのでわずかな距離の坊屋敷から鹿野川まで半曰くらいかかった。1隻の舟に一人ずつ船頭が乗り、河原を歩く引き牛にも牛引きがいる。夏も冬もパンツに上着だけひっかけた姿で仕事をしたが、若いころだったのであまり寒いとは思わなかった。
 引き牛は、農家からモヤイで借りますが、この牛は引き牛専門で特別に大事に飼われていた。それというのも、この牛が農家にとっては数少ない現金収入源であったからで、休憩するときなどは牛を日陰に休ませ、自分たちは日向(ひなた)に休んだといわれるくらい大切にし、特別の餌を食べさせていた。
 当時の土方の仕事は日当が50銭くらいだったが、船頭は5円くらいになった。川舟は坊屋敷でも30隻くらいあったが、忙しくて仕事に追われる毎日だった。
 昭和の初めころが全盛期だったと思うが、鹿野川と坊屋敷には事務所と倉庫があって、いろいろの生活物資を上り便に、ミツマタや林産物を下り便に積んでいた。木材は筏に組んで長浜へ流していたが、ここでは舟ばかりだった。また、荷物だけではなく、定期船といってお客を運ぶ舟も鹿野川~坊屋敷間を一日一往復していた。そのほか内子から鳥首へは乗り合いバス(7人乗りくらい)や人力車も通い船便と合わせて交通が盛んであった。しかし、鳥首に橋がかかってからは、舟の利用が馬車に代わり、船頭も仕事がなくなった。」と語っている。
 『肱川の舟運(②)』によると、この川舟も大正7~8年ころになってようやく衰えの色が濃くなってきて、13年(1924年)に大洲~鹿野川間の県道が完成されて、その衰微は決定的となった。道路ができて川舟が荷馬車に代わり、やがてトラックやバス等の交通機関の発達はついに川舟の機能を失わしめ、その歴史的使命を閉じさせたのであった。

 (イ)花形職業だった筏流し

 **さん(喜多郡内子町大瀬 昭和2年生まれ 67歳)
 **さん(喜多郡内子町大瀬 昭和14年生まれ 55歳)
 上浮穴郡小田町の奥、小田深山(みやま)に源を発する肱川支流の小田川。この川には終戦前後まで肱川河口の長浜へ木材を筏で出荷する河港があった。それは、小田川と田渡(たど)川が合流する同町吉野川突合(つきあわせ)である。
 「良材の産地小田深山や田渡地区で伐採された木材は、昔は輸送関係上重いため木の皮をはいで3~4mの長さに切り、通常3~5か月間ほど山で乾燥させる。そのためには木をきちんと積む必要があった。そして乾燥させた木を馬や牛の背で筏の組み場(組み口という。)へ運んでいた。内子町境の突合には堰(せき)があり、組み口の水をせきとめ、出発と同時に一度に水を流す方法がとられていた。(写真3-1-5参照)」
 **さんは16歳のときに筏師の組織である川登(かわのぼり)筏流し連中の責任者の方から推薦され父の後継ぎとして筏師になった。筏の組み作業も、筏流しの作業も個人単独ではできなく、共同でする作業が多かったことから、組織をつくってこれに対処した。肱川の本川筋では「組合」、支流の小田川筋ではこれを「連中」と呼んでいた。これは共同作業のための組織だけではなく、組合員の相互扶助(頼母子(たのもし)講をつくって組合員が自転車など必需品を買いやすくする。)のための組織としても機能していた。小田川筋には水元連中、川登連中、和田連中があった(④)。
 「連中というのは元気で一人前の仕事ができている間はいいが、年齢とともに技術はあっても体力は衰えてきて若いものとのバランスがとれなくなってくる。一人役もらっておれば、それ相当の仕事をしなくてはならない。元気で人の分まで働いているときはいいけれども、人から助けてもらわなければいけなくなったら早く身を引かなくてはならないと父はよくわたしに話していましたが、55歳のときに辞めました。それから父は、荒れた山を買って、だれからも束縛されずに木を植えて山を太らせるという、今までのような切った木に乗るのではなく、育てる方に変わったのです。」と語る。
 技術を要する筏師は、普通5~6年辛抱しなければ一人前になれなかった。一人前になるためには、まず、筏を組むこと、筏流しの技術をマスターすることが先決だったとか。100サヤ(3棚)の筏が組めれば一人前とみなされていたという。**さんは、「戦時中で人手不足だったため早く筏に乗せられ短期間にたたき上げられた。言葉で教えるのではなく、実際に筏に乗って自分が体験した中で体で覚えていく。それだけに大変な苦労で若い時は本当によくしかられた。筏を組むのにもアナグレと呼ぶマサカリ風のもので両側の木に穴をあけ、桟木(さんぎ)(カシの横木)を横にして置きカズラを通してしばるのですが、慣れないときれいに穴があかず、そうするとカズラがうまく通らない、そこで開けようが悪いとしかられる。深くあけると今度は割れるといってしかられる。この後組んで木を重ねますが、組みようが雑だと下っていったとき、グリングリンして筏はまっすぐに流れず遅れる、そうすると遅いといってしかられた。」と語る。
 「一番最初に筏に乗せてもらったときは、うれしいという反面恐ろしかったです。筏は15~6棚ほど連結していたのでその長さは約50mくらい、その先頭に乗るのですから、瀬のところを蛇行していくときなどは岩にぶつからないようにそれは気が気ではなく、命懸けでした。熟練者は『瀬ありや沼あり』と川を熟知していた。天気を知るカンも舟と同じで、自分で熟練してカンを磨くより仕方がなく、台風と夕なぎを用心しなければならなかった。筏の技術としては、水の流れとミザワ(水中に差して舟を進める木の棒)の突っ張りかたが肝心で水勢のいい方へ流すのがコツでした。
 このように筏師は技術を要するのんきな仕事ではなかったが、しかし、地元ではちょっとした花形職業で、日当も一般の土方作業の3倍はあった。そして自分の家から通いができて今考えたら一番よい職業だったと思います。
 わたしは18歳のときに一人役もらえるようになりましたが、筏に乗る日は、神様にどうぞ今日は失敗もなく無事長浜へたどりつきますようにお祈りしていました。失敗すると、みんなが手伝いをしなくてはいけない。それだけ時間を無駄に費やすことになり、みんなに迷惑をかけることになる。父が人から一人役取れないと思われるようになったら辞めよと言っていた意味がよく分かりました。人の分まで働きよるときは何も他から言われませんが、年を取り体力が衰えて思うように体が動かなくなったら、人から言われなくても身を引かなくてはならないと思っていました。」と語る。
 コマタとも呼ばれる小田川では、川が小さく、急流であることから本川筋の筏の大体半分から3分の1の量を組んだ細い棚を10~15棚連結して流し、肱川との合流点の鳥首成能あたりで二流れを一流れに合体して本流を下っていたが、**さんのころは堰をつくったり、岩をダイナマイトで砕いて川幅を広くしていたので本川筋と同じ大きさの筏を組んで流していたとか。
 この筏流しも結構効率がいい(14、5棚でトラック5、6台分になる。)とは言っても出水で一週間近くも出られないときもあれば、流されてしまうこともある。筏流しが重くかさばる木材を運んだのに対して、川舟は相対的に小口の荷を運んだので、これと競合する陸上の交通機関との競争には弱く、筏流しが第二次世界大戦後でも見られたのに対して、川舟は早く衰えていった。しかし、筏流しも昭和28年(1953年)には姿を消したという。


*1:河川の下方侵食の速度が地盤の隆起速度とほぼ等しいかやや大きいとき旧流路を維持したまま峡谷を造るもの。
*2:例えば河口から海抜20mの河床までさかのぼるのに、重信川9km、中山川7km、蒼社(そうしゃ)川6km、加茂川
  6km、国領川3kmであるのに対し、肱川は25kmである(そのうち下流の約9kmは満潮どきには海水の影響を受ける潮
  入(しおいり)川である。)。

写真3-1-5 内子町境の突合の堰

写真3-1-5 内子町境の突合の堰

平成6年7月撮影