データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)小田川が逆流した五十崎

 小田川は、内子町で中山川を吸収し、五十崎町を貫流して鳥首(とりくび)で肱川に合流している。数多い肱川支川の中で、唯一右岸支川の小田川を取り上げた背景には、「スイスと五十崎・川の交流」(昭和63年10月、五十崎町づくりシンポの会主催(④))以降、小田川下流域の、テンポの早い様変わりがあった。聞き取りは、昭和18年の水害を中心に行った。

 ア オモ(本流)とコマタ(支流)

 **さん(喜多郡五十崎町古田 大正4年生まれ 79歳)
 **さん(喜多郡五十崎町宿間 大正10年生まれ 73歳)
 「では、年長のわたしから。」と話を切り出された**さんは、肱川の特異性として、集水面積が広いことと、流れが緩やかであることを挙げ、「この辺で海抜40m、内子でやっと50mでしょうか。水量が豊富なとこへ、流れが緩やかなので、小田川では舟や筏(いかだ)を利用して、物を運ぶということがやれた。」と、物流という生活に密着した大事な役割を小田川も担っていたことに及ぶ。「宇都宮神社に大きな鳥居が建っとる(文政年間)が、あれなんかは牛や馬じゃ運べん。舟に乗せて引っ張り上げたらしい。当時は水量も豊富、年に何回は「川普請(かわぶしん)」というのをやって、瀬の狭い所をさらえたり邪魔になる物を取り除いたので、舟や筏(いかだ)の通りもよかった。龍宮堰(旧)には、舟や筏(いかだ)の水路(舟通(ふなとお)し)も設けてあった。」と言う。
 製材工場にも勤めたことのある**さんは、「この辺りでも筏を組んだようですが、川が蛇行しているので、あまり長いのがやれん。鳥首まで下ってから、つないで流しよった。」と付け足す。
 「坂本龍馬が舟に乗って脱藩したのは、この下の、下宿間(しもじゅくま)の亀の甲からで、あそこには舟の運送店があったらしい。しかし、舟だまり式な運送店は、こちらのコマタ(支流)にはあまりなかったようで、オモ(本流)には3、4kmに1か所ぐらいあった。鳥首は、その中でも、良い舟だまりだった。小田川流域のコマタには、内子辺りからぼつぼつ運送店があったという状況です。」

 イ 新龍宮堰の変身

 小田川が、内子町から龍王をうかいして、五十崎町へ出た場所に龍宮堰がある。昭和60年6月に、自動式に転倒する新龍宮堰が完成した。
 五十崎町中央公民館発行の「館報いかざき」第321号には、四国最大規模の一文字堰としてこの鋼製自動転倒堰を、新名所誕生と報じている。全長95.83m、高さ2.62m、1スパン23mの3連門と左岸には3mの土砂吐が1門あり、右岸には3mの魚道も設けられている。
 同時に、旧堰については、「あの懐かしい湾曲の堰(約280m)は跡形も無く除去され、百有余年の歴史に終止符を打った。」とある。
 五十崎町は、小田川が平坦(たん)部のほぼ中央を貫流して町を左右に分けていることから、双子の町と呼ばれた。小田川右岸の五十崎町と左岸の天神村等が合併して40周年を迎えたのであるが、以前は、利水・治水についてはもめごとが多かった。
 『五十崎町誌(⑥)』によれば、「いつ頃からか、天神村では龍宮に長い堅固な井堰を設けて平岡新田、宿間新田の灌漑(かんがい)用水を取っていた。ために用水は豊富で、収穫は豊饒(じょう)で、かつて干害などということは皆無であった。これを見た五十崎村の有志、松久茂平・高野平八郎・山本宗太郎外数氏は発議して、龍宮に新井堰を構築することを計画した。……中略……工事設計等は不詳である。故人の遺徳は偉大なものである。」と述べ、明治12年起工、明治18年(1885年)竣(しゅん)工と明記されており、これによって、畑が30ha余の二毛田となり、収穫も平年作の2倍に上がった。この件についての**さんと**さんの会話は面白く、お二人をそれぞれ内山地歴談話会(昭和50年11月設立)の**初代会長、小田川研究会(昭和59年設立)の**会長の紙上対談として取り上げる。

** 龍宮(りゅうぐんと発音)の堰ですな。これは大洲市柳沢の土居武蔵(むさし)という人が設計してやっとるんですな。こ
  こら辺り(平岡)一帯をかんがいしよったですがな。上から来た水を、ずーっと石積しましてな。

** 明治以前にできたもんじゃないんかい?元禄年間から洪水があったから。

** 土居武蔵の墓は今も柳沢にあるそうですがな、大洲の、城の修理や川普請なんかもこの人がやったそうですが。

** 昔、天神村と五十崎村が別々じゃった時に、天神村が先に龍宮堰を造り、五十崎も後で、ここへ水の取り入れ口を作っ
  た。

** 五十崎側へ水を取るために、龍王の川岸にある大岩の上手(かみて)をやった。先にやったために舟の行き来ができん。と
  ころが、舟の先取特権というのがあって、五十崎側を通すことになり、「舟通し」をこしらえて。
   
** 筏(いかだ)が落ちるように、ザッボーンと流れよった。

** 今の龍宮堰ができた時に、水利組合なんかで調べてみたんですが、はっきりした年は分からない。旧藩時代であったこと
  は確かなようだ。

** わたしらも、シンポの会で、小田川についての研究をし調査をしておるんですが、明治12年(1879年)に着工したと。
  天神側にはすでにあったと。だから、最初天神側が石を積み、取水の取り口を作っていて、明治12年になって五十崎側を
  やり、明治18年に完成したのでは?

** 初めに天神側をやる時に、「舟通し」をこしらえないかんので、山の方まではくっついてなかったんですな。舟や筏(い
  かだ)が通る所。で、今度五十崎がやっても、舟が通る道だけは空けないかんということで工事をやったんです。

** 天神側の堰はな、向こうまで達することなく、途中まで石積みして、言われるとおり、五十崎側は空(あ)けてあった。

 ウ 宮の瀬の崩壊

 「**さんが言われた集水範囲がこれだけある(地図で示しながら)。小田川へ注ぐ川がこれだけある。お陰で、今、水に困らんけどな。」と高笑いして、**さんは昭和18年の洪水を語り始めた。今年(平成6年)は百年に一度の異常渇水で、伊予市の三秋地区は24時間断水、テレビで全国放送されるほどで、小田川を見る度にうらやましく思った。
 「あの18年にはね、杖の瀬の狭所(せこ)(谷のせばまった所)でつえがぬけて(*2)、堰(せ)いたようになりまして、逆流してきたんです。アマゾンでちょいちょいあるでしょうが、あの調子でザーッと逆流があったんです。
 わたしは兵隊に行って、直接は見ていませんが、祖母の話では、水が引き始めて、『さあ(泥を)洗え。』と言いよる時につえたらしい。床上浸水していたので、畳はあげとったんです。そこへ、ガーッと1mもある逆水(さかみず)が来て、床板がバリバリバリバリいうて浮いたので、みんな、たまげて逃げた。」と。
 **さんの家は、上宿間の道路沿いに、新築(昭和50年)した立派な家が、2mの石垣の上にあるが、出水した当時は道路に面した、かやぶき屋根の古い家だったと言う。
 「あの時はひどかったんですわい。」と、役場勤めをしていた**さんが続ける。「下宿間・大久喜(おおぐき)辺りから水が増えまして、上宿間のとこらへんまで水位が上がった。大洪水の川が、一遍せき止められてしもたんですけん、山が崩れてな。」と。
 崩壊地点を確認しようと、しばらく問答があって、結局は、宮の瀬と落着し、現在豚舎があることまで分かった(写真4-1-7参照)。
 **さんは、さらに続けて、「あの洪水で、肱川周辺では80人余りの死者が出たんです。ちょうど崩れた山のすぐ上手に大きな2階建てがあったんですが、ぼっこり浮いてしまって、一家6人が亡くなっている。」と言うのであった。このことが頭の片隅にこびりついていながら、肱川町の**さん(第4項のダム建設参照)にお会いするまで解決しないままだった。何度かそこを走りながら、通過してしまったのである。それほど、五十崎から肱川へ向かう谷あいは、両岸から山が迫っていて、人家もなく、対向車に気を遣う場所ではあった。
 **さんは、昭和12年(1937年)生まれだから、18年の洪水を見たのは6歳の時である。小田川が肱川本川に合流する道野尾(どうのお)の出身、鳥首の対岸に位置する。
 「10人ほどで、『あっちへ行ってみようや。』とたまたま、小田川沿いに歩いたんです、23日に。」と、目の当たりに見た崩壊と一軒家の流失を次のように語った。「濁流の真ん中を1軒の家が流れて来よる。急いで近付くと、小さい女の子3人とお母さんが、柱にしがみ付いたまま、『助けてぇ、助けてぇ。』と手を振りよる。どうしようもなかった。近所の上級生と一緒とはいえ、みんな子供じゃから、怖々(こわごわ)見よるだけで。でも、かわいそうじゃった。つえが来て、1mほど水が上がって、ぽこんと浮いたままで流れた。下(しも)で合流したら、家ごと沈むだろうと思った」。その家の主人は仕事で留守だったらしい。
 対岸の傾斜地に網を張って、大掛かりにキジを飼っている(写真4-1-8参照)。川辺りに出て、突出した岩肌を見ると、**さんが「こけいわとも言うとった。」と語ったのを思い出す。しかし、その背後で崩壊(見た感じは、逆V字型の、大きい地(じ)すべり)があったとは気が付かなかったのである。
 県道のすぐ上にクヌギの林があり、豚舎の左右から頂上に向かってピラミッド型にやぶが続く様子は、崩壊地がそのまま放置されていたことを物語る。道路標識には「成能(なるのう)」とあった。

 エ 向こう様しだい、流れほうだい

 **さんは、五十崎町(まち)づくりの委員会を代表して、昭和61年に発表した研究資料『小田川の移り変わり(⑦)』に、「あばれ川」として、小田川を次のようにとらえている。
 「川は本来蛇行する性質をもっており、洪水ごとに流れは大きく変わり、古老の言う『小田川は、向こう様しだい、流れほうだい。』であったらしく、川は大きく蛇行し、堤防らしい堤防もなく、川幅も広かったようである。現在は護岸工事もでき、川は直線化しており、昔の姿をとどめていないが、古田(ふるた)分の水田が柿原沖にあったり、国土調査前には、宿間地区に大久喜の宇(あざ)があった(その逆もある)ことなどからも、昔の流れが推察できる。」とし、明治19年の絵馬(大壑山樵(おおたにさんしょう)作)を取り上げて、「上村、平野、天地の川に面した両岸には堤防が無く、タケを群生させており、人々は、川の氾濫を避け、川辺から遠く離れた高地に家を建て生活していたようである。この竹林は、かつては地域で管理され、特産品としても活用されていた。」と述べ、小田川を中心とした五十崎の原風景を描き出している。

 オ 竹やぶ効果~ダルとノリザサ~

 「五十崎側も昔竹やぶがあったし、天神側も柿原のとこから棒(ぼう)の端(はな)まではず一っとマダケじゃった。水は(越えて)はまるけれどもごみは止まる。大体、金が無かったから、水害から守る手段として、安上がりの竹やぶにしたと思われる。」と**さんは言う。
 そして、竹やぶは、「生えとる所は低かった。河川敷くらいの所じゃっとろか、少し水が出たら、すぐ越えよった。」と。
 そこで、「水が運ぶ砂」というのは?と持ち掛けると、「あれはな、この辺りではホッポ砂というてな。水が運んできた砂礫(れき)の中の、重たい物から川へ残って、小粒になるほど川縁に近付き、一番最後には、ホッポ砂(写真4-1-9参照)よりまだ細かい、ドブのような物が田んぼへ入ってくる。「ダル」と呼びます、この辺りでは。秋になって、田んぼで見ると、表層がその砂でできとる。『今年は何cmダルを持ってきた。』と言っては、畔(あぜ)の嵩(かさ)上げをするんですよ。私らも何遍か嵩上げをしましたね。ところが、このダルはよくできるんですよイネが。肥(ひ)よくしとるんですな、本当に米がよくできる。もう、昔からみたら(ダルの層は)大変高くなっとりますよ。」と解説する。大洲で、食糧事務所長をした**さんは、東大洲で新築したころを思い出しながら、「大洲から新谷にかけての平坦(たん)地ではな、昔は、どうも沼地じゃったんじゃろかと言うんですがな。大水が出る度に、だんだんたい積していってな、地耐調査(圧力調査)やってもろたんです、どれだけのものを建てられるか。」と予備調査の結果、それまで6mの基礎打ちしか例がないと地方の業者が言うのを、農林水産省が12mのコンクリート柱32本を打ち込んだ。「タル土がずーっとたい積しておって、石ころ一つ出てこんのです。」と肱川氾濫原の一つの特質を語った。なお、米がよくできるダル土も、地域の人が総動員で、ほぼ元の田んぼになるまで、ドロのけ作業をするのだと付け足す。
 「竹やぶは、一つの収入源でもあった。」と、防水以外の効果を取り上げ、「毎年、又は1年がい(替)にも総出でタケを切る。オトコダケともニガタケとも言うが、ノリザサというて広島の方から買いに来よった。サイズごとにより分け、長さを揃えて、結束(けっそく)(*3)をして、それを業者が見て単価を決めていた。みんなに配当はないが、地域の経費に貯えた。もちろん、その時の直会(なおらい)(飲み食い)をしてね。」と、消えゆく村落共同体の営みを説く。
 タケのサイズは、直径でなく円周で表し、7節目の中間を測ると言う。ニガタケは1束の周囲で2尺5寸(82.5cm)とし、マダケは1本ずつ測った。


*2:ついえる、くずれやぶれること。(広辞苑)
*3:竹の1束の決め方、尺以上は1本、尺は7寸ものを付けて1束、9寸は2本で、8寸は3本で1束というように決まって
  いた。

写真4-1-7 小田川を逆流させた宮の瀬の崩壊跡

写真4-1-7 小田川を逆流させた宮の瀬の崩壊跡

平成6年10月撮影

写真4-1-8 流失した一軒家の辺り、川縁(べり)の斜面でキジを飼育している

写真4-1-8 流失した一軒家の辺り、川縁(べり)の斜面でキジを飼育している

平成6年9月撮影

写真4-1-9 河原の様子~礫(れき)からホッポ砂まで~

写真4-1-9 河原の様子~礫(れき)からホッポ砂まで~

平成6年8月菅田にて撮影