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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)三日三夜(みっかみよ)さ

 **さん(松山市小村町 大正4年生まれ 79歳)
 **さんは小村町で農業を営み、1.8haほどの田んぼを、息子さん夫婦と米作りに精を出している。近所の脱穀も引き受けるほどの元気さである。根っからの中予人で、田舎ことばが懐かしい。
 「どうせ(いずれにしても)、あれ(重信川)が切れてきたんが、7月24日の、11時いとっとろかなあ。三日三夜さどしゃぶりに降ってなぁ、540mm降ったんじゃが。」で始まった昭和18年(1943年)の洪水は、小村町では次のような有り様であった。
 「『これは大事(おおごと)ぞよ!切れてくるぞよ!』言うて、ちいとない(しばらく)いとこと2人で見よったんじゃけど、庭(土間)へ麦をとやし(*5)とったのを、上げないかんけん、『はよ飯食おや。』言うて炊事場へ入ったら、チョロチョロいうて水の音がするんでな、『これは大事じゃ、もう飯食うのやめい。』言うて。それをドンドンよま(部屋)へ放り上げる。車へ積むやつは積む。水を外へかえ出す(汲(く)み出す)者はドンドンかえ出してくれてな。」と、まず、収穫したまま土間へ収容していた麦を、ぬらさぬように処置した。
 ほっとして、窓から外を見ると**さんの目に、「久谷川のぎし(岸)から重信の土手よな。あれいまで水びたしになってしもて、家が見えるぎりよなぁ、ほして、タバコがぼっつり見えよったがな。全体、泥の湖(うみ)になっている。」景色が映ったのである。周りの家はやられたが、盛り土を高くした**さんの家は、「土台がつかった。」程度で助かった。次に急いだのは子供たちの避難であった。「北は(現在の)溝田石油から大橋の方ヘドンドン押しよる。南は瀬になってダンダン流れよるんで、もう、どうにもならん。家へ2、3軒疎開して来とったがなぁ。しようないけん、『坂本村へ預けに行こや』言うて。」子供2人とばあさんを連れて行かせた。
 上流の拝志村で重信川の南堤が決壊し、田んぼの土砂を流した泥水と、久谷川からの洪水が合流した地点である。
 「重信川本流横河原橋を渡って右に折れ、トラックは川下へ下る。右手に河原が見える。重信川ではない。水が堤防を切って流れ河原を造っている。あの河原の砂石の下に、村民が増産戦に勝ち抜くため取り組み丹精込めた田畑があるのだ。」と愛媛合同新聞昭和18年7月31日版が報じている。
 要するに、重信川の南に、もう一本河原化した幅200mの川が出来上がっていたのである。
 あれから半世紀を経て、その氾濫原は一変した(写真4-1-13参照)。県道伊予・川内線に沿って企業の進出もみられ、民家や工場が増えてきた。しかし、小村町から東へ、中野・津吉・上村(温泉郡重信町)と続く美田が、耕地整理によってよみがえった、かつての氾濫原とはとても思えない。
 **さんよりも、更に川寄りに、**さんが住んでいた。旧地名は、荏原(えばら)村河原(かわら)分と呼んだ。『久谷村史(⑧)』によれば、高井村の内河原分とあり。明和2年(1765年)には浮穴郡高井村に属し、天保年間に河原分が独立した(⑨)ことになっている。


*5:農家では、納屋(なや)や母屋(おもや)の土間へとや(丸太と板で仕切った臨時の収納庫)を作り、天日で乾燥したイネや
  ムギの種子を一時貯えた。脱穀する時は、トヤから箕で運んだ。とやへ移す前の種子は、屋敷一面に敷き詰めたむしろに広
  げて干した。田舎の、季節の風物詩であった。

写真4-1-13 現在の景観

写真4-1-13 現在の景観

平成6年9月撮影