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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)和霊信仰の広がり

 ア 和霊信仰

 (ア)信仰の起こり

 宇和島市にある和霊神社(写真3-2-13参照)は非業の死をとげた山家清兵衛公頼(やんべせいべえきみより)(*3)を祭っている。
 「清兵衛が和霊大明神になる過程は、我が国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰のひとつの典型である。御霊信仰とは、恨みを呑んで死んでいった者の怨霊(おんりょう)がこの世に崇るという信仰で、……代表的御霊には、藤原氏の陰謀の犠牲になった菅原道真(*4)や、反乱を起こして敗死した平将門(*4)などがある。 (①)」
 「またタタリをしずめるためにその怨霊・御霊を祭祀(さいし)し、祭礼をくりかえす結果、怨霊・御霊は荒ぶる霊からやがて平和な恵みをもたらす守護神すなわちニギミタマ(和霊・和魂)に変化し、かえって霊験あらたかな神となる。この御霊から和霊への変質も、御霊信仰のいま一つの特色である。(⑭)」
 この御霊から和霊への変質を経て、祭神山家清兵衛もまた霊験あらたかな神、和霊大明神として広く人々に信仰されるようになったと考えられる。

 (イ)信仰圏

 和霊信仰の広がりは、四国、九州、中国地方一円に及び、各地に和霊神社(独立社、境内社)が建てられたり、和霊神社の祭神が合祀されたりした。このように信仰圏が拡大したことについては、①四国巡礼、②宇和島との交易・交通(特に海上交通)の発達、③各地を巡業した人形芝居などが重要な役割を果たしたと思われる。
 **さんは「昔、宇和島にはたくさんの商い船がやって来ました。その乗組員たちが和霊神社の霊験あらたかなことを聞いて帰ります。四国巡礼の途中和霊神社に立ち寄る人もいました。芝居を見て人々は山家清兵衛の非業の死に心を打たれます。」と話している。また人々の間では、霊験あらたかなことに加えて神社が立派であったことも話題になったであろう。半井悟菴(なからいごあん)は『愛媛面影(⑯)』の中で「不思議の霊験あるに依(よ)りて諸人の信仰他に異なり、殿社の結構も亦(また)比類なし。」と記し、和霊神社の全景まで載せて紹介している。

 (ウ)カヤマチ(ワレイマチ)

 和霊信仰圏には、和霊祭の夜(旧暦6月23日が多い)蚊帳をつらずに寝るという習俗が各地にあった。これをカヤマチという(夜明かしをするカヤマチ、二十三夜待ち〔陰暦23日の夜、月待ちをすれば願い事がかなうという信仰〕の習俗や地蔵信仰と習合したカヤマチもある。)。例えば、徳島県名西郡石井町浦庄では「和霊さんの祭日の旧暦6月23日の夜は、ワレイマチといって全戸、蚊帳を吊(つ)らずに就床した。(⑭)」という。松山市三津浜では、「和霊の祭日には、カヤマチといって夜通し友達の家で遊ぶ。そうすれば願いごとがかなう。(⑭)」と信じられていた。県内の民俗に詳しい森正史さんは「私の在所、温泉郡重信町下林にも和霊神社(三奈良神社境内末社)があり、7月23日(旧6月23日)の晩には、必ず余興の奉納があり、かつ蚊帳待ちする民俗があった。もう24、5年前になるが、私もそれをした思い出がある。現在もしているけれども以前のように徹宵してやらなくなった。(⑰)」と記している。このカヤマチ(ワレイマチ)習俗は、祭神山家清兵衛が蚊帳の中で殺害されたという伝承から生まれたのであろう。住環境の変化などによって、最近蚊帳はほとんど家庭から姿を消した。平成7年7月30日付の『愛媛新聞』には「蚊帳 店頭から姿消す」という記事が載っていた。こうなると、和霊祭の晩の夜明かしはともかく、蚊帳をつらないという習俗がなくなるのは当然だと言わねばなるまい。

 イ 玉川町の和霊祭り

 **さん(越智郡玉川町法界寺 大正8年生まれ 76歳)

 (ア)玉川町の和霊神社

 越智郡玉川町法界寺の和霊神社は法界寺村の庄屋(しょうや)浮穴与右衛門包俊(かねとし)が延享3年(1746年)勧請(かんじょう)したものである。与右衛門は若いころから病気で悩んでいた。あるとき、大三島の大山祗神社の神官が和霊大明神の霊験を説いたので、宇和島の和霊神社に参詣し、祈願したところ病気が全快した。そこで分霊をしてもらい祭ったというのである。ここで注目しておきたいのは、宝永~寛政年間(1700年代)「宇和島藩がおこなった和霊神社での祈禱(きとう)内容は、雨乞(ご)いなど若干例をのぞくと、ほとんどが、病気回復、流行病除去であった。(⑭)」という事実である。
 「わたしの家は庄屋浮穴家の分家になるのです。」と語る**さんに話を伺った。
 「この玉川町法界寺の和霊神社は、当初庄屋の屋敷神でした。今でも祠が庭にあります(写真3-2-14参照)。ところが、霊験あらたかだという評判がたち、人々が屋敷内にやってくる。それでは困るということで三島神社へ移しました。参詣者はますます増え、最終的には寛政11年(1799年)現在の地に社殿を建てたということです。」『愛媛県の地名(⑱)』には、「今治藩主松平定剛(さだよし)も厚く崇敬し、桑坂山の七反(約70a)余を免地とし、寛政11年新しく本殿・拝殿を建築した。」と記述されている。この和霊神社は勧請のいきさつからも分かるように当初は病気平癒に効験があるとして地域の人々に尊崇されていたが、次第に漁業の神として瀬戸内の人々に信仰されるようになったようだ。
 「この神社は奉納幕(写真3-2-15参照)を見ても分かるように広島県の瀬戸内沿岸から愛媛県越智郡の島しょ部にかけての地域に信者が多いのです。しかし、どちらかというと広島県側の方に信者が多い。愛媛県側には大山祗神社がある、そのことと関係があるのでしょう。信者の多くは漁師さんたちです。漁師町である今治市の美保町にも信者が多いようです。祭りは毎年旧暦6月23日に行っています(平成7年は7月20日実施。)が、参詣人の中には現在でも祭りの前日にやって来てお籠(こも)りをする人がいます。団体で来ます。参籠(ろう)の場所は拝殿(写真3-2-16参照)ですが、参籠(ろう)者で満員になります。神主に御祈禱をしてもらった後酒宴となり、カラオケなどもやっています。一晩中寝やしません。ですからもちろん蚊帳はつりません。以前は立派な参籠殿がありました。そこには炊事場あり、風呂場あり、至れり尽せりの設備が整っていました。この参籠殿は台風で破損し、取り壊されました。」

 (イ)祭り今昔

 「お祭りの当日は二体の神輿(しんよ)が出ます。行列の先頭は矛(ほこ)です。以前は神輿に続いて獅子(しし)が舞いながらお旅所に向かっていました。また、わたしの子供のころには毛槍(やり)などを持った大名行列もあり、矢倉太鼓もあり、わたしも小さいころ、化粧をしてもらい、きれいな着物を着せられて、矢倉に乗って太鼓をたたいたこともあります。お旅所では、獅子の芸やお神楽のようなもの(神子の舞)もありました。宮出しは朝8時~9時ごろ、宮入りは夜8時~9時ごろです。二体の神輿のうち、一体は若者が担ぎ、一体は年寄りが担ぎます。以前は高張提灯(たかはりちょうちん)を持って神輿のお供をしていました。お旅所からは、若者の神輿は地域を回り、終わると宮入りの時刻まで三島神社に安置しておきます。年寄りの神輿はいったん帰り神主宅に安置しておいて、若者の神輿と合流して宮入りをします。今は矢倉太鼓も出ず、太鼓の音が聞こえなくなり、何となく寂しい感じです。現在二体の神輿を担ぐのが精一杯です。そこで神輿を一体にして矢倉太鼓や獅子を復活させようかと考えることもありますが、容易ではありません。」と**さんは語る。昔に比べると祭りの行列は寂しくなったようだが、**さんをはじめ地域の人々の協力によって玉川町の和霊祭りの伝統はしっかりと守られている。
 この和霊神社には、広島県加茂郡三津(みつ)町の網主たちの奉納した漁の有様を描いた絵馬などのほかに、「常社八景詩歌」「社頭俳諧連歌」「和霊詞八景句輯(しゅう)」などの奉納額があり文学的にも興味ある社である。


*3:山家清兵衛公頼は伊達政宗の家臣であり、宇和島藩主となった長子秀宗の家老として派遣され、藩の基礎づくりに尽力し
  たが、反対派の恨みをかい、元和6年(1620年)凶刃に倒れた。
*4:道真は天神様、将門は江戸の神田明神として祭られている。

写真3-2-13 和霊神社(宇和島市)

写真3-2-13 和霊神社(宇和島市)

平成7年6月撮影

写真3-2-14 庄屋浮穴家の祠

写真3-2-14 庄屋浮穴家の祠

平成7年7月撮影

写真3-2-15 玉川町和霊神社の奉納幕

写真3-2-15 玉川町和霊神社の奉納幕

平成7年7月撮影

写真3-2-16 玉川町和霊神社 拝殿

写真3-2-16 玉川町和霊神社 拝殿

平成7年7月撮影