データベース『えひめの記憶』

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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)朝湯を楽しむ

 ア 裸の付き合い

 (ア)一番乗り

 道後温泉元従業員の**さんは次のように語っている。
 「3階の勤務になると『時太鼓』をたたいていました。朝6時に六つ、正午は12、夕方6時には六つ、時の数に合わせてたたきます。今は朝6時30分だから六つより多くたたくそうです。ラジオの時報に合わせてたたくのですが、朝は、少し遅れても朝湯客がやかましいので気を遣いました。ドンと鳴ったら戸を開けます。『一番に入浴したらよいことがある。』と言っていた人もありました。皆さんどっと入って来られるので、はね飛ばされそうになります。常連客の中には、遅くなるといって入浴券を帰りがけに出す人もいました。」
 平成7年12月5日午前6時、すでに地元の朝湯客が7、8人。しばらくするとホテルからの着物姿の客も集まってくる。6時30分、太鼓の音に合わせて開館、40~50人の入浴客が一斉に館内へ。旅行客の多いのが目立つ。2階に上がるのもほとんど旅行客。しかし道後の朝湯の風景は昔も今も変わりがない。

 (イ)朝湯と人生

 **さん(松山市大街道 大正11年生まれ 73歳)
 スポーツ用品、体育設備等に関する会社を経営している**さんは、朝湯会の会長でもあり、若いころから道後温泉に通い続けている。
 「わたしは夢を抱いて中国東北部(旧満洲)に渡ったのですが、大学に入学して間もなく応召となりました。戦後の抑留生活中、東から昇る太陽に向かって『日本に帰って茶わんで白い飯を食ったら死んでもいいから日本に帰してくれ。』と、毎日拝むような生活をして、やっとの思いで、昭和22年(1947年)秋に復員してきました。そこでせっかく命拾いをして帰ったからには、温泉で大陸の土を洗い流し、きれいな新しい人生を送ろうと思って昭和24年ごろから、毎朝道後温泉の朝湯に通い始めたのです。家は御宝町(みたからまち)にあり、始発の市内電車で通っていました。そのころの一番電車は市駅前発午前6時(現在は午前6時30分)、朝湯に通う者にとっては都合のよい電車でした。
 毎日太鼓の音とともに道後温泉本館に上がり朝湯を楽しんでいるうちに知り合いができ、自然に本館の神の湯の2階休憩室に集まって、お茶を飲みながら20~30分雑談をするようになりました。それが朝湯会です。規約もなければ、会費も要らない。自然発生的な集まりでした。当時朝湯会のメンバーは政財界などのお歴々、その中で20代後半のわたしは一番弱輩でしたから、いろいろお世話をしていました。背中を流してあげると、『スポーツマンに背中を流してもろうたら長生きすらい。』と喜んでもらいました。朝湯会では、お互いに気心が知れているから何でも話すことができ、言いたいことが言える雰囲気がありました。若造のわたしも遠慮しないし、相手も『若者のくせに』とは言いません。理解ある人ばかりで、楽しい朝ぶろの会でした。もちろん先輩に対する礼儀は心得ていましたが。とにかく湯上がりで茶を飲みながらのよもやま話を楽しんでいました。政治の話から色気話まで、そして結論は『やっぱり温泉はええのう。』ということでした。この朝湯の付き合い、文字どおりの裸の付き合いの中からわたしの戦後の人生が始まり、その人間関係のおかげでわたしの今日があると思っています。
 朝湯会というのは当時有名でした。多い日には30人ぐらいが2階で車座になり、少ない日でも10人ぐらいは集まっていました。しかし、その後、先輩の皆さんは年をとり、中には亡くなる方もあり、だんだん少なくなって、いつの間にか、発足当時一番年が若く、世話役をしていたわたしが朝湯会会長といわれるようになりました。着物姿で下駄履き、湯かごを下げて温泉に通っていた人々を懐かしく思い出します。
 近ごろ毎朝毎朝通うことはなくなりました。しかし、特別のことがない限り、朝か昼か晩か毎日通っています。浴場では知り合いにたくさん出会います。朝湯で知り合った人というよりも日ごろの付き合いで知り合った人たちです。2階でも知人に会いますが、昔と比べると減りました。『わざわざ銭を払って2階に上がる必要はない。風呂はつい(同じ)じゃが。』と言う人もいるのでしょうか、2階に上がる地元の人は減ったようです。逆に観光客が増え、朝の2階は観光客がほとんどです。今も朝湯会は残っていますが、昔のような朝湯会は自然休会になっているというのが現状です。しかし現在でも朝湯を楽しんでいる人がいるはずですから、できれば昔どおりの朝湯会を再開させたいと思っています。道後温泉本館には、湯上がりにお茶をすすりながらくつろげる場所があり、みんな仲良く会話を楽しみ、情報交換もできる場所があるということを忘れてはいけません。
 朝湯のよさを感じだしたのは、通い始めて半年か1年ぐらいたったころでした。朝湯に入ると疲れがとれる。夏は、温泉で汗を流しておくと昼間汗の出が少なく、一日中さわやかだし、冬は一日中体がぽかぽか温かい。朝、ふろに入ると体がだるくて仕事にならないと言う人もあるが、わたしは逆でした。そこでますます病み付きになったのです。わたしは現在73歳、元気で仕事をしていますが、元気のもとは道後温泉にあると信じています。」と**さんは語っている。

 イ 温泉を支えた人

 (ア)温泉が止まった

 **さん(松山市道後今市 大正8年生まれ 76歳)
 「子供のころから道後温泉にはよく入っていました。家が樋又(ひまた)(道後樋又)でしたから、温泉まで歩いて行きました。当時、樋又から道後まで家がなく、樋又からでも温泉本館の振鷺閣(しんろかく)が見え、静かなとき、風向きによっては、太鼓の音も聞こえました。
 道後温泉には昭和19年(1944年)から60歳定年まで勤めました。主人に先立たれ、道後温泉で人が要るということで勤めるようになったのです。主人は昭和18年(1943年)8月に出征、その年の12月、スマトラで戦死。昭和18年の2月に結婚して8月に出征したのですから結婚生活はわずか半年、夢の中の出来事のようなものでした。勤め始めたころは日給1円、温泉の浴衣を縫う内職もしました。しかし、大勢の仲間に囲まれて働くことができたので、夫を亡くした寂しさを何とか紛らわすことができました。」
 昭和21年(1946年)12月21日午前4時20分南海地震発生。道後温泉の湧出が止まり、地元道後の人々はもちろん、松山市民に大きな衝撃を与えた。『道後温泉(㉒)』によれば「道後の温泉がとまったのは、嘉永7年(1854年)11月5日の地震以来数えて93年目、古代からの記録によると、第14回目の出来事である。」という。
 「南海地震のあった朝、出掛けに母が『地震で湯が止まったかもしれない。』と言いましたが、出勤してみると案の定止まっていました。朝湯の常連客もやって来て大騒ぎです。神の湯のところにある第一源泉(畳2畳ぐらいの井戸)の湯はからっぽで、岩が見えていました。翌年1月28日になって、やっと湯が湧出し始めましたが、湯が出たときは感激でした。よう忘れません。湧出を告げる太鼓の音を聞いた旅館のおかみさんたちが集まって来て、涙を流して喜んでいました。営業開始は3月20日、3か月休業しました。その間、わたしたちは、午前中は研修、午後は清掃というような毎日でした。また、10人ぐらいずつ交替で三津大可賀(松山市)の海岸まで行き、汐垢離(しおごり)(海水で身を清めること)をして、帰って湯神社で一日も早く湯が出るようにと祈願をしていました。往復徒歩でした。お湯が出るまで続けました。
 道後温泉には、松高生(旧制松山高等学校の学生)がよく来ていました。温泉に入ると勉強の能率が上がると言って毎日やって来る学生さんもいました。戦後、英語を教えてやると言ってくれる学生さんもいましたが、習いには行きませんでした。あのとき少しでも習っておけばよかったと今思っています。毎年卒業のときは、わたしたち従業員と一緒に記念写真を撮って帰って行きました。その卒業生で『医者になった。』とか言って訪ねてくれた人もあります。当時はカメラを持っている人も少なく、わざわざ写真屋さんを呼んで写してもらっていました。この記念写真は、わたしにとっても記念になる写真ですから今でも大切にしています。」

 (イ)戦後の生き字引

 **さん(松山市祝谷 大正11年生まれ 73歳)
 **さんは、昭和21年(1946年)中国より復員、昭和25年道後温泉に勤めることになった。
 「最初は下足番でしたが、仕事ぶりが認められたのでしょうか、間もなく進駐軍専用の『しらさぎ湯(*7)』の最初の職員になりました。仕事は言わばボーイであり、白いワイシャツに蝶ネクタイ、言葉が分からないから身ぶり手ぶりで応待しました。進駐軍専用の期間はものの半年ぐらいで、その後は日本人も利用できるようになりました。しかし、進駐軍の予約が入る(1時間半前には予約があった。)とその時刻の10分前には出てもらっていました。入口のネオンの文字は、「DOGO HOT SPRING」。正面は応接室。左の『虹』という名の浴室は有名で、浴槽の底がガラス張りでネオンがついていて桜の花びらが浮かび上がるようになっていました。右は、いわゆる洋風の『光』という名の浴室でした。後には日本人専用の家族ぶろ(鳩の湯、椿の湯)もできました。
 わたしが勤め始めたころは、本館は夜通し営業していました。当時の入浴料金7円、ある人に『道後で7円で泊まれるところがにいさんあるっちゅうが。』と聞かれたことがあるが、どうも本館のことであったらしい。その後、午前1時札止め、午前5時営業開始となり、その間に清掃をして湯を入れる仕事をしなければなりませんでした。昔は夜勤があり、夜中に清掃をしていたのです(後に夜勤の仕事は下請けとなる。)。浴場の清掃は重労働でした。汗が出てしまうという感じです。最初は塩辛い汗、しまいには味がなくなり、塩をなめながらしなければならないぐらいでした。しかし、気を配って隅々まで丁寧にやりました。例えば、浴槽の縁の外側のくぼんだところなどもたわしで洗います。手を抜くと朝湯の常連客富田喜平さんや富田狸通(りつう)さんにすぐ見破られます。ちょっと自慢話のように聞こえますが、他の従業員から『**さんのようにきれいにした人の後はつらい。すぐ言われるのでずぼらができない。』と言われたこともありました。富田喜平さんは『原泉社(*8)』6名のうちの一人だった人で、分からないことをよく教えてくれました。本館建築(明治27年〔1894年〕完成、平成6年築後百周年を迎えた。)やその時の道後湯之町町長伊佐庭如矢(いさにわゆきや)氏の話なども聞くことができました。
 現在神の湯女子浴室になっているところは、以前は『養生湯』という名の浴室でした。15段ほど階段を下りたところにあり、浴槽の底には砂が敷いてありました。わたしが勤め始めたころはよく停電があり、夜勤の者がろうそくの火を頼りに清掃をしていると、湯が上かってくる。横になると腹ぐらいまで湯がわいてきたということです。もともと自然に湯がわき出していたのでしょう。井戸を堀り、ポンプで湯を汲み上げるようになって止まったものと思われます。
 又新殿(ゆうしんでん)(皇族専用浴室)の係になったのは50歳代です。お客さんを案内して、説明する機会も多かったのでいろいろ調べ、勉強もしました。新たに分かった事実も説明に加えました(**さんの説明は評判がよく、見学者も増えたらしい。)。わたしは昭和57年(1982年)まで勤務したのですが、退職後も教育係として後輩の面倒をみています。正月など忙しいときには手伝うこともあります。『お父さん、年なのに、もうまあ遠慮したらどうぞな。』と家内に言われますが、『ほうよなあ、それでも呼ばれる間は。』と言ってとうとう13年間続けてきました。後輩には、『又新殿の説明は今の説明でよいと思うが、まだまだ堀り起こすべきものがあるのではないか』と話しています。」
 **さんは、昭和25年から今日まで45年間、自らの仕事を通して道後温泉を支え、その発展を見つめてきた人である。


*7:昭和25年道後公園内(現在の子規記念博物館の敷地)に建てられた。
*8:道後温泉の経営を監督する団体。明治8年(1875年)結成、6名の世話人で組織された。