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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)城山に集う人々

 ア 宇和島城と松山城

 **さん(宇和島市宮下 昭和2年生まれ 68歳)

 (ア)眼下に海

 築城の名手といわれた戦国の武将藤堂高虎が宇和島(旧名板島)の地に築城を開始したのは、慶長元年(1596年)であり、完成は同6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年だといわれている。伊達政宗の長男秀宗が宇和島に入府したのは元和元年(1615年)、以後江戸時代を通じて宇和島城は伊達氏の居城であった。
 宇和島城は元来海に面した城であった。城山(標高80m)を中心とした五角形の平山城で、二辺は海に接し、他の三辺には海に通じる堀が巡らされていた。「この城は、海からの進攻に備える城であり、宇和島城は海に向かって海にそびえ立つ城であった。(①)」城山が現在市街の中央に位置しているのは、近世以来繰り返された干拓・埋め立てによって市街地が海側に拡大されたからである。しかし、城山の本丸広場からは内港が見下ろされ、宇和島湾が一望できる。まさに海の見える城である(写真3-2-1参照)。
 現存の天守閣は、伊達家二代藩主宗利が城を大改修した寛文年間(1661~72年)の建築物(国指定の重要文化財)で、「軍事的色彩は薄れ、権威を象徴する優美な造り(②)」になっている。**さんは「城の版画家として有名な橋本興家(おきいえ)さんは、版画集の中で、『優美な姿をしている宇和島城は、わたしの最も好きな城の一つである。』と言っていますが、わたしも宇和島城の天守閣は、とびっきりバランスのとれた美しい姿をしていると思っています。三層各階の高さが少しずつ違うのがその理由でしょう。」と語っている。『宇和島の自然と文化(③)』には、宇和島城の天守閣について、「独立式の天守で、三重三階、白壁の総塗り込め造り、土台から棟までの高さは15.8メートル。平面は正方形で一重から二重、二重から三重と2メートルぐらいずつ短くなっており、塔風の形態となっている。」と記述されている。

 (イ)見渡せば海

 賤ケ岳(しずがたけ)の戦い(天正11年〔1583年〕)で七本槍(やり)の一人として武勲をたてた戦国の武将加藤嘉明もまた城づくりの名手であった。嘉明は慶長7年(1602年)松山城の築城に着手、全工事が完成したのは寛永4年(1627年)ごろであったという。天守閣は当初五層であったが、後に松山藩主に封じられた松平定行が三層に改築した。この三層の天守閣は天明4年(1784年)落雷で焼失、安政元年(1854年)再建され現在に至っている。松山城は姫路城、和歌山城とともに日本三大平山城の一つに数えられていて、天守をはじめ、櫓(やぐら)や門、塀など多くの建造物が国の重要文化財に指定されている。
 正岡子規が「松山や秋より高き天守閣」と詠んだ標高132mの勝山にそびえる連立式天守閣は、県都松山のシンボルであり、松山市民の心のふるさとでもあり、その天守閣からの眺めもまた格別である。『松山城(④)』の一節には、「天守閣の西窓はるか、左右に展開する瀬戸の海は、年間を通じて落日の前後のひと時がえもいえず美しい。」とある。北の窓からは、和気(わけ)・堀江(ほりえ)の海を望むことができる。「嘉明は堀江から城下まで運河を開鑿(さく)し、薬研堀(やげんぼり)・土器堀(かわらけぼり)につなぐ構想を抱いていたという伝説がある。天守閣上に立った豪雄嘉明が、この大きな夢を描いたのは当然であろう。」とも書かれている。
 海が見える城は同時に海から見える城でもある。安倍能成(あべよししげ)(松山市出身、夏目漱石門下。哲学者、教育家、文部大臣も務めた。)は「この城山がある故に松山の町は美しい。高浜行の汽船が高縄火山脈の海に突出した波妻(はづま)の鼻(北条市)を過ぎると、乗客は、ちっぽけな道後平野の真中に緑の小山があり、その頂上にお城の壁が白く光るのを見るであろう。併(しか)し船からこの姿を見たときの何ともいへず懐かしいやうな心持は、恐らく松山で生れ、松山で育った人の外には分らぬであろう。(『草野集』収載「故郷、風景、森林」)」と述べている(④)。
 ところで、松山城の天守閣は、どこからが一番すばらしく見えるのであろう。「わたしの最初の版画は城です。宇和島城でした。」と語り、日本全国の城、特に江戸時代の天主閣が現存する12城(愛媛県では松山城と宇和島城)すべての版画を制作しようとしている**さんに尋ねたところ、「松山城については、大体どこかと言うと、本丸の天守閣に向かって右側の東屋(あずまや)のちょっと先の垣のあたりです。版画家が本丸に登ると必ずそのあたりへ行き、スケッチをするそうです。構図がよく、自然と引きつけられるのでしょうね。」という答えであった。写真3-2-2は**さんに教えられた位置から撮った写真である。樹木にじゃまをされてはいるが、確かに松山城の天守閣を見上げるにはふさわしい場所だと思われた。

 イ 城山とともに

 (ア)心のふるさと

 **さんは子供のころの宇和島城の思い出を次のように語っている。「わたしの通っていた宇和島の第二小学校(現在の宇和島市立鶴島小学校)は城山の下にあり、校舎が城山に接するように建っていて、ごく狭い裏庭は城山に続いていましたのでよく登りました。城山には当時子供たちが『おさるさんまめ』と呼んでいた赤黒い木の実(イヌマキの実だと思われる。)がなっていた。それを食べるのです。先生に見つかるとしかられるのですが、急な斜面をよじ登ったものです。また、年に1回城山で肝試しの会がありました。確かボーイスカウトの行事だったと思います。桝形(ますがた)町の南予会館(今はなし)に集合し、夜、3人ぐらいずつ登るのです。どういうわけか、赤穂浪士討ち入りの夜(12月14日)と決まっていました。途中、井戸(通称『ちんちん井戸』)のそばの竹やぶに毛布をかぶった先生が隠れていて、『わしは浅野内匠頭(たくみのかみ)の亡霊じゃ。』と言って脅すのです。肝をつぶし逃げ帰る者もいました。本丸で待っている先生からハンカチか何かを受け取って帰ってくるのです。小学校5、6年生のころだったと思います。そのころはもちろん天守閣の中は見せてくれませんでした。いったい中はどうなっているのか、いろいろ想像したり、化け物が出るのかもしれないと思ったりしていました。」
 宇和島駅前の大和田建樹(おおわだたけき)の詩碑には有名な鉄道唱歌「汽笛一声新橋を……」の一節とともに「わがふる里の城山に 父と登りてながめたる 入江の波の夕げしき 忘れぬ影は今もなほ」という散歩唱歌が刻まれている(写真3-2-3参照)。
 新派劇の名優であった井上正夫(伊予郡砥部町出身)は「私は松山の駅頭に立ってみて、思はず眼頭を熱くしたのです。城山の上に昔ながらの天守閣が、秋の陽(ひ)を浴びて残ってはゐたが、その下にひろがってゐた街の家並みは、一望惨めな焼野原と化しているのです。国破れて山河あり、城春にして……杜甫の詩の感傷が痛いばかりに胸に泌(し)み入って来る。」(自叙伝『化け損ねた狸』)と戦災後間もないころ松山駅に降り立ったときの感慨を記している(④)。
 ふるさとをこよなく愛し、故郷に思いをはせていた正岡子規も「故郷近くなれば城の天主閣こそ先づ目をよろこばす種なれ。」(『養痾雑記』)と述べている(④)ように、朝夕城を仰ぎ見て育った人々にとって、天守閣はふるさとのシンボルであり、城山は思い出の中の大きな存在なのである。

 (イ)城山の朝

 平成7年6月22日、昨日の雨は上がったが、宇和島の城山にはもやがかかっている。午前5時30分開門。開けにくるのは、市の教育委員会委託のシルバー人材センターから派遣された人である。開門直後数人が登山。午前6時、城山のミュージックサイレン、「汽笛一声」のメロディーが流れる。そのころから体操をする人が登り始める。約30人(男女ほぼ同数)本丸広場に集合、宇和島湾を見下ろしながら浩(こう)然の気を養うかのように体を動かしている人もいる。午前6時30分、スピーカーからNHKのラジオ体操のメロディーが流れ、人々は思い思いの場所で一斉に体操を始める(写真3-2-4参照)。体操が終わると、おしゃべりをしながら城山を降りていく。その中の一人に尋ねてみると、「城山のラジオ体操は自然発生的で、すでに三十数年続いています。最初のころは携帯用ラジオを持参していたが、その後、市の厚意でスピーカーが設置されました。皆健康のために集まってくるのですが、おしゃべりの場、情報交換の場にもなっています。」ということであった。集まってくる人々の多くは、第二の人生を歩んでいる人のように見受けられた。彼らの一日は城山のラジオ体操で始まるのだ。
 平成7年10月19日、午前6時過ぎ松山城に登り始めると、下山の人々多数と出会う。後で聞いたのだが、午前5時ごろから懐中電灯を持って登る人もあるという。本丸広場では、携帯用ラジオから流れる音楽に合わせて朝のNHKのラジオ体操が行われていた。その風景は宇和島のそれと同じである(写真3-2-5参照)。ジョギングをしている若者、犬の散歩に来ている人もいる。体操終了後ゴルフのクラブを振る人、べンチを利用して屈伸運動をする老人、東屋でよもやま話に興じている人々など、皆それぞれ朝のひとときを楽しんでいる。本丸広場のさくの上にパンくずを置いている老人がいた。聞いてみると小鳥のえさだそうだ。サンドイッチを作るときにできるパンの耳をパン屋でもらい、毎日登ってくるのだという。また、筒井門と太鼓門との間の広場で道後方面を眺めながら詩を吟じている人に出会った。市駅あたりから毎日30分ぐらいかけてやってくるという。「わたしはまだあまり長くはないが、古い人になると30年ぐらい毎日城山に登っているようです。」と語っていた。朝の城山は、体の健康ばかりではなく、心の健康の維持の場所として市民に親しまれている。

 (ウ)ロープウェーで通学

 **さん(松山市丸之内 昭和28年生まれ 42歳)
 **さんの祖父が松山城本丸広場に店を出したのは明治の終わりごろだという。松山市が明治42年(1909年)城山貸し下げを内務省に出願、翌年山林以外の土地と巽櫓(たつみやぐら)以外の建造物を3年間無料で借用することに成功、ここに松山公園が開かれ、明治43年末までに登山した者が46,490余人にのぼった(⑤)というからそのころであったと思われる。
 「昔、祖父の知人、清水勇三郎さんから城山に上がって城の番をしながら店でも始めないかという話があったそうです。店を始めたころ、祖母はようかんなど作っていましたが、兵隊さんが登ってきてよく買っていったということです(明治17年〔1884年〕堀之内に松山歩兵第22連隊設置)。本丸広場には昭和45年(1970年)ごろまで6軒の店(いずれも食堂兼売店)がありました。しかし、本丸に店があるのはふさわしくないからロープウェー(昭和30年〔1955年〕開業)の広場のところまで下がるようにとの指導があり、一軒ぐらいは残してほしいと父たちが要望し、それが聞き届けられて、6軒共同で一つ店を残すことになりました。現在のロープウェー広場の店は、かつては本丸広場で営業していたのです。この本丸広場の店(城山荘)は城の造りに合わせて造られたもので松山市の所有です(写真3-2-6参照)。」
 現在城山荘の経営を任されている**さんは小学校2年生まで松山城本丸広場の売店に住んでいた。「ここに居を構えていたのはわたしのところだけで、他の店の人たちは城下に家がありましたから、城山から通学していたのは、兄二人とわたしの3人だけでした。定期券を購入し、ロープウェーで通学していました。朝の試運転のときに特別に乗せてもらって学校に行ったこともあります。子供のころ友達をよく連れてきて天守閣の中で隠れん坊をしたり、城山をわが家の庭のように思って遊んでいました。遠足が城山のときはここで待っていたこともあります。夜もそれほど寂しいとは思いませんでした。以前は園丁(えんてい)(市の職員)の常時寝泊まりする家があり、そこにあった五衛門風呂に入ったことも覚えています。」と語ってくれた。
 ところで松山城公園は、平成2年財団法人日本さくらの会から「さくらの名所百選」に選ばれたが、**さんは城山の花見について、「わたしの子供のころは大変な人出でした。昼も夜も警官が10人ぐらい常駐していました。ござを予約した人には七輪もお貸ししていました(現在は火気厳禁)。そのころは、花見の時期には午後9時ごろロープウェーの臨時便を何本か動かすという粋(いき)な計らいがありました。門も閉まりませんでした。夜、門を閉めるようになったのは、天守閣で盗難事件があってからだと思います。最近は、昔に比べると花見客が減っており、夜の花見客は約7割が元気な学生さんのようです。それでもお花見は城山と市民とを結びつける行事です。市民の方が城山に登るのは『花見』と『お城まつり』のときだと言ってもよいでしょう。」と語り、さらに「松山城は由緒ある城です。焼失した門や櫓などを復元するにしても、すべて昔どおりに木造建築にした城は全国的にもあまりないと思います。わたしも復元作業を知っていますが、大きな木材を本丸広場まで運び上げ、一本一本、手斧(ちょうな)(木材を粗く削る道具)で削っていました。このような城なのですから、例えば城の歴史に基づいた『築城〇〇年』というような行事など、もっと城を活用したイベントがあってよいのではないかと思っています。現在の『お城まつり』も城中心に動いているかというと必ずしもそうではない。わたしたちも商売抜きで市民と城山を結びつける行事の企画について提言していきたいと考えています。松山城が松山市民のものなら多くの市民から『ああ、城山にはよく行くよ。』という声が返ってこなければなりません。『城山にはいつ登ったかな。』では寂しい。もちろん毎日登ってこられる方もあり、元旦には初日の出を拝みにくる方も大勢おられます。現在は車社会ですが、ロープウェーあたりから歩いて松山城のすばらしさを味わってもらいたいと思います。ただし、体の不自由な方への配慮は必要です。」と城山への思いを語っている。

写真3-2-1 宇和島城本丸広場から眺めた宇和島湾

写真3-2-1 宇和島城本丸広場から眺めた宇和島湾

平成7年10月撮影

写真3-2-2 「一番すばらしく見える」位置から撮影した松山城の天守閣

写真3-2-2 「一番すばらしく見える」位置から撮影した松山城の天守閣

平成7年10月撮影

写真3-2-3 大和田建樹詩碑

写真3-2-3 大和田建樹詩碑

平成7年10月撮影

写真3-2-4 宇和島城本丸広場でラジオ体操をする人々

写真3-2-4 宇和島城本丸広場でラジオ体操をする人々

平成7年6月撮影

写真3-2-5 松山城本丸広場の朝の風景

写真3-2-5 松山城本丸広場の朝の風景

平成7年10月撮影

写真3-2-6 城の造りに合わせて造られた「城山荘」

写真3-2-6 城の造りに合わせて造られた「城山荘」

平成7年10月撮影