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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)凧作り人生

 ア 五十崎の凧・五十崎と凧

 五十崎の凧の特徴を『伊予の凧・日本の凧(②)』・『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)(④)』を基にまとめてみた。

   1 字凧である。独特の凧文字で、空にあがると白い文字の部分が浮き出る。
   2 うなりはつけず、尾(足)もつけない。
   3 標準凧は、縦165cm、横135cm、角(つの)が20cmの四角凧である。
   4 骨6本。横4本、縦(中央)に2本。横4本のうち中2本を弓張りにする。
   5 根つけ(釣り合いをとる糸)を上下各2本左右対称に、中央は縦に2本つける。
   6 喧嘩凧にはガガリを一つつける。ただし、先に丸い玉をつけたものを使用する。

 **さんの話では、とにかく五十崎の凧は軽量で、全国の凧の中で一番先にあがる。浜松、東京の江戸川、大阪の寝屋川、九州の阿蘇等で実証済み。昔の人が盆地の弱い風に適した凧を考案したのではなかろうかということである。
 ところで、凧合戦が河川の両岸で行われているのは五十崎のほかにあまりない(②)という。しかも、合戦場が広く快適で、観戦も橋(豊秋橋)の上からできるところは、日本中世界中にない(④)らしい。その豊秋橋は、平成2年8月10日、マイロード事業実施箇所として建設省から選定された橋であり、連凧をイメージしたカラー舗装、凧の図柄入り陶板の設置、橋のたもとの常夜燈に刻まれている凧の句など全体として凧合戦のイメージを取り入れている。しかも橋中央部に設けられたバルコニーは凧合戦を観戦するスペースにも利用できる(写真3-3-10参照)。この橋は、平成4年、松山市の杖(じょう)の淵(ふち)公園とともに建設省の「手づくり郷土賞」に選ばれている。
 また、豊秋橋付近を散策すると、句碑の多いことに気がつく。しかもほとんど凧を詠んだ句の碑である。五十崎町役場企画財政課の話では、凧の句碑は、だいたい平成2年~4年の間に、マイロード事業、ふるさとの川モデル事業(小田川が建設省から指定されたのは、昭和62年〔1987年〕12月10日)の一環として建立されたものだという(写真3-3-11参照)。

 イ 竹から凧へ

 **さん(喜多郡五十崎町平岡 大正元年生まれ 82歳)
 凧作りの名人、戦後の五十崎凧合戦を支えてきた**さんは、農家の7人兄弟の二男として生まれた。
 「小学校高等科1年の時、父が死にました。末の弟はまだ赤ん坊です。母が『7人の子を百姓で食べさすことはできない。口過ぎのため奉公に出てくれ。』と言うので、五十崎の橋本さんという竹屋に奉公しました。本当は竹屋の仕事はいやで、どうせ職人になるなら大工がいいと思っていましたが、母が『竹屋の仕事には道具もあまりいらんしするけん、行って辛抱してくれや。』と泣いて頼むので、了承しました。4年ぐらい奉公しました。当時養蚕が盛んで、桑かごを始め製糸関係の竹製品の需要も多く、仕事はたいへんでした。朝5時半に起こされ、親方の子供を背負ってふき掃除をすることから始まり、夜は11時半まで仕事をしました。時代は昭和初期、不景気な世の中でした。大学出の銀行員が45円月給をもらうと、『あの人は45円の月給取りじゃと。』と驚いたものです。丁稚(でっち)奉公ですから、食べさせてもらうだけ、給料はありません。たまに母から『小遣いにせいや。』と50銭もらうと、その銀貨を暖かくなるまで握りしめていたことを思い出します。よう使わんのですなあ。とにかく毎日仕事仕事、若者の楽しみなど味わったことはありませんでした。」このタケと出会った**さんが後に凧作りを始めるようになったのは巡り合わせというべきかもしれないが、当時の**少年にとっては思いもよらぬことであったであろう。「昭和7年(1932年)から広島の東洋工業に就職しました。やがて古参となり、45人ほどの職工の指導をしていました。ところが、家庭の事情によりやむを得ず帰省しました。昭和15年(1940年)のことです。五十崎に帰って大久喜(おおぐき)鉱山(昭和鉱業KK大久喜鉱業所)に勤めました。日給2円、東洋工業で月180円ぐらいあったのですから1/3にも満たない収入です。でも、原爆には遭わず、命拾いをしました。また、銃後産業要員としての『鉱士』の資格がありましたので召集はありませんでした。鉱山の監督局からフィリピン出向の話がありましたが、ある友人が希望したため行きませんでした。その人は妻子もあったのですが、結局現地で亡くなりました。お気の毒なことをしました。」3回も命拾いをしたことについて**さんは「悪運の強い男だと思います。」と言う。終戦の年鉱山を辞め、昔取ったきねづかで竹製品を作り始めた。「戦後物資不足で飛ぶように売れました。40人余り人も雇いました。製品は竹製のハンドバック(両面が竹で模様編み、両端は布)、ほとんど別府へ出しました。別府の卸問屋からは早く送れと矢の催促でした。ところが7、8年後ビニール製品にやられました。見切りをつけて衣料品店を開いたのですが、今度はスーパーが進出、衣料品も安くなり、これはだめだということで、弁当を提げて働くことにして龍王公園の管理人となりました。龍王公園の藤棚も梅林もわたしが造りました。」**さんは、戦後の経済の発展、人々の生活の変化を、自らの仕事を通して見つめてきた。
 **さんが凧作りを始めたのは、昭和15年帰省してから後のことである。『愛媛県の諸職』には、「昭和15年に県外から帰郷、翌年商工会理事に就任してより、凧節句予算の少ないところから、行事に必要な凧200枚を見様見真似(まね)で製作したのが始めである。(⑥)」と記述されている。「商工会で凧を何枚作るか計画を立てるが、お金がありません。それならわたしがやろうということで一手に引き受けることになりました。昔竹屋に奉公しており、タケを削ることぐらい何でもない。普通の人は夕ケを上手にわく(割る)ことができません。奉公のころ泣いたおかげです。450枚ほど合戦用の凧を作ったこともありました。龍王公園の管理人になってからも朝晩を利用して200~250枚作っていました。五十崎には竹林が多くありますが、タケの値が安くて、管理が十分でなく、こちらから取りに行けば、ただで分けてくれるところもありますが、それよりお金を払って、竹材店からより取り見取りで持って帰ります。凧紙は、町内の製紙業者が相談し、順番に観光協会に納入することになっています。凧絵も自分で書いていますが、これはというものはなかなか書けません。県外からの注文もあります。北海道、新潟、京都など各地からあります。現在は、凧合戦の事務局で、回る凧、あがりにくい凧の調節を行っています。凧作りの指導もしています。先日も国立大洲青年の家で余土中学校(松山市)の生徒に教えましたが、指導のポイントは根つけです。もちろん弓張りも大切です。それぞれの糸の役目を知って作らなければなりません。五十崎の凧はそれぞれの糸の働きによってあがるから尾(足)をつけないのです。年をとってくるとそうはいきませんが、昔は、これくらいの量なら人に頼むより自分一人でやった方が早いわいと思って作ったものです。」**さんは、凧作りを天職と心得ているのだろう。今日も凧作りに取り組んでいる。また**さんは俳人でもある。俳号は「仙厓」。自らの俳句を書き入れた凧も作っている(写真3-3-13参照)。
 **さんの凧の素材、製作の工程・用具等、詳しいことについては『愛媛県の諸職(⑥)』にまとめられている。

 **さん(喜多郡五十崎町古田 大正3年生まれ 80歳)
 **さんの自宅からは小田川の対岸、古田に住んでいる**さん(農業)もまた凧作りの第一人者、竹細工の経験から今は亡き佐伯敏行さんと一緒に凧の製作を始め、特に大凧を得意としている(②)という。
 「24~5歳のとき、農閑期(冬)を利用して、佐伯さんたちと一緒に花かごを作り始めました。松山や別府と取引がありました。終戦後やめていましたが、町の観光協会から、『凧作りの後継者がいるけんやってみんか。』と言われて凧作りを始めました。地元にタケはたくさんありました。しかし、タケをわいてみて分かったことですが、スギの中に生えているタケはだめです。ねばりがない。木をわくようでわくことはできるがすぐ折れます。凧には、真竹(まだけ)がよい。わたしは小凧には苦竹(にがたけ)(女竹(めだけ))を使います。凧に使うタケは、節と節との聞か長く、節が低くなければなりません。タケの周りは7節あがり(地上7節のところ)で7~8寸(約21~24cm)というところです。ですから凧に使用するタケは相場の3倍ぐらいします。
 昔は字凧ばかり、子供のあげる凧もみな字凧でした。今は漫画の絵でないと売れません。特にテレビの人気主人公が喜ばれます。しかし、漫画の凧は、著作権上の問題があり注意を要します。ディズニーのミッキーマウスを書くのもやめました。本当は売れるのですが。3年ほど前、三越での出来事ですが、凧字で名前を書いた凧を作ってほしいと頼まれました。結局三越を通して40枚余りの注文があり大変弱りました。独特の凧宇、しかも一人一人みんな名前が違うのですから。また、ずっと以前こんなこともありました。凧字で『農』という宇を書いてくれと言うのです。『農』という字は横線が多い。物差しで寸法をとりながら半日かかりました。出来上がってからよく見ると線が1本足りない。結局やり直しました。『五十崎』という凧字には型があります。型さえあれば5分ほどで1枚書けます。」**さんの奥さんは色塗りの仕事を手伝う。最初に色を塗り、その後凧字の縁取り、字を白抜きにする。凧字は近くでは見にくいが、空にあがると字が浮き出る。
 **さんと同様、**さんも国立大洲青年の家や五十崎凧博物館などで凧作りの指導をしている。そしてやはり凧作りのこつは根つけと弓張りの調整にあるという。
 「糸をまとめて結ぶ位置は上から2本目の横骨から少し下にくるのがよいのです。しかしけんか凧の根つけにはちょっと工夫しています。天神側の凧は上から2本目の横骨のところ、五十崎側の凧は標準の位置にくるように調整します。両者の凧のあがる角度を変えた方が交差しやすく、けんかになりやすいからです。もちろん、現在は五十崎方と天神方との対抗戦ではないのですが、伝統を残そうではないかということで形式的に分かれて合戦を行っています。
 仕事場は近くの佐伯さんの家の2階の養蚕室ですが、5年ほど前に10畳敷の凧(松山市大街道のアーケ-ドの上に飾った)を作ることになり、2階からは運び出せないので、佐伯さんの家の階下の座敷を借りて作りました。その凧の武者絵を書くのも苦労しました。あがらなくてもよいということでしたが、あがるように作っておきました。今は町観光協会注文の凧を主に作っていますが、県外からの注文もあります。最近北海道からも注文がありました。」
 「凧を作っているおかけで、テレビにも出してもらうし、ラジオにも、新聞にも取り上げてもらいました。もういつ死んでもいいと冗談を言い合っているのですよ。」とは奥さんの話。自ら作った凧が豊秋河原に舞うことを生きがいに凧作りを続けている(写真3-3-15参照)**さんである。

写真3-3-10 豊秋橋中央バルコニーと凧の図柄入り陶板

写真3-3-10 豊秋橋中央バルコニーと凧の図柄入り陶板

平成6年7月撮影

写真3-3-11 五十崎凧博物館玄関前の句碑

写真3-3-11 五十崎凧博物館玄関前の句碑

平成6年7月撮影

写真3-3-13 俳句凧

写真3-3-13 俳句凧

平成6年7月撮影

写真3-3-15 **さんの字凧

写真3-3-15 **さんの字凧

平成6年10月撮影