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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)肱川と四万十川をむすぶ谷筋(北宇和郡広見町旧愛治村)

 ア 旧愛治村の概要

 北宇和郡広見町は、近永(ちかなが)町・好藤(よしふじ)村・愛治(あいじ)村・三島(みしま)村・泉(いずみ)村が、昭和30年(1955年)に合併して成立した。北宇和郡の山間部は鬼北(きほく)盆地を中心に合併まで11か町村あったが、他の町村が三間川、広見川の四万十川本流沿いに位置するのに対し、愛治村は支流大宿(おおじゅく)川(及び清水(せいずい)川)の源流から本流との合流点までで1村をなし、川筋沿いに、大宿・生田(いくた)・清水(せいずい)・畔屋(あぜや)・西野々(にしのの)の五つの集落により形成されていた。東西約4km、南北約8km、総面積28.41km²で、北を野村町・城川町の東宇和郡と接し、東を三島村、西は二名(ふたな)村・好藤村、南を泉村と接していた(図表3-2-13参照)。他の地域に出るには、現在でも西野々まで下って本流沿いの国道(320号、かつての県道)に出るか、土屋(つちや)・加町坂(かまちざか)・桜峠(さくらとうげ)の各トンネルを抜ける必要があり、山間での独立した小世界を形づくっている。このような地理的環境から、四万十川流域の谷筋(支流域)におけるくらしと人々の交流を最もよく示す地域と考え、調査を行った。調査に協力いただいたのは、以下の7名の方である。
 **さん(北宇和郡広見町清水  大正14年生まれ 69歳)
 **さん(北宇和郡広見町畔屋  明治36年生まれ 91歳)
 **さん(北宇和郡広見町西野々 昭和2年生まれ 67歳)
 **さん(北宇和郡広見町生田  大正4年生まれ 79歳)
 **さん(北宇和郡広見町大宿  大正14年生まれ 69歳)
 **さん(北宇和郡広見町畔屋  昭和5年生まれ 64歳)
 **さん(北宇和郡広見町大宿  昭和2年生まれ 67歳)

 イ 大宿川とくらし

 「実盛送りは、昭和26年(1951年)までありましたが、実盛さまを作る人が亡くなってから、中断しておったんですが、**さんに人形を作ってもらうようになり、皆の要望もあって、昭和57年(1982年)から復活しました。一番川上の大宿から、生田・清水・西野々と川下へ下って、最後は本川(広見川)の小倉(おぐわ)まで行って流しよりましたな。畔屋は、どうして通らんのじゃろうと言よったんですが、これは畔屋が源氏で敵方じゃからというように聞いておりますが、実盛さんは虫送りの行事でもありますけん、川を一度さかのぼるのは都合が悪いこともあったのでしょう。西野々では、虫送りではなく疫病よけのためだと言い伝えられております。各集落ごとに道筋や家を回り、翌日次の集落に引き継ぎます。戦前には、実盛送り以外に、火手(ほて)と言うたいまつをかざして田の縁を回る、虫送りの行事が夜分にあったんですが、これは西野々の境で火手を消してしまい、『虫が集まってしまう』というようにも言う人が出て、止まったようです。実盛送りも虫送りも、鉦や太鼓を伴って念仏しながら道中を進んでいっておりました。
 大宿川の井手・堰についても、今のコンクリートのものができるまでは、水の確保が難しいもんですけん、大宿から生田、生田から清水と、川上から、厳密に日を決めて順送りにやっておりましたな。井手長が川下の井手長と連絡を取りあいながら、進めていきました。堰は、材木を組んで土を入れたくらいのものでしたんで、大水が出て堰がとんだ(流出した)時には、関係の集落の者で一緒に修復しておりました。これは、自分より川上の集落から水路を引いてきておることが多かった関係もあります。山間部ですけん、水は豊富で、水争いの話は、昔から聞いたことがありませんです。また、堰の放水場等のところにウエ堰をつけて、ウエ(ウケ(*5)のことか?)を仕掛けて上げに行くのが、毎朝の楽しみでしたな。とったツガニのミソで寒天を作っておりました。夜川(よがわ)と言って、夜中にガスライトを持って田んぼに行くと、ウナギがようけ取れたもんです(それ以前は火手を持って夜川をした。)。今は、魚も力二もめったに見んようになってしまいましたが。」
 「畔屋は、畔屋川が小さい川ということもあって、井手・堰より、溜池が農業のうえでは大事でしたし、泳ぐと言えば池であったように思います。わたし(**さん)が畔屋の区長をやった時(昭和18年ころ)も、区長の一番の仕事は、畔屋の万福寺(まんぷくじ)に届ける月1俵の施業米(せぎょうまい)を集めることと、池の維持費を徴収することでした。大宿川は濁りませんが、畔屋川は粘土質のせいかよく濁り、ヨシが繁り、コイが多いですな。」

 ウ 谷筋沿いの人々の交流

 「愛治村としては、よそに出るにはどれも峠や坂を越えんといけませんので、昔から尾根越しのつながりが深かったようです。大宿は、特に魚成(城川町)や野村との縁組みが多かったですな。土屋のトンネルが昭和12年(1937年)に抜ける前も、大宿から尾根を越えたら3時間ほどで野村には行けまして、乙亥(おとい)相撲にいつも招かれ、そのお返しのため大宿の祭りは乙亥の後の11月28日にしておったほどで、黒砂糖で作った『ときわまんじゅう』を食べるのが楽しみでした。竜沢寺(現城川町)の行事に参詣することも多うて、権大(ごんだい)や稲屋(いなや)を通って、御開山(おかいさん)に登っていく道では、東から登って来る三島村の人の声がこだましおうておりました。
 茶堂は東宇和郡の城川町や野村町に多いようですが、この愛治村にも、茶堂が六つあります(写真3-2-12参照)。これは、全部が昔の往還(街道)沿いにありまして、竜沢寺の参詣に通る人が多かったからではないかと思います。『広見町誌(⑯)』によると他には旧三島村に四つ、旧泉村に一つありますが、三島村は愛治村と同じく東宇和郡との行き来が多く、泉村は西野々から出たすぐの泉川崎というところに茶堂がありますので、やはり東宇和郡の影響と考えてよいんじゃないでしょうか。畔屋の大平(おおひら)の茶堂では、今でも8月1日から31日までは、お茶を沸かしてお接待をやっております。また、1日と31日には、鉦と太鼓を交え足をけり上げる念仏踊りをしております。念仏踊りは、お盆のお施餓鬼(せがき)の時にもやっておりますが、各年毎に組で交替して、保存会で継承して小学生も練習しておりますので、途絶えることはないと安心しております。大宿でも昔は、各茶堂ごとにやっておったのですが、今はお施餓鬼だけになっております(茶堂や踊り念仏の東宇和郡との共通性については、平成5年度報告書の「城川町の茶堂と峠」を参照。)。竜沢寺については、最初は竜天寺と呼ばれ、中尾坂(なかおざか)(現広見町下大野(しもおおの))の領主平吉貞(よしさだ)が、今の御開山(下大野)に開山したもので、昔から関わりが深く、戦前は小学校の遠足でもよく行っておりました。
 東隣の三島村との行き来は、主に清水から下大野への筒井坂(つついざか)を利用しておりました。今の日吉村や城川町から城下(宇和島市)に行くために、たいていの人がこの道を通り、清水から畔屋へ抜けたもんです。わたしらも親戚のつきあいや牛の種付け等のため、幾度となく通りました。この筒井坂で、吉田藩の大一揆の指導者であった武左衛門が処刑されたと、伝えられており、今でも供養塔が立っております(*6)(⑯)(図表3-2-13参照)。清水は、このほか野村の方にも抜ける交通の起点でもあり、大正3年(1914年)に宇和島-近永間に宇和島鉄道ができるまでは、近永に負けぬくらい商家等も繁栄しておったと聞いております。愛治村全体での婚姻等も、以前は泉村や近永町等の本川筋よりは、同じ山間地の三島村・二名村とのむすびつきが強かったように思います。」
 「西の宇和島に行くには、ほとんど皆、畔屋から加町坂を抜けて、歩いていっておりました(写真3-2-13参照)。わたし(**さん)が、戦後青年団の世話をやっておった時には、鬼北の連合青年団の活動で、毎月のように近永や三間に行き、夜中の12時近くに坂を越えることもあったですな。宇和島に出るには、加町坂から二名村の黒川(くろかわ)を通り、大内(おおうち)(ともに現在の三間町)まで行き、そこから鉄道に乗っておりました。尋常小学校の修学旅行も、この経路で宇和島に行き、高等科の修学旅行は宇和島港から別府に行ったように思います。ここのトンネルが抜けたのは、昭和53年(1978年)でしたか。また、桜峠のトンネル開通は昭和32年(1957年)です。」
 「青年団と言えば、鬼北11か町村の活動は、なかなか盛んなものでした。愛治村内5部落の分団で技を競い、鬼北の11か町村の大会でも様々な競技をやっておりました。弁論大会も盛んでした。戦後の青年団の結成では、天満神社(広見町内深田)に入りきれんくらいの人数が集まっておりました。戦前にも、農業学校(現在の北宇和高校)設立の際(昭和12年〔1937年〕)に、大本(おおもと)神社(広見町近永)に鬼北の青年団全体が集まって、学校建設の要望書を提出したりしました。昭和30年の合併の時にも11か町村全体の大合併をという話しもありました。」

 エ 愛治のまとまり

 **さん「わたしが子供のころですが、明治43年(1910年)から44年の、古谷義正村長の時に、部落有財産を統一して村有林を作ることで、村をまっぷたつに割る争いとなったんです。村有となる生田部落の採草地の権利の取り扱いをきっかけに、反対が起こるようになり、ちょうど村会議員の選挙とも重なって、一時は暴力ざたにもなりかねない険悪な空気になり、県下の新聞にも盛んに取り上げられる大事件となりました。ついに代議士や県の調停するところとなり、村有林70町歩(70ha)ができましたが、責任を取られて古谷村長は辞職されました。この事件は非常に大きな教訓を残しまして、以後の村内の融和と団結が大変進んだように思います。村有林は、その後全く問題を起こさず、また手柄にする人も一人もないまま、広見町への合併までに200町歩(200ha)まで拡大されました。また、大正14年(1925年)に村長ほか有志により研修と啓発を目的として愛治会が結成されて、毎月愛治村報を発行するようになり、これは昭和18年(1943年)まで続きました。このように長期間続けて発行してきたのは珍しいのではないかと思います。産業組合(農業協同組合の前身)の活動も非常に熱心で、昭和初期の不況期には、農村経済更生指定村となったんですが、その後の村民の協力もあって、増産や負債整理も順調に進み、優良更生農村の表彰を、昭和11年(1936年)に受けております。わたしも、戦後村長にもなり、昭和30年3月町村合併となり村長を退任しましたが、愛治村のまとまりは、県下に誇れるものと感じてまいりました。」


*5:ウケ 竹でできたかご状の道具で魚が入ると出られないような「かえし」を作って流れに向って口を置き、流れ落ちてく
  る魚を取るもの。
*6:『伊達秘録』では「つつじ坂」となっている(⑰)。また当時の宇和島藩の主要往還として、大宿~畔屋間は位置づけられ
  ていた(⑱)。

図表3-2-13 旧愛治村の現在

図表3-2-13 旧愛治村の現在


写真3-2-12 大宿(権大の茶堂)

写真3-2-12 大宿(権大の茶堂)

平成6年7月撮影

写真3-2-13 加町坂の切り通し(旧道)

写真3-2-13 加町坂の切り通し(旧道)

現在はこの下に、加町坂トンネルができた。平成6年8月撮影