データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)筏に乗って送り状作り

 **さん(喜多郡肱川町名荷谷 大正12年生まれ 71歳)
 「終戦まで神戸におりまして、戦後地元に帰り製材所に入って、木材を長浜へ筏に組んで出荷していました。」と語る。
 「筏を組むのは専門の人たちで、筏の一番先の棚は、木の末口を前にして、先端を細めに幅8尺(約2.6m)くらいに組んでいました。それより後の棚は次第に広くして2~3番棚は15尺(約4.9m)、4番以下は20尺幅(約6.6m)にして、棚の上に二重、三重に木材を上積し、特殊材(長物・角物)は一番後にしていた。
 棚の作り方は、材木の両端に特別の手おので穴を開け、約20本くらい並べて棚を作り、その上にカタギの木の桟本を横にして置き、一本一本藤カズラでしばりつける。こうして並べた木は上に人や荷物が乗っても動かないように固定する。棚は全部で12~14棚ほど作りこれを連結する。
 筏ができれば上荷を積むが、上荷は水の状態によって、平水時(渇水期)は急瀬が浅いから荷を少なくし、中水時(普通)は多く、大水時(増水)のときはより多く積んだ。
 ここから長浜までは、平水時で一週間、中水時は4日、大水時は2日でした。平水時の日数が多いのは、川ザラエ(浅瀬を掘り下げる仕事)をして筏の通り道を作らねばならなかったので。
 肱川の流域は木材と共に竹材の産地なので、時々竹の筏があった。竹筏は先頭に10束くらい並べ、それ以下は一棚ずらし組み(安全の意味から前の棚に半分くらい重ねて組むこと。)にして順に増やし、全長20~30mに組んで流していた。竹は浮き易く、滑りがよいので操作し易く、所要時間も2日余りで長浜の河口に着いていた。しかし、竹材は安価だし、木材の何十分の一に過ぎず、その上、竹の切り時は春から夏は悪いとされていたので竹筏は少なかった。
 木材は伐採してから4か月から6か月くらいまで山で乾燥して、筏の組み口(筏を組む作業をする場所)まで、ここでは河辺川の水量が少ないため管(くだ)流し(谷川で木材を一本ずつ流し送ること)が行われ、岩にひっかからないようにあちこちに番人を置き流れに乗せて出していた。
 筏を組んだら送り状をつけなくてはいけないので、わたしは筏師と一緒に乗って、鳥首あたりまでに寸法を測って送り状を作っていた。一寸径(約3.3cm)の丸太で、長さ14尺(約4.5m)を一才(さい)といい、これを基準に木の末口を測って、一才口何本、二才口何本と送り状を書いていた。木の寸法を測る時、筏のつなぎ目は14~15cmしかなく、手を挟まれてけがをする危険があったので、筏師は大変気を遣ってくれていた。

      港でるとき 無事に出たが
          明日はどこの港に 着くのやらヨーホー工

と筏流し唄があるように、筏師稼業は大変危険な仕事でもあった。川下りの途中急に大水が出てきて筏が流されたり、長浜に遅く着いたため貯木場につけられなかった筏が、夜中にシケのため全部バラバラになって一本もなくなったこともあった。大水で流された材木は拾った人の不労所得であった。木には所有者を示す刻印があるが、本の長さは14尺(筏を組むとき穴をあけるので長めにしてある。)で実際に使用するのは13尺(約4.2m)だったから、木の端を切って売ればよかった。また、このような木は安く買えるので専門に買いにくる仲買人もいた。
 木材以外の集荷機関として『予土運送会社』があって、本店が鹿野川に、坊屋敷に支店があった。昭和13年(1938年)に省営バス(現在のJRバス)が開通するまで、鹿野川~坊屋敷に定期便が運航されていた。一日三往復で貨客を運んでいた。坊屋敷から内子へは客馬車(当時は馬車の荷台にムシロを敷いただけ。)に乗った。内子から大洲へは愛媛鉄道があった。
 川舟は大正時代が最盛期で、肱川上流からは木炭や野菜、繭を、小田川沿いにはサラシ蠟(ろう)、銅鉱石を運んでいた。人も乗せていた。帰りの便には、塩干物や生活物資を積んでいた。川舟はほとんどが一人乗りで、川の流れに乗って、軽く滑っていた。上りは潮を待ち、後は八多喜あたりまで帆をかけて上り切る。瀬にさしかかると船頭が綱を肩にかけ、あるいは牛を雇って舟を引かせていた。
 その川舟も筏も次第に馬車・トラックに変わり、昭和24年(1949年)ころには姿を消した。」と語る。