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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)船で御城下へ

 ア 和霊大祭

 (ア)和霊大祭と宇和島まつり

 和霊大祭が7月24日中心に行われるというのは、山頼(やまより)和霊神社が建てられ、承応2年(1653年)6月24日遷宮が行われたという記録に基づいているようだ(山家清兵衛は寛永8年〔1631年〕八面荒神(*5)の一隅に児玉(みこたま)明神として初めて祭られたという。)。
 元禄15年(1702年)6月24日の祭礼から神輿渡りが始まり、享保14年(1729年)には、4代藩主伊達村年(むらとし)の夫人から笠鉾(かさぼこ)屋台が寄進され、次第に盛大な祭礼となっていった。一方和霊信仰圏も年とともに拡大し、「『村候(むらとき)公御代記録書抜』によると寛延三年(1750年)の和霊祭(6月)には『旅人入船 川口新町口見及候。入船高四百六十艘(そう) 十九艘旅船 旅人弐千百五人程』、宝暦八年(1758年)の祭において、『向新町宿付候、大洲・松山・讃州・土州参詣弐百七十六人、商人十五人。新町口見及候分、上州七百五十人程、大洲二百人程、松山六十人程。佐伯町口見及候分、土州六十二人、入船高三百三十五艘』であった。(⑭)」という。当時の祭りのにぎわいが推測できる。
 現在の和霊大祭も、参拝船の数こそ減ったが、市民はもとより、県内、県外からの参拝者で昔をしのぐにぎわいを見せている。ことに28年前(昭和42年〔1967年〕)から宇和島まつりが加わり、宇和島市あげての盛大な祭りとなっている。もちろんその中で和霊大祭は和霊神社夏季大祭として伝統を守っている。宇和島市商工観光課の話によると、宇和島まつりは今年(平成7年)で29回目、盛り上がりを期待して和霊大祭に合わせて始めたということである。期間は3日間(7月22~24日)、和霊大祭の祭礼行事と調整しながら、ストリートダンス、うわじまガイヤカーニバル、ブラスバンド(鼓隊)パレード、宇和島おどり大会、闘牛大会、牛鬼パレード(写真3-2-17参照)、花火大会など多彩な行事を企画している。

 (イ)走り込み

 和霊大祭の祭礼行事の中で最も有名なものは7月24日夜の走り込みであり、祭りのフィナーレをかざる最大の見物である。三体の神輿が神社前を流れている須賀(すか)川を経て勢いよく還御(かんぎょ)することを走り込みといい、両岸は見物客で埋め尽くされる。
 神輿の出御(しゅつぎょ)は午後5時過ぎ、神社境内に立てられた御神竹の周囲を勢いよくかけ回った後、市内を練り、お旅所(市内丸之内の和霊神社)へ向かう。お旅所では御旅所祭という神事が行われる。午後8時ごろ、神輿は新内港(市役所裏)に到着。そこに御座船が待ち受けている(写真3-2-18参照)。市内をパレードした企業や団体等が趣向を凝らして造った山車も勢ぞろい。中には顔にペインティングした若者もいる。新内港は新旧渾(こん)然一体の状況を呈している。いよいよ海上渡御、神輿は御座船に移され、船は図表3-2-5のような順序で港を後にした。
 船は須賀川河口付近に着岸、再び神輿は担がれて和霊神社へと向かう。一方、企業・団体等の山車は先回りをして須賀橋(和霊神社御幸橋の下(しも)に架かっている橋)のたもとから須賀川に入り両岸の見物人を楽しませる。やがて午後9時過ぎ神輿到着、同じく須賀橋のたもとから川の中へ。走り込みの始まりである。川の真ん中に立てられた御神竹の回りをかがり火に照らし出された神輿が巡る。若者が御神竹をよじ登り、先端の御幣を奪う。神輿は神社の階段を一気に駆け上り、人々の血を騒がせた走り込みは終わる。

 イ 遊子から御城下へ

 **さん(宇和島市遊子 大正13年生まれ 71歳)
 遊子(ゆす)の**さんは、持ち船を和霊大祭の折の神輿の海上渡御に何度も提供している。現在所有している船も提供したという話である。
 「戦前、わたしの家の船が先導船となったとき、須賀川の途中まで上りました(昔は船で須賀川をある程度上り、そこから走り込みが行われていたらしい。)。橋をくぐるために旗を倒し、船の煙突が橋につかえるときには、みんなで橋を持ち上げるようにして通った記憶があります。海上渡御の船の数は現在とあまり変わりません。航路もほぼ同じ(内港から須賀川)でした。わたしの小学校のころは網船だったので、すべてこいでいました。船の提供については和霊神社の役員から依頼されます。以前は提供を申し出る人もありました(特に新造船の船主)。今は割当て制で、今年は遊子の漁協に頼もう、九島の漁協にも依頼しようということになります。漁協の方から『お前とこの船を出せや。』と言って来ます。御座船は二隻をもやい(つなぎ合わせ)ましたので、御座船だけでも6隻必要でした。2隻の間にタイヤを入れ前後に2本の丸太を渡して縛ります。2隻の方が神輿を取り扱うとき都合がよいからです。御座船には担ぎ手も乗り込みます。彼等はずっと担いできたので暑くてたまらない。水をかぶったり、中にはビールをかけたりする者もいます。戦後わたしも神輿を担ぐくじに当たったことがあります。宮出しから宮入りまで担ぎました。須賀川では、ちょうど潮が満ちていて背が届かず、上を向いて担ぎ棒にすがって首を突き出していました。わたしは船を何回も提供したし、担ぎ手にもなりました。だから祭りのおもしろさもよく知っているし、何がつらいかも分かります。
 和霊大祭のときには、住吉小学校のあたりから、朝日運河、内港はもちろん、来村(くのむら)川坂下津(さかしづ)付近まで旗を立てた船で埋め尽くされました(図表3-2-6参照)。土佐(高知県)は言うに及ばず、中国地方(瀬戸内沿岸)、九州(大分、宮崎、鹿児島)の方の船も来ていました。どうして分かったかというと、船の形や大きさが違うからです。わたしの少年時代には遠くから見てもどこの船か分かりました。早い船は祭りの4、5日前からやって来ます。遊子の浜から見ていると7月20日ごろからお祭りに行く船が高島(遊子沖の島)あたりを次々と通って宇和島に向かっていました。人々が早くから来る主な目的は見物でした。宇和島に行けば、融通座、共楽座という芝居小屋があったので、芝居も見ることができ、活動写真もあります。サーカスや見世物小屋も出ています。以前の須賀川(*6)を埋め立てたところあたり(図表3-2-6参照)でサーカスや見世物をやっていたことを覚えています。もちろん露店もびっしり並んでいました。また、船で来る人ばかりではなく、現在の北宇和郡の吉田町、三間町、広見町、津島町から峠を越えて参拝に来る人たちもあり、和霊大祭になると夜通し騒がしく眠れなかったという街道筋の人もいたといいます。
 わたしの住んでいるところでは、和霊大祭が近づくと『ヒヨセマジ』という風がそよそよ吹きます。ちょうど麦たたきを始めるころでもあり、この風で麦の実と殼とをより分けながら、もうすぐお祭りに行けると楽しみにしていました。この『ヒヨセマジ』というのは南風で、遊子からみれば宇和島の方に向かって吹く風です。昔は、船に帆をかけ、この風を利用して和霊様のお祭りに行ったのです。だから、『ヒヨセマジ』のことをこの地方では『お祭り風』、『和霊様風』ともいいます。今でも『ヒヨセマジ』が吹き出すと、『おお、お祭り風が吹いて来たぞ。』と言って和霊大祭を心待ちにするのです。
 わたしが漁に出たのは5、6歳ごろからです。まさに『我は海の子』です。当然昔は漁船を仕立て(例えば本船2隻、うち1隻がもやった2隻の網船を引いて行く。)、最初からたくさんの旗を立てて和霊様のお祭りに行きました。網漁の組織でまとまって、その家族(22~25家族ぐらい)も含めて行くのです。船の中では酒宴が行われ、その料理は自分たちでつくる場合もありますが、宇和島の仕出し屋から取っていました。寝泊まりは船の中、飯は船で炊くか、市内の得意先の店で炊くかしていました。困るのは雨でした。雨が降ると『和霊さんの涙雨』だといっていました。雨のときにはシートをかけますが、蚊帳はつりませんでした。和霊様の祭りの日には蚊帳をつらないという習俗もさることながら、船の上ではなぜか蚊がほとんどいなかったのです。何しろ船が密集し、人間が多く集まっているので、蚊の数が相対的に少なくなったせいかもしれません。」と**さんは笑う。
 **さんがかつて船で和霊大祭にやって来ていたころの、大漁旗をなびかせた漁船が宇和島港を埋め尽くしたという光景は現在見ることができない。集まってくる船が少なくなったのである。それでも今年(平成7年)7月23日、新内港には旗を立てた参拝船が集まり、祭りの雰囲気を盛り上げていた(写真3-2-19参照)。船の中で酒を酌み交わしている人々もいた。

 ウ 大漁旗

 (ア)漁船ののぼりに伊達家の家紋

 和霊神社の祭神は、漁業神であり、農業神であり(和雲神社ではかつてお田植祭りが行われていた。)、商業の神でもあって、広く産業の神として敬われている。しかし、特に「和霊様は漁業の神さん」という観念が強く、今でも水産関係者の崇敬を集めている。
 「和霊大祭には漁船が大漁旗をなびかせて……」とよく表現されるが、その旗には縦長い旗(のぼり)と正方形に近い旗(いわゆる大漁旗)とがある。前者を「網印(あみじるし)」(網船の旗として使われていたらしい。)、後者を「フライ旗」と言う。こののぼり(網印)に宇和島地方では昔から宇和島藩主伊達家の家紋の一つである「九曜紋」を入れていた。「九曜紋」は宇和島藩の船印として使われていたらしく、㈶宇和島伊達文化保存会によれば、その証拠として慶応2年(1866年)英国の軍艦が宇和島に入港した折、九曜船印を贈呈したという伊達宗城(むねなり)の直筆が残っているという(今年〔平成7年〕宇和島市では英国との修好130年を記念して英国近衛(このえ)軍楽隊を迎え演奏会を行っている。)。**さんは、漁船ののぼりに伊達家の家紋を入れたことについて、「普通だったら漁船の旗に藩主の家紋を付けさせるということはない。それなのに付けさせたのは、いざというとき、漁船をすべて軍船にするという目的があったからではないか。旗の下を切って九曜紋だけの旗にすれば漁船は即座に軍船となる。これを企画したのは山家清兵衛だという話になっています。」と話している。ともあれ「九曜紋」を入れたのぼりによって、他藩の漁船との区別もでき、藩の許可を得ている漁船だということにもなったであろう。だてに伊達家の家紋を付けるようになったのではないはずである。黒田旗幟(のぼり)店の話では、今でものぼり(網印)には「九曜紋」を入れるが、最近は装飾のようなものになっている。一番上に「九曜紋」を入れ、その下に網主の家紋、次に船名、その下に絵を入れるということであった(写真3-2-21参照)。

 (イ)大漁旗づくり

 **さん(宇和島市栄町港 大正11年生まれ 73歳)
 **さん(宇和島市栄町港 昭和26年生まれ 44歳)
 **さんと同世代の**さんは、和霊大祭の折の近所の様子を次のように語っている。宇和島を知る者にとって懐かしい、あの温かみのある宇和島ことばで語ってもらえた。
 「昔は和霊様の祭りというたら、みんなそれを楽しみにしてなし、大人も子供も来よりましたけんど、船で来た人は大漁旗をテントのように張ってなし、自炊しよんなしたですらい。御飯を炊くけん言うて、うちらに水をもらいになし、漁師さん来よんなしたでっせ。また、近所にもち屋さんがあったんですのよ。おーた、そこのもち屋さんなんかは徹夜で仕事をしてなし、やっぱよう売れるんですと。金物屋さん(**さんの家の向かいの店)なし、ばけつやひしゃくがよう売れよりました。昔は下駄(げた)を履いて来よりましたけんなあ、朝の5時ごろからお参りに行きなはる人の下駄の音がカラカラ、カタコト、うちの前らなし、道が狭かったもんですけんよう聞こえよりました。昔のことを思うと夢みたいですらい。」
 **さんの家は旗やのぼりをつくり続けている老舗(しにせ)である。大漁旗づくりについて話を伺った(以下宇和島ことばの部分は**さんの話である。)。
 「漁船の旗は、新しく船を建造したとき御祝儀としてもらいます。わたしが仕事を始めたころには、和霊様のお祭り用に旗をつくる方がぼつぼつありましたが、今はほとんどありません。もらう旗の数が多いほど船主の威勢のよさを示すことになり、交際の広さを表すことになるのです。しかし、旗を何十本も立てると航行しにくく、『弱るぜ』と言う人もあり、せっかくもらっても、もう旗を立てるところがないという人もいます。だから船主さんによっては、旗は何本でよいと制限され、それ以上の注文が依頼主からあってもお宅の方で断ってくれと言われる方もあります。大漁旗は新造船と関係があるので、造船所の情報も必要です。船ができるまでに旗を間に合わさなければならないからです。
 大漁旗づくりは、漁業関係者の景気によって左右されます。以前旗の注文が大幅に減ったのは、とる漁業から育てる漁業に転換する時期でした。養殖漁業が軌道に乗ってから、またもとに戻りました。養殖関係の運搬船は大型ですから、昔にはなかったような大きな旗もつくるようになりました。」「以前南郡(なんぐん)(南宇和郡)の方は景気がよかったですけんなあ、富士絹(ふじぎぬ)(羽二重(はぶたえ)に似せた絹織物)でしたりなし、立派なものをしよりました。旗は離れて見るもんですけんなあ、なんぼええ生地でしましても離れて見れば絹でも木綿でもつい(同じ)ですらい。」
 「旗の絵で一番多いのはやはりえびす様、そして次に多いのがだるまさん、宝船などです。しかし、絵がらは時代に合わせるようにします。例えば昔はえびすだったらタイに決まっていました(写真3-2-22参照)が、今は真珠養殖業の船ならば、えびすが真珠を持っている、ハマチ養殖関係の船ならばハマチをだいているという絵になります。アコヤ貝に真珠が入っている絵もあります。また昔だったら波間にタイだったのが、波間にハマチになったりします。このハマチの彩色には苦労します。タイならば赤で栄えるが、ハマチの色は栄えないからです。注文主は大多数昔からのお客さんですから『あんたとこに任すけんいいのしとってや。』と一任されます。大漁旗は名前、船名がそれぞれ違うので手書きです。染料が変わったぐらいで工程などはすべて昔どおりです。日に5本か6本つくるのが精一杯です。」
 「機械でする大量生産と違いますけんなあ。のぼり屋で蔵が立ったためしがないと、うちの父がよう言いよりました。」「ほんとにそうです。都会の人が『それなのにそんな値段でできるのですか。』とびっくりします。近ごろは大漁旗形式ののれんもつくっています。これは都会の人が喜びます。また大漁旗を裁断してはんてんのようなものをつくる人もあるようです。都会の人で旅行中立ち寄られ、古い大漁旗はないかと聞かれる方もあります。これは余談ですが、大漁旗に女の裸を描いてくれと来られる若い人もいます。『うちでは描きません。描いても着物を着せますよ。』と言ってお断りします。そんな絵の旗を外に干せません。時代ですよね。」
 **さんの店では、のぼりや旗づくりを通して時代の変化を見つめてきた。最近、和霊大祭のとき入港する船が減り、1隻の船が立てる旗の数も少なくなったようである。「ほんでも和霊様のお祭りいうたら、やっぱ、皆さん大漁旗を頭に描きますらいなあ。」言われるとおりである。**さんたち(同業者も含む)のつくる大漁旗が宇和島の港にひるがえる、「祭りの空に大漁旗」、それが人々の胸に焼き付いている和霊大祭なのである。


*5:八面荒神は現在和霊神社境内の竃(かまど)神社に祭られている。
*6:須賀川は内港の土砂堆積防止のため昭和5年~昭和7年(1930~1932年)の間に付け替えられて現在の流路となる。

写真3-2-17 牛鬼パレード

写真3-2-17 牛鬼パレード

平成7年7月撮影

写真3-2-18 朝から停泊していた御座船

写真3-2-18 朝から停泊していた御座船

平成7年7月撮影

図表3-2-5 平成7年の海上渡御の船の順序

図表3-2-5 平成7年の海上渡御の船の順序

平成7年7月24日 見学により作成

図表3-2-6 昭和30年(1955年)ころの宇和島港

図表3-2-6 昭和30年(1955年)ころの宇和島港

当時の地図などを参考にして作成した略図。

写真3-2-19 新内港に集まった参拝船

写真3-2-19 新内港に集まった参拝船

平成7年7月撮影

写真3-2-21 「九曜紋」のついたのぼり

写真3-2-21 「九曜紋」のついたのぼり

平成7年7月撮影

写真3-2-22 従来どおりのえびすにタイの大漁旗

写真3-2-22 従来どおりのえびすにタイの大漁旗

平成7年6月撮影