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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)小田川の流れと町づくり

 **さん(喜多郡五十崎町平岡 昭和17年生まれ 52歳)

 ア 仕掛け人の素顔

 五十崎町で酒造会社を営む**さんは、五十崎出身で、醸造発酵関係の大学に進学後、流通のノウハウを身に付けるため、同業の問屋に就職した。7年ほど東京で生活した後、郷里の五十崎に戻り、家業の酒屋の後を継いで、今日に至っている。
 **さんは、「町づくりシンポの会」を支える中心人物でもあり、これまでに町の教育長、教育委員を引き受けていたほか、現在は商工会長として活躍中の実業家である。9月下旬から11月初旬にかけては、県外を中心に全国の問屋めぐりの出張が続き、とくに多忙な中、話を聞くことができた。
 「大学の時、わたしは山に登っとったんで、あちこちの川を見る機会は多かったですねえ。小田川を基準にほかの川と比べながらという情緒的なことはなかった。下宿の近くの川はドブ川で、川というもんではないですねえ、東京の川は。こちらへ帰ってきてすぐのころは、川とのかかわりはとくにないんです。そのころの川は、昔とあんまり変わっていなかったように思うけど、そういえば農薬の関係で『子供は川で遊んでいけない。』というふうになりよったですかね。
 わたしらが子供のころは、川は遊び場。夏になるとのべつつかっとる。みんなそう。川で自由に遊んでよかった。魚取ってよかった。泳ぐというより魚取り、それに(豊秋河原の象徴として知られる)エノキの下で鬼ごっこ。川がグラウンドと同じ感覚でしょ。魚の種類も多様でしたねえ。
 今の川は、複雑さがなくなって、おもしろみが減った。昔の川には、とてもこわいような深みが、あちこちにあった。木がいっぱいあって、竹とか木の根が水の中まで下がっておりましたから、潜ってその後ろへ行くと、魚がいっぱいおるというような。『遊びは複雑なほどおもしろい。』と言いますから。」

 イ 帰郷して、町の将来を考えだした「よもだ塾」

 「そのころ、塾を開いておりましたから。塾と言っても子供の塾じゃなくて、『よもだ塾』という大人の塾。いろいろな会合がたびたびあるでしょう。会合のあと、わたしよりも一回り若い世代の皆さんが、わたしとこの家にコーヒー飲みに立ち寄って、タイムリーな話題を折り混ぜながらなんとなく話になるという。月1回くらい、いやいや、もっと多かったですねえ。
 五十崎に帰ってきて思ったのは、(町に住んでいる人が)非常にまじめ過ぎるということ、疑わないということでしょうかね。これは、一見美徳に見えるんですが、時として犯罪になる。それと、あまり敏感でなくて、時代の大きな流れに取り残されているという感覚。直接そういうことは言わないけれども、たとえば『世の中は、物の値段によってしか変わり得ない。たとえば、鉄や石油が発見されたことによって、大変革を起こしてきた。だから、物の値段に気をつけろ。』というような話題を取り上げて、しゃべっていたかと思います。
 町外生活から戻って、町が物足りなくて。皆、おもしろそうに聞いてくれた。地域をなんとかせんといかんという気持ちは、このころから芽生えたと思います。『よもだ塾』がきっかけで、若者が動き始めた。」

 ウ 川とかかわるようになったのは

 「とにかく、びっくりしたんですねえ。一番上流にエノキ林が多少残ってますが、あれを切ってしまって堤防にする、その低水(ていすい)護岸はコンクリートブロックになるということで、『あらら、そらおおごとよ。何を、バカ言よるんか。』というようなことだったですね。それで、仲間がみんなで、一晩のうちにチラシ作って、折り込んだと思うんです。
 それから、商工会の青年部と語らって、『実は、かぐや姫はあそこでお生まれあそばした。』という伝説を創作した。かぐや姫は、8月15日に月に飛び立ちますから、それを記念して『かぐや姫共和国祭り』というのを企画したんです。イベントの中に、いろいろ言葉を折り込んで発信するわけですが、町の人々も『あそこを切るとは、とんでもない話だ。』ということで反応もよく、そのかぐや姫祭りが定着しまして、木を切るのはやまったんです。
 コンクリートブロックの護岸の方は、『それは、あんまり下作なぜ。子供たちに申し訳ないぜ。』というんで、みんなで石を持ち寄って、それ使ってもらおうということになって、石1個ずつ持ち寄るんですが、それを使う・使わんで、やっさもっさやりよるときに、建設の基準で使える石も使えん石もあるというので、結局使えるのは使う。それで、ある議員さんに『なんとか、みんなで石を持ち寄る条例作ってや。』と頼んだら、『したら、ちょこっと言うてみよわい、議会に』。で、最後にちょこっと言われたら『それが、通ったよ。』ということで、『いかさぎ小田川はらっぱ基金条例』ができまして、みんなで1,000円ずつ出して、基準にあった石を1個ずつ買うかということになって、『小田川はらっぱ基金』を積み立てるようになったんです。」

 エ 試行錯誤の近自然河川工法

 「それで、町との共催で川のシンポジウムを開いたり、商工会と町の共催で川の設計図なんかも作ったりして、あっちこっちの川も見て歩きよったんです。
 川のあるべき姿というのは、その当時、日本にはなかったんですよ。どういうのが一番いいというのが。で、それを訪ね歩きよるうちに、信州大学の桜井善雄先生という方が『それは**さん、川のことなら、スイスよ。』と言うんで、『ほいじゃあみんな、スイスへ行ってみるか。』ということになって、3班にわかれてスイスへ行くわけです。
 そういうことをしよるときに、建設省の方と知り合いになりまして、『そんなおもしろい所なら、おらも行ってみよう。』というんで、その方もスイスのチューリッヒまで行き、クリスチャン・ゲルディーさん(チューリッヒ州建設局河川保護建設課長)に会われた。なるほどいいなあということで、建設省のモデル河川事業というのが起こりまして、それに指定をしてやろうということで、その時に一気に予算が付くんです。
 ただ、どういう川を作ったらいいかというのがわからないんですよ。だれもわからないですねえ。少なくとも、国内にお手本はないんで、じゃあスイスからゲルディーさんを呼んでシンポジウム開こうということになったんです(1988年10月26日開催)。
 その時に、ゲルディーさんから、自然に近い河川改修の具体例が紹介されたんです。土とヤナギと石で作る川、そういう意味でもないんですねえ、もうできるだけ自然に近い形にしようという。それが、一番いいんじゃないかということになったんです。
 直訳して近自然河川工法(Naturnaher Wasserbau、ドイツ語)、これは、一度ならして、再び自然に近いものをこしらえようというのではなく、元々あるところで、手を着けないで済むところは、なるたけおいときましょうという考え方なんです。ただねえ、直さんでいいところはそっとしとこうという精神は、日本のシステムとは、ちょっとずれがある。国民のレベルの問題ですかねえ。すぐに理想的なものはできんですけれども、まっ、こういう運動を続けるうちに、少しずつよくなってくるんじゃなかろうかと思います。」

 【参考】五十崎の河川改修工事の変遷(**さんの話の要約)
 〇第1次作品「かまいし護岸」
   ただコンクリートに石を貼り付けて並べただけで、本質的にはコンクリート護岸と変わらない。
 〇第2次作品「から石積み護岸」
   一番下流の右岸。石積みの中にヤナギの苗を打ち込んで、魚も入りますし、前よりは少しよくなった。ただし、まだ殺
  風景。
 〇第3次作品「近自然河川工法」
   左岸。ただ大きな石を放り込んでその上に泥かぶせただけ。あとは灌(かん)木が茂るにまかしている。まだまだ不十分
  だが、まあまあ近自然河川工法と言えるやり方。

 「かまいし護岸、から石積み護岸、…と、年度を追って、少しずつよくなってきたわけですが、最終段階として今進められているのが、上流の原っぱの辺りです。『よろい護岸』という海に使っとるやり方です。コンクリ(コンクリート)なんですけれども、自由に曲がることができる。しかも、コンクリをすえても半分は土ですから、上下が50%はつながっているんです。当然、その上に3mくらい土を乗せますから、植物がすぐ繁茂する、要するに生物がいっぱい生息できる空間ができる。
 川にとって『美しい』とは何かということで、最初に議論になったですよね。見掛けから入っていくと、コンクリやアスファルトでバサーツとやって草刈りもせんようにした方が美しいという方もいるけど、見た目の美しさというのは、時代によって変わるんですから、普遍的な価値ではない。5年くらいやっさもっさやりよって、いわゆる『美しさ』というのはこの世にない、そういうものは我々の錯覚であるということに気付くわけです。では、真の美しさとは何かということで、我々は、『本来川におる生物が、できるだけたくさん生息できる空間が残っている状態』を、美と呼ぶというふうにしたんです。近自然河川工法の基本はそこじゃないかと思うんですけれども。(口絵参照)」

 オ 河川改修は一段落、さて次は。

 「一応、川の改修はできたので、シンポの会では、これから、水そのものや水質などに注目していきたい。わたしは、田んぼの湛水(たんすい)能力をいかに維持していくかについて考えているのですが、これは産業と結び付けんと維持できないです。幸い、わたしには酒屋という手ごろな道具がありますから。
 この奥の御祓(みそぎ)地区にある棚田(たなだ)、それとその上に森がいっぱいありますが、それらの保存をいかにできるか。これは、まさに経済的な問題です。耕地整理しても、どっちみち採算に合いませんから。そこでこの酒屋という道具を使って、棚田の米を酒の原料として、とにかく農協に出す単価の倍で買う。そのかわり、酒を倍の値段で売ればいいわけですから。この酒、『銀河鉄道』と名付けたんですが、量がないですからねえ、高いですよ、4合(720mℓ)で1万円ですから。
 この商品は、御祓の棚田の風景と一体となっていて、棚田がこわれたら、商品として成り立たない。酒、売ってるんじゃない。地域もトータルで商品なんだ。だからこの酒は、棚田を思い出しながら飲んで欲しい。買ってくれる人、小売店もよくわかっていますから。知っとる人はものすごくよく知ってるんです。この酒の値打ちは、もう錯覚ですよね。夢を買ってるのと同じですね。で、ファンがまあ全国におるということです。ですから、この酒造会社の後継ぎも、もし、だれかやる必要があると思う人があれば、だれかがやる。
 結局、目の前に川があったから、川に取り組んだんですけれども、いかにしたらいい地域を、子供たちに残せるかということの中の一部に川があるということだと思います。『文句言うなら、自分の親父に言え。』と、次の世代に文句言われないために、当然五十崎町が通らなければならないトンネルなんですよ。
 でも、小田川の夢は、無限に広まりつつあります。」